はなナ

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●金沢文庫 「特別展 運慶―鎌倉幕府と霊験伝説―」

2018-02-18 | Art
金沢文庫 「特別展 運慶―鎌倉幕府と霊験伝説―」
平成30年1月13日(土)~3月11日(日)
 
青空がまぶしいくらいの日に行ってきました。
 
先日の東博の運慶展とはまた違った視点の「運慶展」でした。(といっても運慶展には行けてなかったのでした...)
 
●まずは、運慶(?~1223)と慶派の仕事を、東国の地域からの視点で見ること。将軍・源頼朝、頼家、北条政子や時政、義時ら北条氏、東国のもののふたちと運慶・慶派とのつながりを追うと、時代をリアルに想像することができる。
●今は現存しない仏像でも、「模刻」や寺院の出土品、書物などを通して、運慶や慶派の仕事に迫っていること。
●そして「霊験伝説」。ふしぎな伝承を持つ、まさにその像たちが目の前にあるのは、なんともなんとも。
 
土日に二回行われている、ボランティアさんによる展示解説も拝聴してきましたので、以下、併せて備忘録です。(写真はフライヤー、カナフルTV(1月28日)、展覧会サイトから)
 
一階では、金沢文庫や鎌倉幕府の紹介。
 
武家の暮らしや当時の市場の様子などを、一遍上人絵伝、絵師草子、西行物語絵巻などを用いた資料展示で紹介しているコーナーが楽しい。絵師草子では、土地を与えられてニコニコしている絵師の姿。
 
金沢北条家は、北条義時(二代執権)の子の分家。北条得宗家に次ぐ権門。
金沢文庫は、金沢北条家の実時が邸宅内に設けたのが始まり。鎌倉時代にもなると、武士も勉強しなくてはならないらしい。
鎌倉幕府滅亡後、文物は隣接する菩提寺称名寺によって管理される。称名寺の国宝や重文は、今は金沢文庫が管理している。(時間がなくて参拝できなかったのが無念。)
 
展示室には、称名寺の金堂壁画が復元されていた。表に「弥勒来迎図」、裏には「弥勒浄土図」。鎌倉時代の実物はかなり劣化しているのを、日本画家の林功(1946~2000)が考証し、再現したもの。そよ風とともに笙や笛、太鼓などが鳴らされる浄土のシーンなど、ふっくらとした流麗な線と鮮やかな彩色で、とても美しかった。
 
吾妻鏡(真名本、江戸時代)の版本も展示。運慶の記述があるそう。
 
 
二階が、運慶展。(◎が運慶仏)
 
◆まずは、運慶の父、康慶の「地蔵御菩薩坐像」(重文)1177年  静岡・瑞林寺
意志的な面貌、がっしりとした体躯、深めで流麗な衣文に慶派の先駆性が見える
 
 
◆それから、運慶の作品を模して作ったと推察される、慶派の仏像。
運慶作ではないけれど、運慶のどの作品を模したのかは興味深く、また工房の商圏(?)が広範囲なのが面白い。
 
ずらりと並んだ、十二神将立像(鎌倉時代)(横須賀市の曹源寺)は見もの。
写実的な憤怒の形相、衣文、動きのある闊達な作風から運慶派と知れる。どれもひねりのある体勢なのに、芯がまっすぐ、体幹がすごい。
 
申神、辰神、馬神、、と十二の神様はそれぞれ干支の動物を頭上に載せているが、どう見ても名前と動物があっていない??。周囲の鑑賞者もざわついている。未神には愛らしい猿が乗っているし、卯神の頭上ではネズミが彼方を眺めている。これは長い年月のうちに動物が取れてしまったのを、江戸時代に修理した人がどれが何神かわからず適当に?くっつけちゃったらしい。近年の研究によって、本体を今の名前にしてあるけれども、こういうのって定義も正解もないのだそうな。
 
この十二神のうち、放つオーラが異質で強いのが、真ん中に立つ「巳神」。他よりひとまわり大きいが、それだけではない迫力。他の神よりも、彫が浅く、人間っぽい。
 
横須賀市の浄楽寺や、静岡の願成就院に伝わる運慶の毘沙門天立像に近しいらしい。今はなき永福寺の摸刻という説もある。
 
 
栃木の光得寺の「厨子入大日如座像」鎌倉時代 は、運慶の東寺の大日如来を参考にしたもの。高く結い上げた鬢、意志的でまるまるした顔、引き締まった体躯がその特徴とのこと。
 
 
 
「金剛力士像(東寺南大門様)」の二体は、30㎝ほどで、江戸時代の作なのだけど、今はない東寺の金剛力士像の姿を伝えるものとして、貴重。慶派の流れをくむ江戸時代の仏師が、大きな像を造るためのひな型として制作したものらしい
 
 
 
