はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

生まれ出(いず)る心に 10

2018年07月20日 10時48分02秒 | 生まれ出る心に


劉備は、暗くてよく見えねぇや、と言って頭巾を外すと、偉度と共に、さきほどの廃屋に気絶した黄淵を連れ込み、そして奉も助け出して、介抱してやった。
劉備はすっかり捕り物をするつもりだったようで、ちゃんと捕縛用の縄も用意していた。
ぐるぐる巻きにされた黄淵を転がしておき、奉の手当てがおわって、ひと段落ついたな、と偉度がほっとすると、とつぜん、それまで協力してことに当たってきた劉備が、偉度を殴り飛ばした。
「なにをなさいます!」
「黙れ、馬鹿野郎が!」
するどく重々しい叱責に、偉度は思わず口をつぐむ。
「偉度よ、おまえの前身がなんであろうと、わしはおまえを蔑んだりしねぇ。だがな、さっきのには呆れ返ったぜ。おまえ、拷問を楽しんでいやがったな。それじゃあ、こいつと何もかわらねぇじゃねぇか。しかも、宦官にして売り飛ばすたぁ、どういう了見だ! それがおまえのやり方ってやつか!」
「全部見ておられたのか」
二度も殴られた頬を庇いつつ、偉度は呻くように言う。
「孔明が見たら、泣き崩れるだろうよ。偉度よ、おまえが変わったのは表面だけか!」
孔明の名を持ち出された偉度は、相手が劉備だと言うこともわすれ、思わず声を荒げた。
「では、あんたはどうするつもりなんだ! せいぜい、そいつを警吏に渡して、法の裁きを受けさせるっていうだけなのだろう! それがあんたの正義なのか! 警吏に渡したところで、どんなに軍師が頑張っても、黄家の横槍で、こいつの罪は軽くなる。それが判っているのに、ただ捕らえて、役人に引き渡せと? それじゃあ、女たちの受けた苦しみはどうなる!」

劉備と偉度は、しばらく互いに無言のまま、視線を戦わせていた。

ふと、闇の中、くぐもった笑い声がする。
見ると、さきほどまで気絶していた黄淵が、目を覚まし、笑っているのであった。
劉備が、笑う黄淵に尋ねる。
「おまえ、なにが可笑しい」
「反省をしておりました、主公」
「わしの顔を知っておるのか」
「貴方様は特徴がございますゆえ、覚えておりました。どうぞ、それがしを警吏に引き渡してくださいませ」
ほう、と劉備は目を細めた。偉度は、いまいましさで、地面を蹴りたいくらいの気持ちであった。
反省だと? この男が、そんな殊勝な気持ちになるはずがない。
「あらいざらい、すべてお話いたします。どこの家の、どの女を襲ったか」
そういって、頭から血を垂らしつつ、笑う黄淵の笑みは、邪悪という表現がまさにぴたりと嵌まる、忌むべきものであった。
偉度は、本気で怖気を奮った。
この男の心根は、底の底まで腐り果てているのだ。
「そのときに、どんな様子だったか、中には、いやだいやだと言いながら、喜んでいる女もおりました。いえ、女という生き物は、所詮、力づくでものにされることを望んでいるのでございます。それがしは、女たちの望みをかなえてやっただけなのです」
「貴様、ふざけるな!」
介抱をうけていた奉が、黄淵に向かおうとするのを、偉度はあわてて引き止めた。
まさに、怒らせることが、この男の目的なのだ。
そうして、とことんまで人を苛めることを楽しみたいのだ。
黄淵は、鳩のような声をたてて笑いながら、言った。
「興味がおありでしょう、主公。すべてお話いたしますよ」
「いいや、いらねぇな」
偉度が初めて聞く、劉備の乾いた声であった。
はっとして見ると、その手には、奉が持っていた剣がある。
「おまえは警吏には渡さねぇ」
偉度は、劉備がどうするのかをすぐに悟った。
「お待ち下さいませ、主公が、御自ら手を下す価値のある男ではございませぬ!」
「いいや、偉度よ。警吏でも孔明でも、いまの黄家にゃ手を出せねぇ。あいつらの背後には、いまだわしらに心服してねぇ豪族どもがいるからだ。
だがな、この土地はわしの土地で、すべての責任はわしにあるのだ。こんな馬鹿野郎を今日までのさばらせてしまったのは、わしの徳が行き届かなかったからじゃねぇのか」
劉備は、ひきつった笑みをうかべ、剣を手にしたおのれを見上げる黄淵を、冷たく見据えた。
「漢嘉太守黄権の子淵よ、その名に免じて、おまえには、左将軍たるわしが、自らこの場にて裁きを下そう」
「ま…お待ち下さいませ、それがしは…!」
それ以上の問答はなかった。
ひゅっ、と空を切る音がした。
つづいて、どん、と重い一撃のあと、ごろん、と首の地面に落ちる音がした。
首を無くした身体は、しばらく血を吹いていたが、やがて均衡を失い、倒れた。

偉度の隣で、奉が、地面に蹲るようにして、声を上げて泣いていた。
恐怖か、怨みが晴らされたことによる興奮か、それともこの世の無情に対してか。
無意識のうちに、偉度は奉の背中を撫でさすってやっていた。
いままで、『兄弟たち』にさえ、こんなことをしてやったことはない。
「偉度よ」
「はい」
「すまねえが、後始末は頼んだぜ。それと、その兄さんを、ちゃんと家まで送ってやってくれ」
「判り申した。お待ち下さいませ、景に言って、主公に見送りを付けさせましょう」
「いらねぇよ。一人になりてぇんだ」
いいつつ、劉備は偉度に丸めた背中を向けたまま、赤頭巾を被った。
そうして、あばよ、と言って、片手を上げると、そのまま闇へ消えていく。
偉度は、黙って、その背中を見送った。

