はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●千葉市美術館「二つの柱ー江戸絵画/現代美術をめぐる」2

2016-06-28 | Art

千葉市美術館「二つの柱ー江戸絵画/現代美術をめぐる」2

の続き

 

見たかった渡辺崋山が、嬉遊会コレクションから二点♪。

渡辺崋山「厳寒二友図」1838

竹の葉を線で、梅の花を点で。墨だけで色がない効果なのか、点と線のリズムを感じる気が。速描きでならした崋山の、そのスピードに同化。手慣れた感じが、かっこいい。

渡辺崋山「黄雀窺蜘蛛図」1837

出光美術館の「??捉魚図(ろじそくぎょず)」と通じ、やはり聡明な感。朝顔や葉の淡さに見惚れました。

朝顔、蜘蛛、雀、竹は全て吉祥画題。

ですが、??捉魚図と同じく、どうしても、うすら寒いようなものを感じてしまう。一つ一つは美しく吉祥を表していても、これらが一枚の世界に共存すると、緊迫が生じ、平穏が壊れるその一瞬手前のような。

この絵も蟄居中の絵ゆえ作年を偽ってありますが、おそらくは自害する1841年かその前年に描かれたものらしい。蟄居中の心境、絵への表現としてのこれらの数作、気になる。

ドナルド・キーンさんの「渡辺崋山」によると、この時期に、借金返済と暮らしのためにかなりの数の絵を描いたようですから、吉祥画題をさらりと描いたこの絵もそういう一枚でしょうか。それでもどこかに心情を吐露させたと考えるのは、強引すぎでしょうか。

 

この「嬉遊会コレクション」とは、千葉県内の数名の美術を愛する会社経営者の方々が、買い集めた所蔵品を一般の方にも見てもらおうと、千葉市美術館に寄託されているとのこと。画集を購入しましたが、見てみたくなる作品ばかり。崋山のほか、やはり気になる山本梅逸も画集には二点。コレクション展が開催されるのを待ち望んでいます!

コレクション内では、崋山の弟子の福田半香「柳蔭納涼図」1846が。崋山の死後五年後の作。

英一蝶「張果老・松鶯・柳烏図」も。

白鷺と烏の対比の真ん中に、張果老の入るひょうたん。すうっと気が登り馬が天馬のように。ミニチュアみたいな小さい馬がかわいく。このお茶目な絵が掛け軸として成立するところが、日本の美って魅惑的だなあと思う。

 

「サトウ画廊コレクション」というコーナーもありました。現代アートの小品を中心に10点。

サトウ画廊さんは、戦後の昭和30年ごろから銀座で営業していたそうです。店主の佐藤さんを慕って画家がおいていった作品や、または佐藤さんが所望した作品400点が。現在は営業していませんが、千葉市美術館に寄贈されたとのこと。

画像がないですが、オノサトトシノブ「CIRCLE]、藤松博「羽ばたき」1956(赤い空気の波動のような)、タイガー立石「封函虎」1989(マッチが緑の虎に・・)など、色彩の取り合わせも印象深く、楽しいコーナーでした。

 

他の日本画も、魅力的な作品ばかり。

西川祐信(1671~1750 四季風俗図巻」(享保1716~36頃)

花見、川床遊びやお座敷遊び、紅葉狩りなど、京都のお気楽な遊び。線が美しく、着物や小物まで細やかに気が配られている。女子力の高さに感服。そしてひとしきり遊んだあとは、遠くに月を眺めて静かに終わるところが、いい。

 

歌川豊国はやはり面白い。「両画十二候 五月」享和元年1801


竹賢図の見立て。ゴージャスな着物を着ているのに、大きなタケノコを抱えて、どっすんとしりもちつく美人。竹林の向こうには水が流れ、美しくつつじが咲き。この確信犯的な趣向に膝を打つ。

 

浮世絵は勝川春湖、渓斎英泉、歌川国貞など見ごたえありましたが、中でも喜多川歌麿の「画本虫撰」1788に見惚れました。

さすが歌麿、人物以外も素晴らしく上手い!細密な描写にも感嘆だけど、さらに画面の配置と、織りなす線も流麗で素敵。小さな本の前で捕まってしまいました。展示以外のページは、国会図書館デジタルコレクションで見られます。

 

呉春「漁礁問答図」(天明1781~89)とその異母弟の松村景文「鮎図」(文政~天保1811~44)を一緒に見られたのも興味深かった。特に松村景文の鮎図は、涼やか。波の勢いと、小さいのに巧みに進む鮎。一匹はぴょんと跳ね、その動きに一瞬、心も跳ねる。

 

岡本 秋暉は、出会うたびにその繊細な美しさに足が止まってしまうのですが、今回見た二作は、ひとくせある趣き。

「百花一瓶図」は1の日記の通り、不可思議な一枚。

「蓮池遊漁図」は、先日、柏で見た摘水会記念文化振興財団の寄託。蓮の花よりも、葉のほうが存在を放っている。花はといえば薄く、しかも一つは枯れて首を垂れて水につき。一つはタネになりつつ、花びらがはらりと落ちている。静かなリアリズム。

