金沢文庫 「特別展 運慶―鎌倉幕府と霊験伝説―」
平成30年1月13日(土)~3月11日(日)
青空がまぶしいくらいの日に行ってきました。
先日の東博の運慶展とはまた違った視点の「運慶展」でした。(といっても運慶展には行けてなかったのでした...)
●まずは、運慶(?~1223)と慶派の仕事を、東国の地域からの視点で見ること。将軍・源頼朝、頼家、北条政子や時政、義時ら北条氏、東国のもののふたちと運慶・慶派とのつながりを追うと、時代をリアルに想像することができる。
●今は現存しない仏像でも、「模刻」や寺院の出土品、書物などを通して、運慶や慶派の仕事に迫っていること。
●そして「霊験伝説」。ふしぎな伝承を持つ、まさにその像たちが目の前にあるのは、なんともなんとも。
土日に二回行われている、ボランティアさんによる展示解説も拝聴してきましたので、以下、併せて備忘録です。(写真はフライヤー、カナフルTV(1月28日)、展覧会サイトから)
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一階では、金沢文庫や鎌倉幕府の紹介。
武家の暮らしや当時の市場の様子などを、一遍上人絵伝、絵師草子、西行物語絵巻などを用いた資料展示で紹介しているコーナーが楽しい。絵師草子では、土地を与えられてニコニコしている絵師の姿。
金沢北条家は、北条義時(二代執権)の子の分家。北条得宗家に次ぐ権門。
金沢文庫は、金沢北条家の実時が邸宅内に設けたのが始まり。鎌倉時代にもなると、武士も勉強しなくてはならないらしい。
鎌倉幕府滅亡後、文物は隣接する菩提寺「称名寺」によって管理される。称名寺の国宝や重文は、今は金沢文庫が管理している。(時間がなくて参拝できなかったのが無念。)
展示室には、称名寺の金堂壁画が復元されていた。表に「弥勒来迎図」、裏には「弥勒浄土図」。鎌倉時代の実物はかなり劣化しているのを、日本画家の林功(1946~2000)が考証し、再現したもの。そよ風とともに笙や笛、太鼓などが鳴らされる浄土のシーンなど、ふっくらとした流麗な線と鮮やかな彩色で、とても美しかった。
吾妻鏡(真名本、江戸時代)の版本も展示。運慶の記述があるそう。
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二階が、運慶展。(◎が運慶仏)
◆まずは、運慶の父、康慶の「地蔵御菩薩坐像」(重文)1177年 静岡・瑞林寺
意志的な面貌、がっしりとした体躯、深めで流麗な衣文に慶派の先駆性が見える
◆それから、運慶の作品を模して作ったと推察される、慶派の仏像。
運慶作ではないけれど、運慶のどの作品を模したのかは興味深く、また工房の商圏(?)が広範囲なのが面白い。
ずらりと並んだ、十二神将立像(鎌倉時代)(横須賀市の曹源寺)は見もの。
写実的な憤怒の形相、衣文、動きのある闊達な作風から運慶派と知れる。どれもひねりのある体勢なのに、芯がまっすぐ、体幹がすごい。
申神、辰神、馬神、、と十二の神様はそれぞれ干支の動物を頭上に載せているが、どう見ても名前と動物があっていない??。周囲の鑑賞者もざわついている。未神には愛らしい猿が乗っているし、卯神の頭上ではネズミが彼方を眺めている。これは長い年月のうちに動物が取れてしまったのを、江戸時代に修理した人がどれが何神かわからず適当に?くっつけちゃったらしい。近年の研究によって、本体を今の名前にしてあるけれども、こういうのって定義も正解もないのだそうな。
この十二神のうち、放つオーラが異質で強いのが、真ん中に立つ「巳神」。他よりひとまわり大きいが、それだけではない迫力。他の神よりも、彫が浅く、人間っぽい。
横須賀市の浄楽寺や、静岡の願成就院に伝わる運慶の毘沙門天立像に近しいらしい。今はなき永福寺の摸刻という説もある。
栃木の光得寺の「厨子入大日如座像」鎌倉時代 は、運慶の東寺の大日如来を参考にしたもの。高く結い上げた鬢、意志的でまるまるした顔、引き締まった体躯がその特徴とのこと。
「金剛力士像(東寺南大門様)」の二体は、30㎝ほどで、江戸時代の作なのだけど、今はない東寺の金剛力士像の姿を伝えるものとして、貴重。慶派の流れをくむ江戸時代の仏師が、大きな像を造るためのひな型として制作したものらしい
◆運慶仏
数は多くはないのだけど、誰がどういういきさつで運慶に発注したのか、興味深い。
◎「梵天座像」伝運慶・湛慶 1201年 愛知・滝山寺 は、頼朝の三回忌に、頼朝のいとこが発注したもの。
厚い胸板、はりのある肉付き。おおらかさ。後ろから見ると、さらに官能的ですらある。衣をかけられた後ろ姿の肩のラインの色っぽいこと。脇と腕のあいだのすきままでがセクシー。日本画の余白じゃないけど、運慶の余白までがこんなに魅力的とは。運慶展に行けなかったのがまたまた悔やまれる。