泣いているのだ。
こんな人でなしのためにさえ、あの人は本気で涙を流している。

見下ろすと、黄淵の、己の身に起こることを、最後まで理解できなかった顔が、闇の中に転がっていた。
他者の心が理解できないものには、真に己の心も理解できない。
空疎な、心なき者の末路が、目の前に転がっていた。





息子の非業の死を知った黄権は、怒り狂い、孔明や法正に、下手人を早急に捕まえて欲しいと、何度も訴状を送ったが、それが真剣に取り上げられることは一度もなかった。
豪族たちのさまざまな突き上げにも、沈黙したままの法正と、公平さを旨とする、らしからぬ孔明の態度に、周囲の者たちは首をひねった。
だが、やがて、どこからか話が流れて、黄権の子の、思わず耳を塞ぎたくなるようなひどい実態が知れたため、同情する声もしだいになくなり、やがて噂にも聞こえなくなった。
だれが説明したわけでもないのに、この処置が、正義であったと、長星橋の裏側に住む住人は、口々に言った。
黄権に雇われた者が、住民たちに、なにがあったのかを尋ねまわったが、口を開く者は、ひとりとしていなかったという。
黄淵は妻帯者で、皓という子がいたが、これは祖父の黄権が引き取ったことが、のちに偉度の耳に入ってきた。





黄淵の件が落ち着いてからほどなく、顔を見せないでいた薛が、左将軍府に元気な姿をあらわした。
見れば、あの夜に一緒だった、奉という青年を従えている。
薛は、偉度を見るや、丁寧に礼を取って、深々と頭を下げた。
「三日の期日をお守りいただきまして、ありがとうございます。亡き娘に代わりまして、御礼申し上げまする。わたくしも、世には悪ばかりではないのだと、救われた思いでございます。偉度さまは、わたくしどもの恩人です」
「よしてくれ。わたしは何もしていない」
謙遜でもなんでもなく、偉度は本気でそう思っていた。

赤頭巾をかぶって、しょげかえって夜道を帰っていった劉備の背中は、弱弱しいものですらあった。
なのに、偉度には、それがひどく大きく、超えがたいものに見えたのである。
おそらくあの背中を、一生忘れることはないだろう。

薛は、憂いの含まれた瞳に、それでも笑みを浮かべて、言った。
「すべてはこの奉から聞いております。今日は、あらためて御挨拶に参りました。実は、このたび、この奉を、正式に養子に迎えましてございます」
奉は、照れくさそうに、偉度に笑ってみせた。
「そう。そうかい。それはよい話じゃないか」
「はい、互いに蕭花を通して、父子となるはずだったのです。娘が死んだとはいえ、あらためて親子となってもおかしくはないでしょう。
わたしには子はなく、奉に親はない。これもめぐり合わせでございます。
もし、貴方様があの夜、奉をお助けくださいませんでしたなら、わたくしは、二人も子を失うところでございました。あなたはわたしと、娘と、奉の、三人を助けて下さった。なんと礼を申し述べてよいのやら、わかりませぬ」
そういって、薛は、感極まって涙をこぼした。
混じりけのない、純粋な、感謝のための涙であった。

そんなことはない、と二度目の否定をすることは、偉度にはできなかった。
堪えようにも、涙があふれて、止まらなかったのである。
普段は強気な偉度の、その涙する姿に、ほかの主簿たちや左将軍府の人々は、何事かと目を集めてくるが、それでも、偉度は、涙を袖で隠すのが精一杯で、声をたてずに泣くことしかできなかった。

本編おわり。
番外編につづく……

生まれ出(いず)る心に 9

2018年07月19日 09時22分23秒 | 生まれ出る心に


実のところ、偉度は気絶などしなかった。
たった一度だけ拳を叩きつけられたくらいで、気を失うような、ヤワな鍛え方はしていない。
避けようと思えば避けられた。
事前に、男…黄淵は、女を殴りつけてくる、ということは景から聞いていたし、人間という物はなぜか、悪事も善行も、いつも同じ方法を踏襲したがる。
わかっていながら、それでも避けなかったのは、女たちの味わった苦痛を、自分も同じように感じたかったからだ。
感じた上で、怒りと憎しみを、巫女のように呼び寄せて、この男にたっぷりと返してやるつもりであった。
けして、ただではおかない。

肩に担がれているのがわかる。
黄淵は慣れているのだろう、足取りもしっかりと、軽くはない偉度を木材でも運ぶように、息もほぼ乱さず歩く。
そのくせ、ぶつぶつとしきりに独り言を言っているのだが、それはほとんど意味を為さないもののうえ、早口なので、偉度には、はっきりと聞き取ることができなかった。
極上の獲物を得ることに成功した、狩人の気持ちなのであろう。
赤頭巾の殿様、下手に飛び出してこないと良いな、と偉度は思ったが、さすが、修羅場をいくつも潜り抜けてきた男だけあり、劉備は、いまのところ、様子を伺うことにしているようだ。
たしかに、この状態では、「女の格好をしていた男を懲らしめてやっただけ」と言い逃れされかねない。

