はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●旧手賀教会 山下りんのイコン

2016-06-06 | Art

先日、千葉県柏市の旧手賀教会に行ってきました。首都圏最古のギリシャ正教の教会です。

かやぶきの農家といった建物です。

小高い山の中に、民家が点在する小さな集落。とても静かなところでした。

手賀教会は、ギリシャ正教。明治6年に信仰の自由が認められると、あのお茶の水のニコライ堂を建立したニコライが、全国に布教を始めます。このあたりでは明治12年に、12名が洗礼を受け、明治16年に民家を改装して、この教会ができたのだそうです。ニコライも洗礼に訪れたとのこと。

築年は出てきませんでしたが、この建物は江戸時代のものかも。

土壁に練りこまれたわらも見えて。

2.5畳ほどの玄関ホール、8畳と6畳の畳の間、増築した6畳弱の板の間、3畳の納戸がふたつ、といった、小さな農家。

窓としきりに手を加えただけなのですが、心に感じ入るものがありました。築は本部のニコライ堂よりも前ですから、司教さんと相談したりしながらリフォームしたのでしょうか。

窓は、漆喰でアーチ窓に改装され、十字の窓枠。当時のままのガラスなので、ゆがみや空気泡も見えて、温かみがあってとてもきれいでした。

昼でも薄暗い空間を、はだか電球がぽおっと。
アーチの向こうの聖堂は、今は何もない板の間なのですが、入ると空気がしんと変わったようでした。

異彩を放つ丹下健三の東京カテドラルに行った時も感動はしましたが、それとは全く正反対のこの教会は心に染み入るようで、静謐な雰囲気でした。

この教会も、そのあと苦難の道を歩んだようです。日露戦争時には、敵国の宗教とみなされ、第一次世界大戦やロシア革命で聖職者は減り、第二次世界大戦直前には、手賀教会から司祭が不在に。東西冷戦のさなかには、信徒は7人だけだったそうです。1974年に新しい教会として近くに移転してからは、司教も派遣してもらえるように。今はそちらで月に一回ミサが行われるそうです。詳しくは教会のHPで

 

建物に感動して、前置きがとんでもなく長くなりましたが、今回来たのは、山下りんのイコンにひかれて。

この教会には3点ありましたが、現在は複製がこちらにあり、本物は近くの新教会で保管されており、ふだん公開はしていないそうです。

山下りん(1857~1939)は、若桑みどりさんの「女流画家列伝」で知りました。(濃いタイトルですが、さりげに歯に衣着せぬ分析が面白いです。)

明治時代に、帝政ロシアでエルミタージュ美術館に通いつめ、模写をしていた日本人の女性がいたというのに驚きました。

りんのイコンは、ギリシャイコンと違って、柔らかでイタリア絵画のような印象です。フォンタネージの指導を受けたそうです。

笠間にある、白凛居というギャラリーでりんの作品を展示していますが、そこの解説と美の巨人で取り上げられた時の解説の抜粋。

・1857年笠間市生まれ。15歳で、「絵をもっと勉強したいのに、ここには良い先生がいない。」と家出。結局家に連れ戻されましたが、翌年、再び上京、浮世絵師や日本画家のところに弟子として住み込み、日本画を学び始めました。けれど弟子とは名ばかりで、実際は掃除や炊事洗濯ばかりの日々。
・明治10年 (1878)、明治政府が創った工部美術学校に合格。
・その工部美術学校のころ、同級生の影響で、ロシア正教に入信。その教会のロシア人神父ニコライは、ロシア正教を広めるため、日本各地に教会を建てようとしており、イコン(聖像)画を描ける人材を養成しようと。りんは「西洋の絵画を学ぶことができる。」と留学。
・明治13年、サンクトペテルブルグの女子修道院で、来る日も来る日も伝統的なイコンの勉強。エルミタージュ美術館へも行くように。イタリア絵画に魅せられたりんは模写に熱中。その結果、イコンの学習を疎かにしたと、修道院からはエルミタージュへ行くことを禁じられ、イコン漬けの日々。そして体調を崩し、5年の留学を2年に切り上げて、帰国。

・帰国後はイコンから遠のき、イラストレーター的な仕事をしていたようです。
・7年後、現在のニコライ堂内にアトリエを与えられ、本格的にイコンを描き始めました。後押ししたのは、ニコライの「日本の、日本人のためのイコンを描きなさい」という言葉だったそうです。

・その後20数年も描き続けましたが、時局の中でロシア正教が布教もままならなくなるなか、りんもイコンを描くことはなくなり、笠間に帰り、そこでなくなるそうです。 


学びたいのに学べない、描きたい絵があるのに描けない、りんの生涯はひたむきに戦っていたようで。それでも自分の描きたいものをなんとか表現しようとしたイコン。そう思うと、信仰のない私でも、りんのイコンの聖人のまっすぐこちらを見る表情に、りんの思いを感じた気がしました。本来定型からはずれることはできないイコンに、自分のエッセンスを織り込んだ、りんの強さ。日本人のためのイコン、鮮やかなりんのイコンは、この教会の信者さんたちに愛されていたんだろうと思いました。

今もおそらく通りの雰囲気はさほど変わっていないのではと思います。

小高い山を下りると、高島野十郎が描いたのと同じような柏の風景。

白鷺も。

自生のカラーも水路に見かけました。

手賀沼のほとりです。

車じゃないと不便ですが、運転しやすく和やかなところでした。

和む柏プチ旅でした。