運慶仏
数は多くはないのだけど、誰がどういういきさつで運慶に発注したのか、興味深い。
 
◎「梵天座像」伝運慶・湛慶 1201年 愛知・滝山寺 は、頼朝の三回忌に、頼朝のいとこが発注したもの。
 
厚い胸板、はりのある肉付き。おおらかさ。後ろから見ると、さらに官能的ですらある。衣をかけられた後ろ姿の肩のラインの色っぽいこと。脇と腕のあいだのすきままでがセクシー。日本画の余白じゃないけど、運慶の余白までがこんなに魅力的とは。運慶展に行けなかったのがまたまた悔やまれる。
 
こちらは東寺講堂の立像を翻案したもの説あり。運慶は運慶は東寺の復興造営の際に、仏像群の修理を担当。その際に講堂の仏像から仏舎利が見つかり、運慶仏はご利益のある像として注目された。
 
 
◎「大威徳明王像」運慶 1216 神奈川・称名寺光明院 は、実朝の後宮の筆頭女房の大弐の局の発願によるもの。運慶の最晩年の作。
 
小さな明王だけれど、単眼鏡で右下のほうから見上げてみたら、レンズの円の中に、自分でおののいたほどの迫力。金の残る髪とともに上に立ち上るオーラが炎のようだった。
東寺の大徳明王を参考にしたとのこと。
 
 
◎抜頭面(瀬戸神社 1219年)は 頼朝が使用したのを、政子が奉納したもの。

 

蘭陵王の面(瀬戸神社)は 工房作。龍が頭にしがみついているのに圧倒される。この龍の形式は、運慶の興福寺の帯喰に酷似しているとのこと。

 

 
講座では、そもそも運慶が鎌倉に来たのは、北条時政、政子が頼朝に紹介したという説があるとのこと。日美たびでも、願成就院の御住職のお話として、1185年に頼朝の命で京都守護の任についた時政が、在京中に運慶とのつながりができ、離京の際に連れてきたのかも、とある。
 
運慶が東大寺の修復にかかる前には、作品年が明確にされない空白の7年程の期間があるらしいのだけれど、その間は鎌倉・永福寺の造営にかかっていたという。
永福寺は、戦没者の供養のために頼朝が建立したお寺。現存しないが、出土品が展示されていた。こんなにりっぱなお寺なら、運慶の大作がたっぷりあったに違いない。
 
その後、平家により焼け落ちた東大寺の再興を頼朝がバックアップした折、運慶ものみをふるう。本来は興福寺の担当だった慶派だけれど、頼朝と近いので、ではこちらもということになった、と講座でのお話。
 
 
 
◆霊験伝説 こういうお話は好きなほう。
 
神奈川・青雲寺の毘沙門天 は、兜がとりはずせる。生身仏。和田合戦のおりに、和田義盛の代わりに矢を受け、義盛を助けたと言い伝えられる。(が、別件で義盛は討死する。ご利益使い果たしたか。)
 
 
神奈川・光触寺(鎌倉~南北朝)阿弥陀三尊像 伝運慶 は、ある法師がお金を盗んだと疑われ、頬に焼き印を押されたが、やけどにならない。代わりにこちらの阿弥陀様がやけどをしていたという。黒っぽく、頬がぼこぼこしてはいたけれど。

頬焼阿弥陀縁起絵巻(鎌倉時代)も展示。運慶に制作依頼するシーンで、手付金?の反物が積み上げてある。運慶の姿が描かれる最古の絵巻。(ただし阿弥陀様は運慶ではなく、工房の作らしい)

 

宝生寺の十二神将立像は、北条義時の夢枕に立ち、行ってはいけないと告げる。鶴ヶ岡八幡へ向かう途中、犬が現れ立ち往生してるときにお告げを思い出し、引き返す。そうして鶴ケ岡八幡では将軍・実朝が暗殺され、義時は難を逃れる。

 

◆運慶の弟子や兄弟弟子による作品も、思いのほか見応えがあった。(素人ゆえなんでもよく見えるのだけれど、まったく見劣りしないというか)

運慶は、鎌倉幕府の注文を受け、何度も鎌倉へ赴く。あいだで本拠地の奈良や京都に帰国する際には、弟子たちが鎌倉やその周辺で制作を継続する。皆の力量が直に伝わる作品。

宗慶「阿弥陀如来坐像」埼玉・保寧寺1196 運慶の兄弟子

 

実慶「大日如来坐像」静岡・修禅寺 1210年 運慶の弟子か、兄弟子。将軍・頼家の妻の発願。

はっきりした顔立ち。黒目も大きい。毛彫りも見事。運慶のデビュー作・円成寺(奈良市)の大日如来坐像(国宝)に似ているそう。実慶では、「勢至菩薩立像」(かんなみ仏の里美術館)も展示。

 

最後に、”トランプ不動”とうわさになっているらしい「不動明王立像」 埼玉の鳩ケ谷・地蔵院 慶派(写真も地蔵院のサイトから)

 

お庭にはもう梅が咲いていました。 

 

日美たび「伊豆へ 慶派の仏像に出会う旅」を見ると、今回のお寺を回っていて、私も行ってみたくなっています。