黄淵は、やがて、偉度をどこか、ひと気のない廃屋へと連れ込んだ。
荷物のように、地面に落とされることを覚悟していた偉度であるが、意外にも黄淵は、そっと大切なものを扱うように、偉度を地面に横たえた。
いや、地面ではない。石畳の上のようだ。
うっすらと目を開くと、にじんだ月が真上に見える。
そして、痛みに呻くフリをして、手を動かすと、手の甲に、なにかが、柔らかさを含んで崩れたのが感じられた。
煙った香りが一瞬だけ感じ取れた。
そうか、火事で消失したものが、そのままになっている家、か。
偉度は合点しながらも、自分を、鼻息荒く見下ろしている男の気配をおぼえ、気絶のふりをつづけていた。
視線に敏感な偉度には、男が、やわらかな月光をたよりに、偉度の容姿が、自分の基準に合うかどうかを、じっくり確かめているのがわかった。
男が、蝋燭や行灯などを持っていなかったのは幸いである。
まさか、自分が攫ってきた者が、男だと言うことには、気づいていない様子だ。
頬を触れられる気配があり、肌の感触を確かめているのだと知れた。
このまま、手は襟元に行くか、それとも胸元にいくか、そうなったら、目を覚まさねばな、と思って身構える偉度であるが、男の手は、頬をなぞったあと、離れる。
そして、偉度は初めて、男の足音を聞いた。それが、離れていく。
なぜ離れる? 
もしや、攫う男と、襲う男と、別人なのか。
なればやっかいだな、と、ふたたび、うっすらと目を開き、闇の中に、もう一人の気配を探るが、廃屋は思った以上に狭く、見れば、焼け残った戸口から、男がきょろきょろと、こちらに背を向ける格好で、あたりを探っているのが見えた。
大胆な犯行を重ねながら、妙なところで神経質な男だな。
嫌悪と共に、偉度は思った。
無防備な娼妓を殴りつけて攫い、襲う。
それでは足らなくなり、今度は、市井の、気に入りの美人の家を狙って、押し込み、襲う。
そして我は黄家の息子なり、と、沈黙を無理に押し付け、去っていく。
この男は、卑劣な臆病者なのだ。

「だれかいるかい、黄家の若旦那」
黄淵が、ぎょっとして、こちらを振り向いた。
その顔。陳叔至と同じくらい、いや、輪をかけて特徴のない、それこそ、どこにでもいそうな顔をした男であった。
あまりに平凡な面構えをしているので、偉度は拍子抜けした。
もっと、醜怪な容貌をしているとか、悪鬼のような面構え、というのであれば、女たちを襲う理由、その歪んだ理由も、容姿がまずくて、女たちに相手をされないことを恨んで、ということで、説明がつけられたであろう。
しかし、黄淵は、あまりに普通の容貌をしていた。
加えて、父親に甘やかされ放題に甘やかされ、食うにも困らない生活をしている。
なにが気に入らない? なにに飢えている? 
おそらく問うても、本人にすら、うまく答えられないであろう。
手が届きそうで届かない、しかし確実に胸のうちに巣食っている、悪夢の塊。
ああ、またか、と偉度は暗然とし、上半身を起き上がらせると、うろたえている黄淵に尋ねた。

「だれもいやしないだろう。あんた、ここでこうして、いっつも女を手篭めにしていたのか」
「おまえ…男か?」
声でそれと知れたのだろう。
今更なうろたえぶりが可笑しくて、偉度は声をたてて笑う。
「そうだよ。残念だったね、女じゃなくて。今度から、獲物を吟味する時は、咽喉元に余計なものがないか、見ておくのだね。ただし、あんたの『今度』はもうないけれどね」
偉度は、にやりと不敵に笑みを見せると、隠し持っていた、愛用の短刀を抜き放つ。
それはおぼろな月の光を受けて、銀色に凶悪に輝いた。
黄淵の顔から、血の気が引くのがわかった。
「おや、もしかして実戦経験、ほとんどない? そうか、あんたは女を選ぶ時に、あまり戦わずに女を襲える家ばかり狙っていたのだな。臆病だから」
最後の、臆病、のひとことで、黄淵の頬がぴくりと動いたのがわかった。卑劣漢のくせに、誇りの高さは人並み以上、というわけだ。
「だれかを呼ばれて、武芸達者なり、警吏なりが追いかけてきたら、恐ろしいから、わざと女の身元がはっきりわかるような所持品を奪い、そしてあえて名乗ったのだね、漢嘉太守をつとめる黄家の息子だと。だから、自分の家より格式の高い家は狙えなかった。これも、怖いからさ」
「ちがう!」
黄淵の声は震えていた。しかし、それはおのれの悪事を掌握している偉度への怯えではなく、偉度の決め付けが許せないから、という様子である。
「おれは、臆病なんかじゃない! 臆病じゃないから、訴えられても怖くないから、名乗ったのだ!」

ふざけるな。
偉度は腸が煮えくり返るほどの怒り、というものを、はじめて他人のためにおぼえた。
この男の、なんと身勝手で醜い物言いか。
こいつは、自分以外を人間だと思っていない。
感情のあるものだと理解していない、偉度の天敵ともいうべき係累に属する、真の悪であった。

