はなナ

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●織田一麿「大阪の河岸」(吉祥寺市立美術館)

2017-02-11 | Art

吉祥寺市立美術館 浜口陽三記念室「静かに、想うー浜口陽三・織田一磨」 

2016年11月17日(木)~2017年2月26日(日)

 

小畠鼎子展の隣の小さな浜口陽三記念室。その小さな一角に、織田一磨(1882-1956)(Wikipedia)の小さな版画が10数点。

そういえば近代美術館の版画の小部屋に、織田一磨の東京の風景の版画があった。その時はさらっと通り過ぎた記憶がある。

でもこの日はキラッと心に飛び込んでききた。(画像は絵ハガキから。)

川村清雄に絵画を習った織田一磨。あ、清雄に似てる!とうれしかったせいかもしれない。(川村清雄の以前の日記

織田一磨 「大阪の河岸「道頓堀夜景」」1934

河ににじむ灯りがきれい。障子ごしの灯りもいい感じ。そして煙突の煙や小舟をこぐ人影が好きなところ。左上の光まぶしいあたりは、今の道頓堀のメインのあたりかな。

縦に割った構図が、川村清雄の「ベニス風景」と重なる。

清雄は、パリを経て、1876年(明治9年!)から5年間ヴェネチアの絵画学校で学んだ。生涯ヴェネチアを懐かしんでいたそう。

一磨は1903年ごろから、風景画を清雄から学ぶ。

山水画の感覚に通じるこの割り方が好きなうえに、一磨の切り取る水辺の風情がとってもよくて。清雄から運河が走るヴェネチアの魅力を聞いたのだろうか。一磨はなにげない大阪の生活の場に、水辺都市としての美しさを認識している。

東洋のベニスと言われたのは堺だけれど、いやいや大阪も美しい。一回しかいったことがないのでよく知らないけど、グリコの人が走る以前の道頓堀は、今とは違う趣きだったのね。(グリコの人の初代看板が設置されたのは1935年。この版画の翌年。)


「心斎橋遠望」1934

建て込む木造家屋や竹垣。生活感ごしに、遠くに石造りの眼鏡橋が霞んで見える。

 

「千秋橋より」1934

河岸の蔵や密集した家屋のむこうに、ヨーロッパのような尖った屋根の教会や洋館。大阪の方は、どのあたりかわかるんでしょうか?

生活感を排除しない街中の水辺風景。雑多で混然としたものの魅力。旅人の気分になれる。

「明治の終わりか大正初期にかけて、大阪の美観が河岸の風景になったのでは。徳川からの並蔵や古い民家が所せまく重なり合い、暗い色調からは廃滅の詩情というような感傷的文学的内容を忍ばせ、(要約・略)」

「絵画的に見れば、線の錯綜からくるおもしろみと、色彩の対照から感じられる美観と(要約・略)」

近代化や開発の中で変容し、姿を消していく風景を惜しんで、一磨は「日に日に旧態の失われつつある河岸の魂に対して、慰めに贈る(略)」と、この自画集を発行した。

 

続いて、3~4枚だったか、廃墟の多色版画が。

「なつくさやつわものどもが夢のあと」シリーズ。コンクリの廃墟、あるものは軍艦島みたいな廃墟群。割れ落ちた壁から鉄筋がむき出しになったいる。すでに草にさえぎられそうな廃墟も。


失われつつあるもの。滅んだもの。生活感。都市。混在したもの。織田一磨の視線をもう少し感じてみたい。

 

東京・芝生まれの一磨は、幼少期を大阪で、そののち広島や東京、富山での疎開、再び大阪、東京・吉祥寺へと転居。視線の中には、風景への愛着のなかにも、どこか外から来たものの見る感覚が目隠れするような気もする。

16歳から広島の石版印刷所や大阪市役所の図案調製所に勤務し、分業で定型のものを作成していた時代から、絵を学び自力で図柄から印刷までを創作して「自画集」を出すまでの道も、彼が描いた都会の風景の中にも織り込まれているかもしれない。初期の「東京風景」1916年「大阪風景」1917年のシリーズの人間臭さやにぎやかな街に対する感覚も感じてみたいところ。

北斎をリスペクトしていたというのもひかれる。水彩画もよさそうで、その中に清雄的感覚を感じるのも楽しみ。

いつか機会がありますよう。

ついでに:織田一磨の家系をどんどんたどっていくと、織田信長にいきつく。織田有楽、織田しつしつ(以前の日記)と、織田家の系譜はアーティスティックなのかな。

 



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