(2004/アーウィン・ウィンクラー監督・共同製作/ケヴィン・クライン、アシュレイ・ジャッド、ジョナサン・プライス/125分)
アーウィン・ウィンクラー監督、ケヴィン・クライン主演という、「海辺の家」と同じ組み合わせの作品。タイトルは知ってましたが中身については未確認のまま、NHK-BS放送の録画を鑑賞。アメリカの作曲家コール・ポーターの半生を描いた、いわゆる音楽映画でした。
老境となったポーターが、天使(?)と共に半生を振り返るミュージカル仕立ての映画で、クラインの老けメイクも見所。
売れない作曲家コール・ポーターが、パリの社交界で美貌の離婚女性として有名だったリンダと知り合い、噂通りの美しさに惹かれる。リンダもコールの才能と愛情を信じ、彼のプロポーズを受けるが、二人の結婚を危惧する人達も大勢いた。何故なら、コールは男性にも愛情をかけられる男だったから。
コールはそれでもリンダと結婚したいと思い、自分がゲイであることを告白、リンダも承知していたのだが・・・。
芸能界にはバイセクシュアルが多いらしいですが、ポーターさんもそうでしたか。承知で結婚したリンダには、“結婚”と“社会的な成功”が彼の性癖を矯正してくれるとの思いがあったのでしょう、ブロードウェイでの小さな成功で満足するコールに、ハリウッドへの進出を後押しする。リンダの読み通り、コールは売れっ子作曲家となるが、皮肉なことに“ソチラ”の方はブロードウェイよりも映画の都の方が華やかで、コールの外泊により夫婦には小さな綻びが出来てしまう。
激しい夫婦喧嘩はなく、ソフトな心理戦のような綻びで、全体的にも夫婦や周りの友人達、芸能界の取り巻き連中を描く姿勢は落ち着いていて好感が持て、登場人物の心情は良く分かります。ハリウッドの男ばかりが集まるパーティーの描写もソフトで、古い時代の雰囲気を壊さないように気を使っているようでした。
中盤からは、乗馬の事故で脚に障害を負ったコールの再起をリンダが助けるという夫婦愛の話となり、最後は肺を病んだリンダとの別れのエピソードとなる。
ちょっと綺麗に装飾されている感は否めないけど、お涙頂戴でもないので、お薦め度は悪くはないです。
最初は誰だか分かりませんでした。改めてアシュレイ・ジャッドの美しさに惹かれる十瑠でした
<コール・ポーター(1891年6月9日 - 1964年10月15日)は、アメリカ合衆国の作曲家・作詞家。本名 Cole Albert Porter。ミュージカルや映画音楽の分野で、多くのスタンダード・ナンバーを残した。
インディアナ州生まれ。6歳でヴァイオリンを、8歳でピアノを習う。イェール大学卒業後、ハーバード大学に入学するが、最終的に音楽家としての道を選ぶ。
1915年、ブロードウェイ・ミュージカル『Hands Up』に楽曲提供し、本格的に作曲家として活動を開始する。しかし、翌年手がけた『まずアメリカを見よ』が、2週間で打ち切られるという挫折を経験し、その後パリに渡る。1918年、リンダ・リー・トーマスと出会う。コールは自分が同性愛者であることを告白するが、リンダが結婚に応じたという逸話があり、2004年に制作されたコールの伝記映画『五線譜のラブレター』(アーウィン・ウィンクラー監督)でも描かれている。ヨーロッパでも作曲活動を続け、1923年にはバレエ曲「Within The Quota」を作曲。しかし、依然として成功に恵まれず、1920年代後半に帰国した。
1930年、ミュージカル『ザ・ニューヨーカーズ』に「ラヴ・フォー・セール」等の楽曲を提供。この時も成功には至らず、逆に歌詞の内容が物議を醸すが、「ラヴ・フォー・セール」は後年スタンダード・ナンバーとなった。そして、1932年にはミュージカル『陽気な離婚(Gay Devorce)』が大ヒット。ここでフレッド・アステアが歌った「ナイト・アンド・デイ」は、コールの代表曲の一つとされる。1936年には映画『踊るアメリカ艦隊』に「イージー・トゥ・ラヴ」等を提供し、映画音楽の分野にも進出。
1948年、ミュージカル『キス・ミー・ケイト』が大ヒットし、トニー賞を受賞。その後も多くの曲を作るが、1964年、腎不全のためカリフォルニア州サンタモニカで亡くなる。>(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』)
アーウィン・ウィンクラー監督、ケヴィン・クライン主演という、「海辺の家」と同じ組み合わせの作品。タイトルは知ってましたが中身については未確認のまま、NHK-BS放送の録画を鑑賞。アメリカの作曲家コール・ポーターの半生を描いた、いわゆる音楽映画でした。