「臆病じゃない? それは、とてもいいことだと思うよ」
偉度は、ゆっくりと石の寝台から起き上がる。そして、女装を解かぬまま、短刀を構えた。
「では戦おうではないか」
黄淵は口ごもり、言葉を発さない。偉度は目を細め、己の頬から笑みを消した。
「あえて名乗らぬ。おとなしく死ね」
黄淵の、ぜっ、と息をのむ音が聞こえた。
戦うこともできない、こんなヤツのために、なぜ、苦しまなければならない人々がいるのか。
黄淵が戸口から、外へ逃げ出そうとする。
偉度は、領巾に仕込んでいた鏢を投げつけると、黄淵の足元に絡ませるようにした。
とたん、黄淵はもんどり打って倒れる。
偉度は、そのまま、領巾が引きちぎれるまで、容赦なく、黄淵をおのれの方に引き寄せる。
黄淵は、必死に逃れようとするものの、不様にあがくその指には、廃屋の泥が埋まっていくだけである。
「どうしたい、若さま、臆病じゃないのなら、なぜ女の格好をしているわたしから逃げなさる? 戦ってみたら如何か。それとも、女ならば勝てるけれど、男には勝てないと?」
「ち、ちが」
ちがう、と言いたいようであるが、偉度は聞かなかった。
そして、領巾で押さえつけるようにして、うつぶせになっている黄淵を蹴り飛ばして仰向けにし、まずは、のしかかるようにして、膝をうまく使い、相手の利き腕である右肩を外した。
黄淵のぶざまな悲鳴が廃屋中に響いた。
「なぜに嘆かれる、黄家の若さま。おかしいじゃないか、女だって、こうして泣いたり、叫んだり、許しを請うたりしただろう。それを聞かなかったあんたが、なぜに嘆くのだ」
「貴様、俺は、漢嘉太守の息子だぞ!」
「だからなんだね。わたしの知ったことじゃない。あんたが、女たちの幸せなんぞ、知ったことかと思ったように、わたしもあんたが誰であろうと、知ったことじゃないのだ!」
肩の痛みに呻きつつ、なおも起き上がろうとする黄淵の顎を、偉度は地面に押さえつけるようにして掴んだ。
ごん、と地面に後頭部がぶつかる音がする。
「わたしもいろいろ考えてね。あんたをどうするか、本当に真剣に考えた。笑わせるじゃないか。このわたしが、おまえなんかのために、頭を使わねばならなかったんだからね。それはたいしたものだよ、誉めてあげよう。
だがね、若様、あんたを殺しても、あんたに死に追いやられた娘は戻ってこないし、女たちの傷は癒えない。どうだろうね、若様。わたしにはたくさんの知り合いがいてね、あんた位の年の男の宦官を、捜している人間がいるのだよ」
「か、宦官?」
黄淵の引っくり返った声がする。
それが滑稽だったので、偉度は思わず残酷な笑みを浮かべた。
「そうだよ。宦官さ。ただね、そいつはちょっと変わった男でね。宦官といっても、自分の女に身の回りの世話をさせる男を、捜しているのじゃないのだ。つまり、女の代用品として、宦官が欲しいのだそうだ。あんた、いままで、さんざん手前勝手にいい思いをしてきたのだ。今度は、自分が役に立ってみないかい」
「い」
いやだ、と答えようとした黄淵は、いつのまにか、偉度の刃が股間にぴたりと当てられているのに気がつき、息を呑んだ。
もはや偉度は笑っていなかった。暗い目をして、黄淵を見据える。
「あいにくと、痛み止めもなにも持っていない。血があんまり出過ぎないことを祈るよ」
衣を割られ、冷たい刃の感触が、触れるか触れないかのところで感じ取れたのだろう。
それまで、恐怖と痛みに顔をゆがめ、震えていた黄淵が、突如としてされる直前の牛のように大暴れをはじめた。
しまった、追いつめすぎた、と偉度は後悔したが、遅かった。
馬乗りになった体の下で、黄淵は激しく暴れ、身をよじって、偉度を跳ね飛ばすと、外れた肩を抱えたまま、立ち上がった。
「待て!」
黄淵は聞かず、廃屋の戸口から、転がるように逃げていく。
必死な人間の抵抗の強さを、偉度は計算に入れていなかった。
震えて怯える黄淵の姿を前に、獰猛な苛虐心しかなくなった。
それとて、弱さである。
己の性を押さえつけられなかったことを呪いつつ、偉度は逃げる黄淵を追った。

と、暗闇から、黄淵の前に立ちふさがる影がある。
赤頭巾の殿様か、と思った偉度ではあるが、そうではなかった。
「黄家の息子だな? 娼妓たちから、おまえが今日もこのあたりをうろうろしていると聞いてきたのだ。ここで会ったが百年目ぞ! 蕭花の仇をとってくれよう!」
蕭花の婚約者であったという、奉であった。
なんと間の悪い、と偉度は舌打ちをした。
奉も決死の覚悟できたのだろう。
その手には剣が握られているが、握り方からして、まるで武芸をかじったことのない男の物腰だとわかる。
黄淵も敏感にそれを感じ取ったらしく、外されていない左腕を振り上げるや、奉の横面を難なく殴り飛ばすと、その手から剣を奪い、横倒れになって呻いている奉の咽喉元に、剣を突き立てた。
「止まれ! さもなくば、こいつを殺すぞ!」
「とことんまで腐った男だね」
憎まれ口を叩く偉度であるが、言われたとおり、黙って従うしかない。
足を止めると、黄淵は、咽喉元に剣を突きたてたまま、じりじりと後退していく。
偉度の脳裏には、つぎに黄淵がどうするか、たいがいの予想ができた。
かつての自分なら迷わずそうしたし、そうしろと、教えられてもいたこと。
すなわち、奉を刺し、こちらが手当てのために足止めを食らっているあいだに、逃げるつもりなのだ。
頭に差したままになっている銀の簪は、武器もなるものである。
ここで簪を手裏剣の如く投じて、黄淵の手から剣を奪うことも可能だが、しかしあまりに暗すぎた。
朧月夜のおかげで、だいたいの形はわかるものの、細かいところまでが見切れない。
下手にこちらが動けば、黄淵は迷うまい。
むしろ、さらに残酷な所業に、追い立ててしまうことになるかもしれない。
どうする? 
いちかばちか…
ゆっくりと、銀の簪に手をかけたそのとき、黄淵の背後にて、赤いものがあらわれた。
赤頭巾である。
両手には大きな石を持っており、偉度にばかり集中している黄淵は、後頭部に迫る赤頭巾に気づかなかった。
やがて、がつん、と音がして、黄淵の後頭部に石が落とされた。

