2016年7月15日(金) オフの日

2016-07-15 23:59:16 | 日記
今日はオフの日。

天気は雨。気温はあまり上がらず、体感的には楽だったけど、
雨ってやはり気分的にどんよりさせるものがある。


昨年の今頃はちょうど介護職員初任者研修を受けていた。
その第6回目だっただろうか、
講師がなんと中学時代の同級生という劇的な邂逅があった。
35年ぶりの再会で、むこうは覚えていないようだったが、こっちは覚えていた。

その「先生」に昼休みに1時間、介護業界についてじっくり話を聞く機会があった。
彼が言うには、やはり国の財源がこれから枯渇することになるだろうし、
介護職員はただでさえ薄給で、結局は早期に燃え尽きちゃうことになりがちなんだよねぇ・・・。
というのが話の結論だったような記憶がある。

それから1年経って、自分は実際に介護職員として働いているわけだが、
彼の言っていたことは分かるような気がしないでもない。
早期に燃え尽きてしまう可能性は自分にもあるだろうと思う。

ちょっとついていけないなと思うことの一つは、「効率化」に対する意識。
業務は効率化するどころかどんどん煩雑化している印象がある。
サービスレベルの向上と業務効率化とはトレードオフの関係になりがちなのは分かる。
でも一方的に現場の業務が煩雑化するばかりではみんな早晩燃え尽きてしまう。
例えば各種記録のIT化などは今の時代当然考えられるべき方向だと思うが、
その気配は一向に感じられない。

自分がMBAで習得した概念では、
「効率化」は企業経営において必要条件であり、生き残るための絶対的前提である、
ということだったが(ちなみに十分条件は「差別化」つまり他と違うことをやる)、
介護業界では当てはまらないことなのだろうか?
その辺がいまいちまだよく分からない。



明日は早番(7:30~16:30)。6時に起きなくちゃ。




【時間も金もないので、どうせ読めないだろうけど、面白そうな本】



『原発プロパガンダ』
(著)本間龍
岩波新書


朝日新聞書評記事 7月10日

■巨額の広告費、メディアも陥落

 原発に反対する人は国と電力会社を批判する。権力におもねって、正確な報道をしないメディアも批判する。では両者の間をつないでいるのは誰? 広告代理店である。特に上位2社の電通と博報堂は原発の「必要性」と「安全性」を人々に刷り込む上で、不可欠な役割を果たしてきた。
 本間龍『原発プロパガンダ』は厳しくいいきる。〈一九五〇年代から国策として国が主導し、政官学と電力業界を中心とする経済界が展開した原発推進PR活動は、実施された期間と費やされた巨額の予算から考えて、まさしく世界でも類がないほどの国民扇動プロパガンダだった〉
 ナチス・ドイツにも似た巧妙な宣伝戦略。実際、1970年代から2011年の福島第一原発事故までの40年間、原発推進広告のために使われた額はじつに2兆4千億円超。巨大なグローバル企業の広告費でも年間500億円であることを思えば破格の額だ。しかもそのすべては利用者の電気料金で支払われる。半ば想像していたとはいえ、その内実を具体例とともにあらためて示されるとムカムカしてくる。
 原発立地地域の地方紙には巨大広告が載り、それと引きかえに原発に懐疑的な記事が消える。タレントや文化人を招いたシンポジウムの報告が、記事のような顔で載る。広告は載せるが原発批判も辞さなかった北海道新聞や新潟日報のような例はまれで、多くのメディアは札びらで頬をなでるようなやり方に陥落した。
 最大の問題はしかし、3・11後、一度は影をひそめた原発広告が13年3月ごろを境に復活していることだろう。「安全神話」のかわりに、現在流布されているのは「事故で放出された放射能の危険性は小さく、健康への悪影響はない」という「安心神話」だ。震災復興、風評被害対策という錦の御旗の下でくりかえされるプロパガンダ。自分は騙(だま)されていないといいきる自信があなたにはある?





2016年7月14日(木) 126日目

2016-07-15 00:48:27 | 日記
45回目の夜勤終了。

今回はリーダー業務だった。
17:30~19:30の時間帯は、遅番3人夜勤3人の6人体制で、
通常よりも余裕があり、導入がスムースにいったので、
その後も楽に進んだような気がする。

今回は何か問題が起きそうな感じがしていたが、
最後まで大きな問題もなくなんとか無難に終わらせることができた。
休憩も普通に取れてよかったのではないか。
気持ち的にはひやひやしてばかりだったけど・・・。


夜勤明け、ついつい酒量が増えてしまうが、いい加減にしないと・・・。



【時間も金もないので、どうせ読めないだろうけど、面白そうな本】



『遠読―〈世界文学システム〉への挑戦』
(著)フランコ・モレッティ
みすず書房


朝日新聞書評記事 7月10日

■読み切れない本を読むために

 世界中の文学作品全てに目を通すことができる人などいない。タイトルを把握するだけでも一生が終わってしまいかねない。しかし、各人が手にとった本を精読し、きちんと情報を交換していけばすぐれた本を見つけだすことはできるはずだ。
 本書のタイトル「遠読」は、その「精読」に対する単語である。半ば冗談でつくったという。精読が一冊一冊をていねいに読み込んでいくことを示すのに対し、遠読は個々の内容には踏み込まない、つまり読まないことを意味する。そのかわり、大量の本を扱ったり、登場人物たちのセリフの配置に注目したりする。いずれも、情報技術の発達によって実行可能となった読み方である。
 統計的な見方は、人間の信念や意図を別方向から眺めることを可能とする。モレッティは本書を、文学の変化とは隣の地域へと新たな形式が広がっていく「進化的」な過程であるとする論文ではじめる。九〇年代から二〇一〇年代に発表した論文計十編が収録されており、統計的な処理を通して文学を考えるという一つのジャンルの立ち上げを見ることができる。
 文学を統計的にとらえるという発想は反発をまねきがちだが、無論全員がそうする必要はなく、そういうことをする者もいたほうがよいというだけである。たとえば、精読はもちろん否定されないが、それで選ばれた「傑作」が「世界文学」としてふさわしいかはまた別問題だ。他に方法がないなら仕方がないが、現在はテクノロジーを利用した別視点がありうる。
 実際のところ、本書に出てくる手法は、生物学や物理学で使われてきたものと似通っている。科学の言葉であらゆることを押しきるのは横暴だが、便利な道具の利用を禁じるのは馬鹿げたことだ。それで果たして文学の新たな研究分野が開けそうかどうなのかは、本書を直接当たって頂くとよい。