こちらは東寺講堂の立像を翻案したもの説あり。運慶は運慶は東寺の復興造営の際に、仏像群の修理を担当。その際に講堂の仏像から仏舎利が見つかり、運慶仏はご利益のある像として注目された。
◎「大威徳明王像」運慶 1216 神奈川・称名寺光明院 は、実朝の後宮の筆頭女房の大弐の局の発願によるもの。運慶の最晩年の作。
小さな明王だけれど、単眼鏡で右下のほうから見上げてみたら、レンズの円の中に、自分でおののいたほどの迫力。金の残る髪とともに上に立ち上るオーラが炎のようだった。
東寺の大徳明王を参考にしたとのこと。
◎抜頭面(瀬戸神社 1219年)は 頼朝が使用したのを、政子が奉納したもの。
蘭陵王の面(瀬戸神社)は 工房作。龍が頭にしがみついているのに圧倒される。この龍の形式は、運慶の興福寺の帯喰に酷似しているとのこと。
講座では、そもそも運慶が鎌倉に来たのは、北条時政、政子が頼朝に紹介したという説があるとのこと。日美たびでも、願成就院の御住職のお話として、1185年に頼朝の命で京都守護の任についた時政が、在京中に運慶とのつながりができ、離京の際に連れてきたのかも、とある。
運慶が東大寺の修復にかかる前には、作品年が明確にされない空白の7年程の期間があるらしいのだけれど、その間は鎌倉・永福寺の造営にかかっていたという。
永福寺は、戦没者の供養のために頼朝が建立したお寺。現存しないが、出土品が展示されていた。こんなにりっぱなお寺なら、運慶の大作がたっぷりあったに違いない。
その後、平家により焼け落ちた東大寺の再興を頼朝がバックアップした折、運慶ものみをふるう。本来は興福寺の担当だった慶派だけれど、頼朝と近いので、ではこちらもということになった、と講座でのお話。
◆霊験伝説 こういうお話は好きなほう。
神奈川・青雲寺の毘沙門天 は、兜がとりはずせる。生身仏。和田合戦のおりに、和田義盛の代わりに矢を受け、義盛を助けたと言い伝えられる。(が、別件で義盛は討死する。ご利益使い果たしたか。)
神奈川・光触寺(鎌倉~南北朝)阿弥陀三尊像 伝運慶 は、ある法師がお金を盗んだと疑われ、頬に焼き印を押されたが、やけどにならない。代わりにこちらの阿弥陀様がやけどをしていたという。黒っぽく、頬がぼこぼこしてはいたけれど。
頬焼阿弥陀縁起絵巻(鎌倉時代)も展示。運慶に制作依頼するシーンで、手付金?の反物が積み上げてある。運慶の姿が描かれる最古の絵巻。(ただし阿弥陀様は運慶ではなく、工房の作らしい)
宝生寺の十二神将立像は、北条義時の夢枕に立ち、行ってはいけないと告げる。鶴ヶ岡八幡へ向かう途中、犬が現れ立ち往生してるときにお告げを思い出し、引き返す。そうして鶴ケ岡八幡では将軍・実朝が暗殺され、義時は難を逃れる。
◆運慶の弟子や兄弟弟子による作品も、思いのほか見応えがあった。(素人ゆえなんでもよく見えるのだけれど、まったく見劣りしないというか)
運慶は、鎌倉幕府の注文を受け、何度も鎌倉へ赴く。あいだで本拠地の奈良や京都に帰国する際には、弟子たちが鎌倉やその周辺で制作を継続する。皆の力量が直に伝わる作品。
宗慶「阿弥陀如来坐像」埼玉・保寧寺1196 運慶の兄弟子
実慶「大日如来坐像」静岡・修禅寺 1210年 運慶の弟子か、兄弟子。将軍・頼家の妻の発願。
はっきりした顔立ち。黒目も大きい。毛彫りも見事。運慶のデビュー作・円成寺(奈良市)の大日如来坐像(国宝)に似ているそう。実慶では、「勢至菩薩立像」(かんなみ仏の里美術館)も展示。
最後に、”トランプ不動”とうわさになっているらしい「不動明王立像」 埼玉の鳩ケ谷・地蔵院 慶派(写真も地蔵院のサイトから)
お庭にはもう梅が咲いていました。
日美たび「伊豆へ 慶派の仏像に出会う旅」を見ると、今回のお寺を回っていて、私も行ってみたくなっています。
最近は1185年が、
「いい箱つくろう鎌倉幕府」成立となった風ですね。
司馬遼太郎が、鎌倉幕府を解説します。
日本史が、中国や朝鮮の歴史と 全く異なった歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府の時代だと申します。
素朴なリアリズムをよりどころにする「百姓の政権」が誕生してからです。彫刻などにも影響を与えました。
彫刻はリアリズムに満ちた技巧です。・・・素晴らしい・・・
鎌倉時代は、はじめての武家の政権ということで日本の歴史以来の大きな変化と思っていましたが、すなわち中国韓国ともとも違う道を歩きはじめるという面、なるほどです。
称名寺、行かれたのですね。金沢文庫まで行ったのにまだお寺の方は行ったことがなく、、。暑さがおさまったら行ってみようと思います。