つづく……

生まれ出(いず)る心に 8

2018年07月18日 09時26分06秒 | 生まれ出る心に
偉度は動く彫像のように、のったりとした人々の動きを横目にみながら、しばらく広場や、あちこちの路地を徘徊した。
そうして、まさに唐突に気づいた。
いまは、お勤めをしているので気負っているからだろうか、最初に、この場所に足を踏み入れたときにおぼえた恐ろしさが、いまはない。
荊州にて分かれた兄弟たちの姿を、ここで見つけてしまうことの恐ろしさ。

恐ろしさ、か。

ふと、己の不甲斐なさがおかしくなって、偉度は思わず、自嘲の笑みをこぼす。そうして、天空にあり、黒い群雲のなかに見える、にじんだ月を見上げた。
あのひとならば、こんなことは思うまい。
たとえ見つけてしまったとしても、ひとたび己の手から漏れた水ならば、乾ききってしまわぬうちに、また掬ってみせようと、嘆くことすらせずに、全身全霊を傾けるであろう。
覆水盆に還らず、なんて言葉は通用しないくらい、しつこいというか、ねばり強いのだから。

不意に体じゅうが、ふわりと羽根のように軽くなった心地がして、ああ、わたしは本当に救われていたのだな、と偉度はあらためて思う。
ついさっきまで、自分の過去、その意味を忘れるほどに、黄淵をおびき寄せることに集中していた。
なんの疑問も思うことなく、闇への嫌悪も忘れて。
ほんとうにさっきまでは、黄淵の歪んだ欲望のために、幸福を摘み取られ、人生を狂わされた女たちのために、ただそれだけのために純粋に動いていた。
動くおのれを疑問に思うことすらしていなかった。

もしも十年前の自分がここにいて、いまの姿を見たら嘲笑したことであろう。
そんなことをしてやったって、だれに感謝されるわけじゃなし、こんな命令はだれからも受けちゃいない。
相手は黄家という、成都の豪族のなかでも名門なのだ。面倒をどうして自分から呼び込む真似をするのだ?
偉度は過去のおのれに言い聞かせる。
だから言っただろう、単なる縄張り争いなのだ。
光にねじ込もうとする歪んだ闇を、叩き潰す。それだけのこと。そのために、自分は生かされているのさ。
昔のおまえは、意味も判らず、命じられるまま、人を殺めていた。莫迦な連中の便利な掃除屋がおまえだった。
いまは、意味のある殺しをしているのさ。莫迦よりは、ちょっとマシな程度の連中のための、掃除屋。
そう、立場自体は、変わりはしないのだ。

どこかの店から、気だるげな筝の音が流れてくる。
たしか、これは最近、流行っていた歌だったな。あのひとが、気づいていたかはしらないけれど、口ずさんでいたっけ。どこで覚えたのやら。
偉度は笑いながらも、筝に触発されるようにして、一緒になって唄を口ずさみはじめた。
それは、男の訪問が、ぱたりとなくなったことを嘆く、娘の唄である。
このまま見捨てられるくらいならば、死んだほうがいい、こちらはすっかり婚儀を挙げるつもりでいたのに、兄弟からも身持ちが悪いように思われて、このままどうして生けていけ、というのか…詩経にあった詩を、さらに今風に変えたものである。

ぺたり、ぺたりと石畳を蹴る、自分の足音が響く。
たまに蹲る闇のなかに人影があるのを偉度は見たが、それはどこかの店から放り出された酔客か、あるいは客を取ることが出来ずに、あたりをふわふわと流れている流しの娼妓たちであった。
かれらの人生は、堰の止められた腐った水面に、集って浮かぶ木の葉のようだと思う。
好むとこの好まざるとにかかわらず、そこに流されて、もはやどこに移動することもできず、あとは腐り沈むように死を待つばかり。
彼らが好んでここにいる、というわけではないことは、判っている。
それでも、軽蔑を拭うことができないのは、真剣に人生と向き合って生きた結果の、この末路ではないからだ。
彼らは戦うべきときに戦わずに、逃げ出した。
そのツケを払わされているのであるが、ツケすら、真剣に払おうとしないので、複雑怪奇な運命というものは、利子をどんどん膨らませ、彼らに返済を迫っているのである。
守れなければ…いわずもがな。
大きな悲しみがない代わりに、大きな喜びのない人生が終わる。

彼らの中にあって、闇の中で、もぞもぞと、いつまでも天空にあって、自分について回る月のように、動いている影がある。
偉度がさっきから、巻こう、巻こうとしている、赤頭巾であろう。
おかしな殿様だ、と偉度は思う。
巴蜀の人口だけで約六百万人あまり。
そのなかの、ごくごく一部の悲鳴を聞いて、助けてやって、仁君のフリをしたいのだろうか。
まあ、でも、人を忠誠の美名の元に、むりやりに従わせた、同族のだれかさんよりは、ずっとマシか。
おそらく、偉度があまりに動き回るので、身を隠してついてくのが、やっとにちがいない。
偉度としては、自分の動きについてこられる、というだけで、あの殿さま、やっぱり若い頃から、ぶいぶい言わせてきたのは、伊達じゃないな、と感心するところであるが、齢五十を超えた劉備には、この暗夜行はきつかろう。
ぶつくさ言っているのだろうな、と、その姿を想像しただけでおかしくなり、思わず偉度が声をたてて笑っていると、背後より、声がかかった。
「ご機嫌だね、姐さん」
この界隈には似つかわしくないほど、明瞭で、品のよい発音の、若い男の声であった。
偉度は、ぴたりと足を止める。

