(1930/監督・脚本:ルネ・クレール/アルベール・プレジャン、ポーラ・イルリ、ガストン・モド、エドモン・T・グレヴィル/75分)
昔はルネ・クレマンと名前をよく間違えたルネ・クレール監督。クレールの方が15歳年上で、19世紀末期に生まれたパリジャンとのことです。1923年から映画を撮っている彼の初のトーキー作品で、随所にサイレントの雰囲気が残っている。
巴里の下町を舞台にした恋の鞘当てに、ゴロツキやチンピラが絡む人情喜劇で、昔、土曜日の午後にあってた大阪の吉本新喜劇を思い出した。船場太郎や岡八郎が活躍していたコメディというのは、こういう映画を土台にしていたんでしょうなあ。
古い映画ファンにとっては、トーキーとしての新趣向が色々見られたとして記憶に残る作品らしい。例えば、遠景から近景になるに連れて近景の音が大きくなってくる音の<遠近法>、ドアの開閉によって会話のとぎれてしまう<省略法>など。もともとクレールはトーキーへの移行が遅かった人らしく、ただ音が出ればいいという作り方はいやだったのでしょう。
主人公の男性は街角で歌を歌ってその楽譜を売っているという、今から思えば信じられない職業の人です。その友人の男性も、又ヒロインも何をしている人かよく分からない。
下町のアパルトマンの人々も点描されているが、建物などは全てセットとのこと。石畳や、煙突が立ち並んだ屋根の風景はセットには見えませんでしたな。
ヒロインを追い回すゴロツキと楽譜売りが、ナイフを使ってケンカをする場面の迫力は意外なモノでした。
クレールは、「自由を我等に(1931)」や「巴里祭(1932)」の後、イギリスに渡って「幽霊西へ行く(1935)」を作り、第二次世界大戦の時は戦火を避けてハリウッドに渡り、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった(1945)」を作ったりした。
その他「リラの門(1957) 」「夜の騎士道(1955)」なども未見ですが作品名は知っています。
チャップリンのファンだったらしく、59年には「ルネ・クレールの 喜劇の黄金時代」という作品を監修している。42年の「奥様は魔女」は、あの“サマンサ”の原型らしいです。
昔はルネ・クレマンと名前をよく間違えたルネ・クレール監督。クレールの方が15歳年上で、19世紀末期に生まれたパリジャンとのことです。1923年から映画を撮っている彼の初のトーキー作品で、随所にサイレントの雰囲気が残っている。
巴里の下町を舞台にした恋の鞘当てに、ゴロツキやチンピラが絡む人情喜劇で、昔、土曜日の午後にあってた大阪の吉本新喜劇を思い出した。船場太郎や岡八郎が活躍していたコメディというのは、こういう映画を土台にしていたんでしょうなあ。
古い映画ファンにとっては、トーキーとしての新趣向が色々見られたとして記憶に残る作品らしい。例えば、遠景から近景になるに連れて近景の音が大きくなってくる音の<遠近法>、ドアの開閉によって会話のとぎれてしまう<省略法>など。もともとクレールはトーキーへの移行が遅かった人らしく、ただ音が出ればいいという作り方はいやだったのでしょう。
主人公の男性は街角で歌を歌ってその楽譜を売っているという、今から思えば信じられない職業の人です。その友人の男性も、又ヒロインも何をしている人かよく分からない。
下町のアパルトマンの人々も点描されているが、建物などは全てセットとのこと。石畳や、煙突が立ち並んだ屋根の風景はセットには見えませんでしたな。
ヒロインを追い回すゴロツキと楽譜売りが、ナイフを使ってケンカをする場面の迫力は意外なモノでした。
クレールは、「自由を我等に(1931)」や「巴里祭(1932)」の後、イギリスに渡って「幽霊西へ行く(1935)」を作り、第二次世界大戦の時は戦火を避けてハリウッドに渡り、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった(1945)」を作ったりした。
その他「リラの門(1957) 」「夜の騎士道(1955)」なども未見ですが作品名は知っています。
チャップリンのファンだったらしく、59年には「ルネ・クレールの 喜劇の黄金時代」という作品を監修している。42年の「奥様は魔女」は、あの“サマンサ”の原型らしいです。
・お薦め度【★=今となっては、お薦めしません】
無料とのことで、すんごくポピュラーなものしか扱わないと思っていたのですが、こんな古い映画を流すなんて愕きです。
さて、映画は全てセットとの解説だったですが、煙がオカしな具合でしたか?
どなたか詳しい方いらっしゃいませんか?
クレールさんの他の作品は未見ばかりなのです。
記事にあげてる分くらいは観ないとですね・・。