 

河田小龍「草花図」19世紀、かなりリアルで、存在感のある絵。

土佐の出身。福山雅治の大河ドラマ「龍馬伝」で、リリーフランキーさんが演じていました。確か竜馬の家に上がりこんで、龍の絵を描いていたっけ。改めて調べると、アメリカ帰りのジョン万次郎の取り調べに当たるなど、面白い人。日本語を忘れていたジョン万次郎と寝起きをともにし、日本語を教え、英語を教えてもらい、鎖国日本と世界とのギャップに驚きます。竜馬に外国との貿易を説いたのも小龍。万次郎から聞いた話を記し、藩に献上した「漂巽紀畧」には、小龍の挿絵も入っているようなので気になります。改めて、今回はその絵と千葉市美術館で出会えて幸運でした。

 

鍬形蕙斎「草虫図」(1804~1824頃)は、チラシにも使われていました。

   

右幅は、青竹に巻き付く朝顔に蝶。左幅は、枯れた竹に夕顔、こうもり。ひとくせある感じ。流れるように目線を上に持っていかれる。夕顔の大きい葉と同じ形に共鳴したこうもり。後ろ姿が、ちょっとかわいくなってしまっているのがたのしい。

 

鍬形蕙斎(1764ー1824)では、「草花略画式」という絵手本の冊子も展示されていました。

以前、葛飾北斎の俯瞰図「木曽街道名所一覧」と並んで、「江戸俯瞰図」を見たことが。

鍬形蕙斎「江戸一目図屏風」

蕙斎は北斎の6歳年下ですが、まさに同時代の絵師。「俯瞰図」も「略画式」も鍬形蕙斎が始めたのに、北斎に真似されてしまう。俯瞰図は「俯瞰図といえば北斎」と言われるようになり、略画式も北斎漫画のほうが有名になってしまい、「北斎はとかく人の真似をなす。何でも己が始めたることなし」と怒っていたと。気の毒だけど、相手が悪かった・・・。しかも北斎は長生き。蕙斎の死後も25年も多く画業を極め続けることができた。

俯瞰図はちょっと北斎の方が超絶かなっと思ったけど、「草花略画式」も「草虫図」も、心惹かれた絵。鍬形蕙斎の絵を通してみてみたいものです。(「北斎にパクられ続けた男」とかって回顧展、どうかな)

 

曽我蕭白「獅子虎図」(1751~64)は、意外性の一枚。

虎は、せっかく虎なのに、負け犬風。獅子は虻にそんなに驚く?ってくらい驚き、岩にしがみつく。どちらも顔が最高♪。

 

俵屋宗達「許由巣父図」

伝説の世界。岩も木も、牛も幽玄。ぼかしとにじみが美しいです。畠山美術館の蓮池図で知った、宗達の繊細さ。これも少ししゃがんで、下から見上げると、何とも言えない心地よい世界でした。

 

風景の章では、鶴沢探山と丸山応挙の六曲一双の大きな屏風に、引き込まれました。

鶴沢探山(1655-1729)「山水図」1719、

玉澗のような破墨の部分もあるかと思うと、牧谿のような消えそうなくらいふわりとした部分も。師の狩野探幽の影響もあるでしょうか。絵では具体的な形は微かで、見る者の心の中でやっと情景が姿を現す。山から始まり、ふもとに村、気づくと月が出ている。下に目をやると水辺と舟。水辺は左隻につながると、浅瀬になり、やがて小さな集落に。そして山が広がる。光景を文で書くとよくある山水図になってしまいましたが、余白に漂えました。もう一度見たい絵です。(冒涜だとののしられそうだけど、その時のメモ↓)

 

円山応挙「富士三保図屏風」1779、大きなこの屏風とともに歩くと、去りがたいほど。

西洋風な画面構成を摂取した40代半ばの作とのこと。うっすら、形のイメージを投影させたような。立ち上る大気。海は薄い青色がとてもきれいだった。この広やかな開放感。なのに、筆跡は朴とつにのこる。点々とつけられた松原が狐の行列みたいで楽しい。全体的に大きいのに、あたたかい感じ。応挙の人柄かな。

ちょっと遠いけれど、行くたび必ず心満たされる千葉市美術館でした。


●千葉市美術館「二つの柱ー江戸絵画/現代美術をめぐる」1

2016-06-28 | Art

千葉市美術館「二つの柱ー江戸絵画/現代美術をめぐる」2016.6.1~6.26

「風景をテーマにしたもの、モノクロームの作品、私たちを取り巻く日常を題材にとるものなど、いくつかのテーマに沿って、江戸絵画と現代美術を同じ空間に取り合わせ、お楽しみいただきます。普段並ぶことの少ない作品同士の競演によって、時を経て大きく変化した美術のかたちを感じていただくとともに、その中でなお変わらないものを考えたり、意外な共通点を見つけたりと、様々な切り口からコレクションを眺めます。」