こいつ、いま、足音を消して、寄って来た。

声を発さずにすこしだけ顔を振り向かせると、夜闇に、男の輪郭だけが見えた。
すぐそばの家から漏れる明かりのために、男の顔は、逆光になってしまい、見ることが叶わない。
男は、最初は、蕭然とそこに立っていた。
が、偉度の横顔をはっきりと確認するやいなや、男は利き腕をすばやく動かすと、その拳でもって、がつんと偉度を殴りつけてきた。
目に火花が散る、とは、このことであろう。
闇夜に熔けた月と、人家の明かりがぐらりと視界を回っていく。
偉度は地面に叩きつけられ、そのまま倒れた。
男の、足音を殺した気配が近づいてくるのが判った。

つづく……

生まれ出(いず)る心に 7

2018年07月17日 09時25分13秒 | 生まれ出る心に
「偉度さまは、変わっておられる」
そういう景であるが、偉度の着替えを手伝うその様子は、鏡越しに、どこかしら、うきうきとしているように見える。
景はどこから用意したのか、さまざまな色の、瀟洒な絹の衣裳を持ち出して、髪を解き、薄物一枚のほかは、ほとんど素肌をさらしている偉度の肩に、これはどうか、これは似合わない、などと、あれこれ選別をしている。
「まさか、お前が着ているものではなかろうな」
さすがに偉度がいうと、景は、例の、声を立てずに肩を揺らす笑い方をして、答えた。
「わたくしめの物ではございませぬよ。わけあって、手元に置いているものでございます」
「その、わけ、とやらは聞きたくないな」
「それが賢明かと」
景は、どこか得体のしれない笑みをうかべて、肩を揺すった。
景は、さいごに、薄い桃色の衣を持ち出すと、偉度さまの肌には、これがいちばんお似合いだとつぶやいて、それにあわせて衣裳を一式、調えた。

この男は、洛陽で宦官をつとめていたときも、こんな役目をしていたのかと、ふと思う。
調えられた衣裳、帯、領巾、簪、首飾り、どれも互いに目立ちすぎず、地味にならず、ほどよく中身が引き立つように選ばれている。
景の、太く白くやわらかな指に手伝ってもらいながら、偉度は衣裳を手馴れたふうに身にまとう。
解いた髪に香油をさして、当世の流行にあわせて結ってみる。
蛇のようにくねって束ねられた髪に、銀色の簪を挿す。
白粉を肌にはたき、鮮やかな紅を差す。
自分がどんどん別のものに成り代わっていくのが鏡に映る。
その変わり行く姿を見るたびに、偉度は、笑いがこみ上げてくる。
変装をするのは好きだ。
もともと、自分にはこうした趣味があるのかな、と恐ろしくなったときもあったが、実のところ、老婆に化けようが、商人に化けようが、何に成り代わろうと、そうなる手前の瞬間で、偉度は快感をおぼえている。
『孔明の主簿』というのだって、実は周りを欺き、化けているようなものだ。
むしろ、こうして闇の顔を取り戻しているときのほうが、素なのかもしれない。素を取り戻せるので、偉度はうれしくなって笑うのか、そのあたりは自分でも判然としないし、はっきりさせるつもりもなかった。
ほどなく鏡の前には、橙色の明かりに照らされた、いささか盛りの過ぎた、それでもなお、銀花のように美しい妓女の姿があらわれた。
偉度はくるりと一回転して、袖と領巾を優雅に揺らして、自分の姿を確かめると、眉をしかめて、景を真正面から見た。
「この界隈にいるにしては、不自然なほど、上等な女に見えないか」
景は、おだやかに首を振り、もの静かな笑みを浮かべたまま、言う。
「いいえ、このあたりに最初に漂い落ちる者は、最初はみな、このように『まとも』でございますから」
「笑いながら恐ろしいことを言うやつだな。まあ、目立てればよいか」
言いながら、偉度は愛用の短刀を懐に隠し、領巾を身に纏いなおす。
いまでこそ、明かりがあるから女装した男だと、すぐにばれるであろうが、暗がりに潜めば、月明かりの魔術によって、男らしさの痕跡は消えうせる。
そして、偉度は、その気配を消すことに長けていた。
「高く売れそうかい?」
と、一見すると大人しそうな美しい妓女は、不敵な笑みを、にっ、と景に見せる。景はやはり、にこにこと、おだやかに笑うばかりで、答えない。
景が、なにを考えているのかということは、いまの偉度には関係なかったから、景の反応の曖昧さに、肩をすくめると、さらに鏡を覗き込み、化粧をあらためる。
すると、またも鏡越しに、景が言った。
「あまり、遊びすぎてはなりませぬよ」
「遊ぶ? そんなふうに見えるかい」
そういう意味ではない、と景は首を振る。
「偉度さま、正義というものは、毒を含んだ美酒でございます。あまり呑みすぎてはなりませぬ。悪酔いをして、いつか良識というものが潰されてしまう。気づくと鬼になっている。そうして潰れてきた『善きひと』を、わたくしは何人も目にいたしました。
偉度さま、あなたさまが鬼になる様を見たい気もいたしますが、やはり、貴方様は、陽の当たる場所へ向かわれるべきお方でございますよ」

陽の当たる場所か、と苦くつぶやきつつ、ふと、蕭花と、薛、そして許婚であったという三人の、ほんとうに『善きひと』を思い出していた。
彼らになんの咎があったという。
正義とはなんだ。運命とはなんなのだ。

