はなナ

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●萩原英雄の版画(吉祥寺美術館 萩原英雄記念室)

2017-02-11 | Art

吉祥寺美術館の中に小さなお部屋があった。
萩原英雄記念室 

会期:2016年11月17日(木)~2017年2月26日(日)

会期といっても、展示のタイトルは特にないようだけど、行ったときには、萩原英雄(1913~2007)の富士山のシリーズといくつかの抽象画の展示。

静かで、ただただそこに在るような、小さな版画。小畠鼎子展の合間のチラ見のつもりだったのが、すっかり足が止まってしまった。


抽象画はとてもよくて(私の理解なんてあやしいもんですが)、しばらく漂う。言葉として把握できるような感想もかけませんが、いいないいなあと。

「虹」1959 初期の作品

 

「港風景」1988 夕方前?海面が西日に輝く港を想像。

 

「星月夜」のシリーズはいつまででも見ていたくなる感じ。

「星月夜6」1980

「星月夜7」1980

星や月や空といった宇宙的なものと、体内の細胞が交感しあうような、つながっているような感じは、高山辰夫の絵を思い出す。高山辰夫が交感の道すじを描いているなら、萩原英雄は宇宙を体内の内側から描いているような。

 

「富士三十六景」のシリーズは、「星月夜」の翌年1981年から86年の作品。

富士山でありながら、その向こうにあるものを見ているような不思議な感じ。富士山は小さかったりシルエットになっていたり。けれどその時々の時間の光、季節、気象といったいろいろなものに、富士山がつつまれている。豪壮とか霊峰とかいうよりも、いつも一緒にいる愛すべき存在みたい。

「三十六富士 実りの時」

 

「三十六富士 雨後幻想」

 

「三十六富士 山又山」

 

あいまいな時間の空の色と雲が心地よい三十六富士シリーズ。萩原英雄は「三十六富士は故郷を、父母を恋いうる、私の心の詩である」と。山梨の生まれなのでした。

 

「大富士」シリーズになると、一変していました。富士が正面に大きく存在し、富士の内面に迫ったような。富士を包む空気や気温が、見ているとだんだん自分の肌感覚として感じられてくる。

「大富士 曙富士」1900

ピンクの空が美しくて。

 

「大富士 月夜富士」1900

 

静かな時間を過ごすことができました。頭で考えるとか美術鑑賞するとかいう時間じゃなかったみたいで、このお部屋を出たときには、休息したあとのような安らいだ感。

 

萩原英雄は、自然から学ぶという姿勢で、ひたすら写生に取り組んだそう。芸大では油絵を学び、戦争、戦後の極貧生活、肺結核の長い療養生活。(あまりによかったので買ってしまった)図録をめくると、初期の「二十世紀シリーズ」は重いテーマを突き付けてくるよう。ギリシャ神話シリーズ、イソップ童話シリーズ、砂上の星シリーズ、星月夜シリーズと、抽象の作品を通して見たいもの。

数ヶ月ごとに展示替えななっているので、また訪れたくなる時がありそう。


●織田一麿「大阪の河岸」(吉祥寺市立美術館)

2017-02-11 | Art

吉祥寺市立美術館 浜口陽三記念室「静かに、想うー浜口陽三・織田一磨」 

2016年11月17日(木)~2017年2月26日(日)

 

小畠鼎子展の隣の小さな浜口陽三記念室。その小さな一角に、織田一磨(1882-1956)(Wikipedia)の小さな版画が10数点。

そういえば近代美術館の版画の小部屋に、織田一磨の東京の風景の版画があった。その時はさらっと通り過ぎた記憶がある。

でもこの日はキラッと心に飛び込んでききた。(画像は絵ハガキから。)

川村清雄に絵画を習った織田一磨。あ、清雄に似てる!とうれしかったせいかもしれない。(川村清雄の以前の日記

織田一磨 「大阪の河岸「道頓堀夜景」」1934

河ににじむ灯りがきれい。障子ごしの灯りもいい感じ。そして煙突の煙や小舟をこぐ人影が好きなところ。左上の光まぶしいあたりは、今の道頓堀のメインのあたりかな。

縦に割った構図が、川村清雄の「ベニス風景」と重なる。

清雄は、パリを経て、1876年(明治9年!)から5年間ヴェネチアの絵画学校で学んだ。生涯ヴェネチアを懐かしんでいたそう。

一磨は1903年ごろから、風景画を清雄から学ぶ。

山水画の感覚に通じるこの割り方が好きなうえに、一磨の切り取る水辺の風情がとってもよくて。清雄から運河が走るヴェネチアの魅力を聞いたのだろうか。一磨はなにげない大阪の生活の場に、水辺都市としての美しさを認識している。

東洋のベニスと言われたのは堺だけれど、いやいや大阪も美しい。一回しかいったことがないのでよく知らないけど、グリコの人が走る以前の道頓堀は、今とは違う趣きだったのね。(グリコの人の初代看板が設置されたのは1935年。この版画の翌年。)


「心斎橋遠望」1934

建て込む木造家屋や竹垣。生活感ごしに、遠くに石造りの眼鏡橋が霞んで見える。

 

「千秋橋より」1934

河岸の蔵や密集した家屋のむこうに、ヨーロッパのような尖った屋根の教会や洋館。大阪の方は、どのあたりかわかるんでしょうか?

生活感を排除しない街中の水辺風景。雑多で混然としたものの魅力。旅人の気分になれる。

「明治の終わりか大正初期にかけて、大阪の美観が河岸の風景になったのでは。徳川からの並蔵や古い民家が所せまく重なり合い、暗い色調からは廃滅の詩情というような感傷的文学的内容を忍ばせ、(要約・略)」

「絵画的に見れば、線の錯綜からくるおもしろみと、色彩の対照から感じられる美観と(要約・略)」

近代化や開発の中で変容し、姿を消していく風景を惜しんで、一磨は「日に日に旧態の失われつつある河岸の魂に対して、慰めに贈る(略)」と、この自画集を発行した。

 

続いて、3~4枚だったか、廃墟の多色版画が。

「なつくさやつわものどもが夢のあと」シリーズ。コンクリの廃墟、あるものは軍艦島みたいな廃墟群。割れ落ちた壁から鉄筋がむき出しになったいる。すでに草にさえぎられそうな廃墟も。


失われつつあるもの。滅んだもの。生活感。都市。混在したもの。織田一磨の視線をもう少し感じてみたい。

 

東京・芝生まれの一磨は、幼少期を大阪で、そののち広島や東京、富山での疎開、再び大阪、東京・吉祥寺へと転居。視線の中には、風景への愛着のなかにも、どこか外から来たものの見る感覚が目隠れするような気もする。

16歳から広島の石版印刷所や大阪市役所の図案調製所に勤務し、分業で定型のものを作成していた時代から、絵を学び自力で図柄から印刷までを創作して「自画集」を出すまでの道も、彼が描いた都会の風景の中にも織り込まれているかもしれない。初期の「東京風景」1916年「大阪風景」1917年のシリーズの人間臭さやにぎやかな街に対する感覚も感じてみたいところ。

北斎をリスペクトしていたというのもひかれる。水彩画もよさそうで、その中に清雄的感覚を感じるのも楽しみ。

いつか機会がありますよう。

ついでに:織田一磨の家系をどんどんたどっていくと、織田信長にいきつく。織田有楽、織田しつしつ(以前の日記)と、織田家の系譜はアーティスティックなのかな。