老境となったポーターが、天使(?)と共に半生を振り返るミュージカル仕立ての映画で、クラインの老けメイクも見所。
売れない作曲家コール・ポーターが、パリの社交界で美貌の離婚女性として有名だったリンダと知り合い、噂通りの美しさに惹かれる。リンダもコールの才能と愛情を信じ、彼のプロポーズを受けるが、二人の結婚を危惧する人達も大勢いた。何故なら、コールは男性にも愛情をかけられる男だったから。
コールはそれでもリンダと結婚したいと思い、自分がゲイであることを告白、リンダも承知していたのだが・・・。
芸能界にはバイセクシュアルが多いらしいですが、ポーターさんもそうでしたか。承知で結婚したリンダには、“結婚”と“社会的な成功”が彼の性癖を矯正してくれるとの思いがあったのでしょう、ブロードウェイでの小さな成功で満足するコールに、ハリウッドへの進出を後押しする。リンダの読み通り、コールは売れっ子作曲家となるが、皮肉なことに“ソチラ”の方はブロードウェイよりも映画の都の方が華やかで、コールの外泊により夫婦には小さな綻びが出来てしまう。
激しい夫婦喧嘩はなく、ソフトな心理戦のような綻びで、全体的にも夫婦や周りの友人達、芸能界の取り巻き連中を描く姿勢は落ち着いていて好感が持て、登場人物の心情は良く分かります。ハリウッドの男ばかりが集まるパーティーの描写もソフトで、古い時代の雰囲気を壊さないように気を使っているようでした。
中盤からは、乗馬の事故で脚に障害を負ったコールの再起をリンダが助けるという夫婦愛の話となり、最後は肺を病んだリンダとの別れのエピソードとなる。
ちょっと綺麗に装飾されている感は否めないけど、お涙頂戴でもないので、お薦め度は悪くはないです。
最初は誰だか分かりませんでした。改めてアシュレイ・ジャッドの美しさに惹かれる十瑠でした
<コール・ポーター(1891年6月9日 - 1964年10月15日)は、アメリカ合衆国の作曲家・作詞家。本名 Cole Albert Porter。ミュージカルや映画音楽の分野で、多くのスタンダード・ナンバーを残した。
インディアナ州生まれ。6歳でヴァイオリンを、8歳でピアノを習う。イェール大学卒業後、ハーバード大学に入学するが、最終的に音楽家としての道を選ぶ。
1915年、ブロードウェイ・ミュージカル『Hands Up』に楽曲提供し、本格的に作曲家として活動を開始する。しかし、翌年手がけた『まずアメリカを見よ』が、2週間で打ち切られるという挫折を経験し、その後パリに渡る。1918年、リンダ・リー・トーマスと出会う。コールは自分が同性愛者であることを告白するが、リンダが結婚に応じたという逸話があり、2004年に制作されたコールの伝記映画『五線譜のラブレター』(アーウィン・ウィンクラー監督)でも描かれている。ヨーロッパでも作曲活動を続け、1923年にはバレエ曲「Within The Quota」を作曲。しかし、依然として成功に恵まれず、1920年代後半に帰国した。
1930年、ミュージカル『ザ・ニューヨーカーズ』に「ラヴ・フォー・セール」等の楽曲を提供。この時も成功には至らず、逆に歌詞の内容が物議を醸すが、「ラヴ・フォー・セール」は後年スタンダード・ナンバーとなった。そして、1932年にはミュージカル『陽気な離婚(Gay Devorce)』が大ヒット。ここでフレッド・アステアが歌った「ナイト・アンド・デイ」は、コールの代表曲の一つとされる。1936年には映画『踊るアメリカ艦隊』に「イージー・トゥ・ラヴ」等を提供し、映画音楽の分野にも進出。
1948年、ミュージカル『キス・ミー・ケイト』が大ヒットし、トニー賞を受賞。その後も多くの曲を作るが、1964年、腎不全のためカリフォルニア州サンタモニカで亡くなる。>(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』)
・お薦め度【★★=悪くはないけどネ】
粉飾は多分にありますが、これなら「伝記文学」と似たようなレベルでしょう。
僕は☆三つ、双葉式で☆☆☆★だから、大体同じくらいの印象のようですね。
>アシュレイ・ジャッド
90年代半ば注目していました。同じ頃台頭してきたシャーリーズ・セロンとこんがらかることが1年ほどありましたが、今では勿論区別がつきます(因みに、全然似ていません)。
どちらも好みなんですよ、あはは。
TB&コメント有難うございました。
>どちらも好みなんですよ。
オカピーさんも面食いですな
「夜も昼も」は、タイトルとロック・ハドソン主演という事だけは承知してました。