「景よ、おまえはわたしを『善きひと』だと誉めてくれたようだが、それはちがうよ。わたしは、『悪』なのだ。『悪』であるから、常ならばせぬ、このような衣裳をまとい、男を誘う仕草もしてみせる」
「それは、縁も所縁もない、あまたの女たちの恨みを晴らすため、でございましょう」
「いいや、単に黄元の息子が気に食わないからさ。おまえにわかるだろうか、これは純粋に、縄張り争いなのさ。わたしの目の光るところで、愚か者が、親の威光を笠にして、下劣な真似をして威張り腐っている。これは叩きのめさねばならぬ。狼がそうするように、わたしも迷い込んできた愚かな狼を牙にかけにいく。それだけのことだ」
すると景は、肩を揺らして、声を立てずに笑いながら、そういうことにしておきましょう、と言った。


景の家を出ると、まさにそこは天と地のごとき差をみせる暗闇の世界が広がっている。
当初、ここへ来たときは怖じたものであるが、偉度はもはや、うつむきも、目を逸らすこともしなかった。
さながら女神のように傲然と、歩みを進めて、泥と汚物の混ざり合った界隈をあるく。
目のうつろな人々、なにかを求めて、するどくあたりを睥睨するもの、意味のない言葉をぶつぶつとつぶやき、まるで天空からだれかに操られているかのように、ぐるぐるとあてもなく周囲を回っている者。
たまに、つよく肩をつかまれ、引き止められそうになったが、偉度は、それをきつく跳ね除けた。
求めているのは、その手ではない。
偉度は、おのれの美貌を見せつけるように、うつむきかげんに路地にさまよう人々を、堂々と見据えた。

日が昇れば、この界隈の人々は、夜に目を開いていた分を取り戻すために、陽光から逃れるようにして日陰に隠れ、そこで眠る。
安宿があって、薄汚い部屋に、ネズミのよう肌を寄せ合って、そこで眠るのだ。
そうして夜になると、ふらふらと表にあわれて、己の正体を曖昧にさせてくれる闇に身を浸して、幽鬼のように、常人のまえに姿をあらわす。
かれらを、哀れとは思わない。
かれら自身は、なるべくしてなったのではない、仕方がなかったのだ、と叫ぶだろう。
しかし偉度からすれば、彼らは、やはり自ら選んで、闇に住まい、身をかがめた人々であった。
いくつもいくつも、踏みとどまるきっかけはあったはずだ。
差し伸べられた手はあったはずだ。
かれらの目が眩んでいただけ、耳が塞がっていただけだ。
血反吐を吐くような思いをして、なんとか陽光の容赦ない明るさに身を照らし、おのれの恥や弱さと向き合う努力を、なぜ、おまえたちは放棄した。
おまえたちは救われない。自分で自分を救おうとしないからだ。そして自ら死んでいく。
路地に彷徨う者は、男も女も関係ない。
老いた者、子供でさえ関係がない。
ふと、憎憎しげに自分を睨みつけている少年と目があって、偉度は逆にその目を厳しく見据えて、逸らさせた。
勝った、とは思わなかった。
むしろ、自分の目から逃れない勇気が、その少年にあったほうが、偉度は救われたであろう。
その少年は、ちょうど樊城にいて、ちがう名前を与えられ、自堕落に生きていた自分と同じくらいであった。

「やたら高そうだな。ここいらの相場とは釣りあわねぇだろう」

偉度は振り向かず、やれやれ、と小さくため息をついて、場に似合わぬ、むしろ、その界隈の人々が、避けて散っていくほどに、明るい声に振り返った。
そこには、やたらと周囲から浮き上がっている、赤い頭巾が立っていた。
「なぜここに? 景が、使いを寄越したのですか」
いいや、と赤頭巾は首を振ると、偉度のつま先から頭のてっぺんまでをじっくり眺めて、一瞬だけ、困ったように笑い、それから、それから胸を張った。
「わしは、なんでもお見通しなのだ」
「嘘をおっしゃい。景が使いを寄越したのではない、というのなら、ご自分で、事態をなんとかしなければと、こんなところに、一人でやってきたのでしょう」
赤頭巾は、嬉しそうに目を細めて、お、察しがいいじゃねぇか、などと喜んでいる。
しかし、その全身から、まさに陽気とも言おうか、陽光の燦々とした翳りのない光が、全身からにじみ出ているがゆえに、どっぷりと泥のように沈み込む闇の世界に、赤頭巾はまったくもってなじまずに、浮き上がっていた。
「お帰り下さい」
偉度が言うと、赤頭巾は、頭巾の中で口を尖らせた。
「なんでだよ」
頭が痛くなってきた。
偉度は、銀の簪の音をしゃらん、しゃらんとさせながら、首を振る。
「周りをご覧なされませ、周りを! あなたさまは目立ちすぎる。これでは、わたくしの苦心も、水泡に帰してしまいます。いうなれば、邪魔です」
偉度の、容赦のない、邪魔、のひとことに、赤頭巾・劉備はぐっさりときたようであった。
「でもよ、これは、わしも首を突っ込んだことなのだぜ?」
正直なところ、偉度は自分のこの姿を見られたことを恥ずかしく思ったし、同時に、劉備のような陽性の男が、黄元の息子の淵とやらをどう処罰するのか、せいぜいが捕らえて説教して、黄家に対して、なんらかの制裁を加える程度だと踏んでいたから、なおさら邪魔であった。
仕方がない。
「では、主公、その目立ちすぎる頭巾をなんとかして、それから、物陰に隠れて、黄淵とやらがやってくるのを見張ってはいただけませぬか」
見張り、と聴いて、劉備は退屈そうだと思ったようで、気乗りがしないとくずっていた。
だが、それでも確かに、偉度がひとりでうろうろしていたほうが、黄淵を釣れそうだと判断し、なんてヤツだよ、とぶつぶつ言いながら、おとなしく朽ちかけた板塀の後ろに隠れていった。

