はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●「青龍社の女性画家 小畠鼎子」吉祥寺美術館

2017-02-12 | Art

青龍社の女性画家 小畠鼎子 ~井の頭恩賜公園100周年記念~
~苦しみながら描くことの楽しみ~ 2017年1月14日(土)~2月26日(日)

企画展示室 | 武蔵野市立吉祥寺美術館

初めて聞く名前の女性。4人の子育てをしながら吉祥寺に住み、井の頭公園など身近なものを描いた。それであの劇場型大画面の青龍社に参加していたという。これだけ聞くと、なんだかそぐわない感じ。

(HP)小畠鼎子(こばたけ・ていこ 1898-1964)は、大正末期から昭和にかけ吉祥寺に暮らした日本画家です。師・川端龍子が昭和4(1929)年に創立した青龍社に当初より参加し、65歳で亡くなるまでの35年間、一貫して活動拠点を同社に置き、〈主婦〉として4人の子どもを育てながら、ひたむきに画に向かい続けました。
 
武蔵野市では、鼎子没年に受贈した1点に加え、当館開館前の平成8(1996)年にはご遺族から〈まくり〉状態 ―木枠やパネルから外された、本紙のみの状態。多くのものは、巻かれて保管されていました。― の鼎子作品46点の寄贈を受け、以来、修復処置を段階的に進めて参りました。本展では、平成26年度から28年度までに額装作業が完了した受贈後初公開作品を中心に、戦前・戦中・戦後にかけて制作された約20点の大作をご覧いただきます。
 
現存作例や文献資料に乏しく、また、残された作品それぞれも決して雄弁とは言えないながら、それらを通じて私たちは、身近な草花・鳥・動物に丹念に注がれた鼎子の視線に接近し、そして、鼎子が見つめた〈戦争〉への直面を迫られることとなるでしょう。
 
描くこと、あるいは思いのままに描けないことに苦しみながら、筆を持つ時間「只それのみの世界に入る事」を楽しんだ、鼎子。忘れられた女性画家の画業を、今、あらためて振り返ります。
 

1898年に生まれ、

1915年 東京府立第一高等女学校卒業。この頃から日本画家・池上秀畝に師事。

1922年(24歳)画家仲間の遠藤辰之助と結婚、吉祥寺に転居。川端龍子に入門。長女誕生

1923年(25歳)長女が亡くなる

1924年(26歳)長男誕生

1926年(28歳)次男誕生

1931年(33歳)次女誕生

1935年(37歳)三男誕生

昭和39(1964)年 1月、吉祥寺の自宅にて没。享年65歳。


見終わると、最初の印象はすっかりくつがえされていた。

初期のころの絵では、写実的な小品。

それから川端龍子に入門し、師の特徴である、大きな作品へ。構図も明快。

ちょうど期を同じくして、結婚、育児が始まる。乳飲み子を背負って、大森の龍子邸へ電車で通っていたとは。この大変さと意欲は、わかる~~。泣き出した子供を龍子の妻が面倒を見てくれたこともあったとか。

絵を描くのに、まとまった時間なんかとれなかっただろうと思う。夫の小畠辰之助はインドへ画業旅にでたりなんかしているけれど、鼎子の描くものは、身近な場所ばかり。そうなってしまうよね。

それでも、この子育てまっ最中のころの絵が、一番心に残った。

時間のない中で、折に触れ、近くの井の頭公園や自宅の木を見上げていた視線に、感じるものがあったんだと思う。時間がないから、描きたいものは増え、描きたい気持ちも描ける喜びも、自然と筆にのっていく。

でも、決して天才肌に絵がうまいとかでもない。子育てをしながら絵に生ききった三岸節子のように、強烈な個性を放つとかというわけでもない。

三岸節子も苦しんでいたけれど、鼎子も描く喜びの一方で、苦しんでいた。

1929年、31歳頃、「この頃の私は、どうしてこんなに絵が描けないのかと思うほどです。時間がないばかりでなく、絵というものの実に難しく、少しでも満足できるものが描けないのでございます。一昨年より去年、というように次第に難しくなるように思われます。」

思いだけではなんともならない気持ちのにじみ出る言葉が、ずしっと。

「ひとさまから、子供があり、家庭のことに追われて、何苦しんでるの、とよく言われます。しかし、人間には、何か楽しみがなくてはと思います。他に何か楽しみがない身には、筆をやめては生き甲斐がないのでございます。少なくとも、筆を持っております間だけは、何事もなく、ただそれのみの世界に入ることができると思いますので、先生はじめ社中の皆様にご迷惑と知りつつ・・(略)」

鼎子は、家庭の中のものや子供の寝顔とかそういうものは描いていない。遠くには行けないけれど、外にあるもの。

「青艶」 1937(39歳) 

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大きな絵。川端龍子の求めるものに答えようとしているような。家庭のことに追われようと、青龍社の個性的な面々と切磋しあう画家さん。

藤田嗣治はこの絵を観て重苦しいといったとか。

でも、私はいっぱい咲きほこる感じが好きだと思った。もっともっと花の呼吸にむせかえるほどになってほしいくらい。白い花びらは透けていて、緑も黄色も、色がきれいで。

と思っていると、孔雀の眼の、線の強さ、気迫。闘争的なほどで、息をのむ。

鼎子は、鳥に対して思い入れが強い。自宅に鳥小屋をつくっていろいろな種類の鳥を飼っていたそう。鳥を調達してきてくれるのは夫だったとか。

 