 

江戸絵画と現代アートが半分半分という構成ですが、154点一つ一つの作品が見ごたえあるので、共通点とか考える間もなく作品に没頭してしまいました。これで200円は申し訳ないくらいです。

入って釘付けになったのが、諏訪直樹「無限連鎖する絵画 part3(№32-50)1990

(一部の画像がこちらのリンクにあります

壁を直角に二面使っています。(諏訪直樹展1992年/有楽町アートフォーラムの画集の表紙)

壁に沿ってみていくと、絵巻物のよう。

黒をベースに、赤、青、緑などではらった筆。三角のモチーフが山に見え、山水画の世界かと。金の入った色彩は琳派のような印象も。四季や大気を感じる気がしながら進んでいくと、次第に黒く覆われた世界に。収束するのかと思えば、小さな波動が再び息を発し出し、今度は平行四辺形のような形が存在を誇示するかのよう。アクションペインティングのような筆も激しさを増し、感情が極まっていく。

そこで、絵巻物は突然、終わる。

はっと我に返る。絵とともに歩くので、この絵に入ってしまってました。激しいけれどどこか澄んでいるようです。

この絵は、36歳で突然カヌーの事故で亡くなった諏訪さんの、絶筆の最後のパート。解説には「作品を未完成に終わらせるために描き続けるという矛盾に身を置いた」と。まさにその通りで、この作品も、極みに達するその手前で、突然切れていた。

70年台後半の絵画の混乱の中、「絵画の再生を模索」していたと解説にあったとおり、模索の途上。冒険的で果敢な意欲。36歳という若さも作品の中に感じました。彼のこの先を見たかった。


現代アートでもう一つ、特に心に残ったのが、トーマス・ルフ「星 18h20m/65」。(画像はこちらから。展示では文字は入っていません)

高さ2.5メートル以上あったか、大きいです。ただ、星空といえばそれだけ。でも知らないだけでこんなにきれいだったのかと思うと、不可解な感覚に。夜空と自分。どちらがどちらを見ていたのか。私はいつも空を見ていたつもりだけど、もしかして空に見られていたのかも。または、「え、知らなかったのは君だけだよ。僕たちはずっとこうだよ」って言われているような、後だしじゃんけんされたような?。

それにしても、ほんとにきれいです。ところどころに星の砂のような形(逆か?)で光っている大きめの星も。いいよいいよ後出しじゃんけんでも、と妙に楽しく。

トーマスルフはほかにも小さな室内の写真も。

人がいないけど、人の気配がある。これも、こちらが見られてる感じが。

星の写真もそうですが、見られている感じになるのは、ルフの写真が、ふっと自分の存在を、他者のように俯瞰した瞬間をもたらしてくれるからなんでしょうか。


そんな風に思ったところで、振り返ると、人影が!い、いつからそこに。

柴田是真「くまなき影」1867

この影に見られていたような、いや、見ていた自分を自分が見ているような。パラレルワールド?。あなたの視線も私の視線も重なる瞬間のような。

これは明らかに美術館の計算ですね?!

しかもこれ、大好きな柴田是真。こういう版画を見たのは初めてで、うれしかった!このくまなき影シリーズは、他の作品も独特な世界のようでひかれます。

この「くまなき影」は死絵と言われるもの。「死絵」とは、例えば歌舞伎役者などが亡くなった時に訃報の意味も兼ねて擦られた浮世絵。

「八代目市川團十郎」無款 1854 の死絵はこんな風。画像はこちらから

 

ここまで、あまり章ごとのテーマを全く気にぜずここまで見てきたのですが、トーマス・ルフからこちらの死絵まである章は、「はざまにあるものー虚構と日常」というテーマ。まさにその通り。

「ありふれた日常の偶然に潜む現象をしなやかに転換させたこれらのイメージは、虚構(だったかな?)と現実、あるいはそのはざまにある深淵な世界に、見るものを誘います」と。確かにその通りの絵が並んでいました。

中でも、くらっとしそうだったのが、岡本秋きの「百花一瓶図」

不思議な一枚。一見は秀麗な百花繚乱。様々な花が花瓶からあふれている。なのによく見ると、違和感が心に広がる。青い牡丹の不可思議さ。梅、あじさい、水仙、菊と季節を問わず。見かけない花も。現実を超越した、宇宙的な感じすら。


千葉市美術館の学芸員さんてどんな方たちなんでしょう。大阪絵画のときには解説の言葉の豊かさにも感じ入りましたが、今回は、このすてきなたくらみ。美しい絵の世界に見せながら、時に足元をすくい、静かに攻めてくる。

この章は現代アートと、歌川国芳、勝川春湖、渓斎英泉のなどの浮世絵で構成されていますが、どれも見ていると、そもそも日常には現実と非現実が混在しているんじゃないか、それでいいんじゃないかと。なかなか心地よし、です。

2、日本画の感想に続く