「桃枝三禽図」1944も、好きな絵。

青い鳥はりんとした目をしていた。去年の茶色い枝の合間に、今年伸びた枝が縦横無尽に。そこから出る小さな蕾。丸い蕾の、そのわきから少し顔を出した青い芽に気付いた時には、彼女が身近にあるこの木を見ていた、すき間の時間を実感して、なんだかじーんと。

ぱっと見じゃ見えない細部に、彼女の存在が静かに、細やかな描写。

ごつい古木の太い幹は激しいタッチだった。

彼女の絵は、パッと見たときの印象と違って、実はほんわかした感じではない。


育児や画業との戦いの一方で、鼎子の絵には戦争の影響も垣間見える。


突進 1943(45歳)

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 すうっと連れ添う鴨たち。うらに黄土色を施した裏彩色によって、水面の波紋が透けている。公園の池の橋の上で、眼下にこちらに向かってくるのをみていたのかな。

これは1943年の第11回に出品されたもの。遺族からは「鴨遊図」として送られてきたけれど、龍子目録の中には「突進の意」とあったとか。

やはり戦争画なのだと思う。

一見青く明るい色調の鴨の絵が、近づくと、印象が一変。鴨の眼は鋭く、一点を目指していた。逆立った羽根も俊敏に強くはらわれ、まるで戦地の爆撃がふりそそいでいるよう。鴨たちの気迫は、突進する兵士の小部隊。

日常の愛すべきものを描いたような絵ではない。彼女の性格的なものを見たような。彼女もまた日本の勝利を確信していたのだと思う。

三男(次男だったかな?)に、「良妻賢母で、皇国の母と身をもって呈す教育を受け、それを範として家庭があった」と回顧せしめた鼎子。

鼎子が戦争に対しどのようにかかわったかはわからない。1943年の三岸節子や長谷川君子らの女流画家美術奉公隊に、同じ青龍の谷口ふみえは入会したが、彼女はかかわった形跡はない。龍子は戦時中も青龍展を継続し続け、時流に反しない絵を描いた。


「増産」1944

数少ない人物の絵だそう。戦時中の食糧難にイモや麦などの栽培が奨励されたと。後方支援の意味ともとれる。

娘でしょうか、上に伸び上がるようなラインで、元気に芋を抜きあげて、ほこらしげ。ほっぺがかわいい。青々した葉っぱと、土から抜いたばかりで光合成してない白いつるが、臨場感ある。

 

「寒暁」1945

終戦の年の2月に、長男が戦死。まだ20歳。

これは6月の青龍展に出品されたもの。冷たい夜に、身をさらすように見上げていた心情を、察することもはばかられてしまう。むしろ、読み取れない。後悔なのか、脱力なのか、怒りなのか。読み取れないのは、彼女自身が心情を整理していないまま描いたからなのかも。

それにしてもそんなときによく絵を描きあげられたものと驚くけれど、やはり枝の一本一本にも幹にも、筆に力がないよう。龍子も前年に息子を戦地で亡くし、そんな中で「水雷神」という特攻隊を思わせる絵を描いている。鼎子も自らに課すしかなかったのかもしれない。

彫刻家でもある三男の宏志は、「敗戦後、ほとんど彼女の心に占めたのは、戦死した兄へし向けたしつけへの強い反省と向けばのない悲しみの日々」と。戦時下に忠実に「皇国の母」であろうとした彼女だったのに。

それでも彼女は絵の中に、自分の苦悩や悲しみを全面に描くことはしない。「ただそれのみの世界」なのでしょうか。彼女の絵から、彼女が心に抱えていた感情を読み取ることは、男性の絵よりも難しいかも。

「ぶどう」1945 戦争が終り10月の作。

背景に色を塗らないのは、絵の具不足のせい。下から見上げて光に透けるよう。ぶどうも瑞々しい。

やっぱりこの人の絵は、木を見上げて描いたのが好きだなあ。

 

1950年代には絵を発表する機会にも増えたそう。子育ても一段落したのでしょうか。

入口で出迎えていた「紅梅」1952は、戦後の絵の中で一番印象深かった。

銀地に、丁寧にしべは金。古木の質感がいいなあ。その中にグリーンの今年の若い枝が。

 

この後も青龍社一筋に描き続ける。少し画風が変わったかな。

「冬を楽しむ」 1954

ペンギンかわいいけれど、近づくと雄々しく立っている。水かきのうろこまでしっかり見ている。

他には「凍解け」1957、「鵜の春」1958、「鸚鵡図」不詳など、少し描く対象も広がってきたようにも。構図の狙い方も少しかわったような。

「ひな誕生」1960

 

最後の章のほぼ最後に展示してあった「かいつむり」不詳は、葦が印象的だった。金色が少し葉に入り光を浴びていた。透明感があって、わりに細密で、初期のころの作品かな。

1964年の一月に亡くなるその前年まで、青龍展に出品し続けている。あちこち人脈や他の会に活動の幅を広げたりという感じの女性ではなかったのかもしれないけれど、35年連続出品記念賞受賞ってすごい。二年後に龍子の死によって、青龍社も解散。


鼎子は多分、子育てが終わって時間のゆとりができても、やっぱり苦心しながら、描き続けていたんだろうと思う。「絵というものは、(略)下図ほどよくはできないんです」と。

感情を前面にあふれさせた絵ではなく、「奔放」「解放」「冒険」とかそういう言葉とも反対の感じの印象だった。

けれども近づくと、鼎子の感情が、わかりにくくその痕跡を残してあって、もどかしさを覚えつつも、そのもどかしさに自分が重なったりもする。