つづく……

生まれ出(いず)る心に 6

2018年07月16日 09時36分11秒 | 生まれ出る心に

ああ、こいつが蕭花の夫になるはずだった男か、と偉度は見当をつけた。
突然に、花嫁に自殺された男なのだ。その死の原因を知りたくなるのは当然であろう。割って入ればややこしいことになりそうだし、しばらく様子を見ようと、偉度は物陰に隠れることにした。

「養父上、なぜ隠されるのですか。蕭花に、禍事が降りかかった、それを恥じて、あれは死を選んだという、その話は本当なのでございますか?」
「奉や、なぜお前それを知っているのだ!」
奉、と呼ばれた男は、ああ、と悲しそうな声をあげて、その場に膝から崩れ落ち、地面を拳で打った。
その様を見て、薛はやはり、天を仰いで、胸をつよく叩く。
「奉、誰に聞いたのだ? あの男か。あいつが、もしや蕭花のことを言いふらしているのか? この世には天もないのか! 娘に死を選ばせるほどの恥を与えておきながら、さらに死者を踏みつける真似をする! 黄家が何者ぞ!」
「黄家? 養父上、なにゆえ黄家なのでございますか? 狼藉者を、ご存知なのですか? それなのに、なぜ訴えようとなさらないのです!」
立ち上がり、詰め寄る奉の言葉に、薛は愕然とした顔をする。
「ちがうのか。おまえ、だれから、蕭花の話を?」
「賄い女でございます。叱らないでやってください、わたしがあまりに落胆しているので、実はと教えてくれたものでございます」
それを聞いて、偉度は、あのおしゃべり女め、とちいさく悪態をついた。
「養父上、黄家の男なのでございますね? 脅されているのですか? そうなのですね?」
「あやつは狼藉を働いたあと、蕭花の身につけていた簪を奪い、もしもお上に訴えようものならば、おまえの恥をあますところなく世間に知らせてやろう、どちらにしろ、我は漢嘉太守の息子なり、おまえたちには手出しはできぬ。しかし、これは万が一のための口止めだといって、去って行ったのだ」
「卑劣な…! 養父上、それで沈黙をしているというのですか! それではあまりに蕭花が哀れにすぎまするぞ!」
「では、訴えてなんとする! 蕭花は、死をもってすべてに口を閉ざしたのだぞ。それを、我らが暴いてよいのか? わたしも怒りがおさまらぬ、悲しみも癒えぬ、言葉では、尽くせぬほどなのだぞ。だが、相手が悪すぎよう」
「泣き寝入りをなさると? そんな、意気地のない! わたしには我慢ができませぬ!」
「どこへ行く!」
「お上に訴えに行くのでございます! 黄家が出てくるならば、出てくるがよいのです!」
「待て、ならぬ!」

出番だな、と偉度は物陰からさっと姿を現すと、意気込み走り去ろうとする奉の、着物の襟元をぐっと掴んで足を止めさせた。
「待て。お上に訴えること、いまは、まかりならぬぞ」
なんとなく、どこかの誰かに口調が似てきたな、と自分で思いつつ、偉度は、自分を止める者を驚いて振り返る奉に、厳しく言った。
「養父の言に従え。お上に訴えれば、蕭花殿だけではない。同じ被害に遭って、それでも訴えることもできずに、口をつぐんでいる者たちすべてが傷つくことになるのだぞ」
「胡偉度さま!」
薛がおどろいて声をあげると、その名だけは知っていたようで、奉はぎょっとして、もがくのをやめたが、それでも敢然と睨みつけてくる。
同年か、すこし年上、といったところであろうか。
背丈がほぼ同じなので、にらみ合うと、真正面に目がある形となる。
「では、狼藉者を、このまま野放しにされるというのか!」
「そうは言うておらぬ」
「われらの悲しみはどうなる! 蕭花を奪われた悲しみは? ただ指をくわえて、事態がなんとなく収まるのを、ただ見ていろとおっしゃるのか?」
だんだん、偉度は腹が立ってきた。
格好は地味ではあるが、薛と同じくらい裕福で、幸福な家庭に暮らし、天然の要害の成都のなかにあり、さしたる戦乱の恐怖を味わったこともなく、いままで安穏と過ごしてきた男なのだろうな、と思う。
その環境に、嫉妬したのではない。
この男が、憤りを晴らすために、お上、お上と、ひたすら人を頼っている、その態度が、情けなく見えたのである。
ただし、この男自身に意気地がないわけではない。
意気地がなければ、名家であり豪族の、黄家に繋がるものを、訴えようなどとは思わないだろう。偉度とでは、歩んできた人生があまりにちがいすぎる、ということなのだ。
「わたしがおまえならば、お上に訴えなぞしない」
「では、どうなされる?」
挑戦されれば応えずにはいられない、偉度の悪癖が、ここで出てしまった。
敢然と睨みつけられた偉度は、その視線をまっすぐ受け止め、つんと顎をそらし、まるで挑発するかのような表情で、答えた。
「恨みは、己の手で晴らすさ」
もしも、孔明なり、趙雲なりがいれば、偉度は派手に拳骨を喰らっていたにちがいない。
奉は、それを聞くや、やはり偉度を睨みつけたまま、黙って背を向けて走り去って行った。
しまったな、と思ったが、とりあえず、お上に駆け込むことはなかろうと判断し、ひとり、力なく残された、薛のところへと向かう。
「偉度さま、お応え下さいまし。娘のことを、もしや左将軍府のみなさまは、じつはご存知なのでは?」
「安心するがいい、このことを知るのは、左将軍府では、わたし一人だ。上の者も、黄家の者が『名前ばかりの盗賊』であるなどとは、掴んでおらぬ」
一番上が掴んでいるが、あれは例外である。
「黄家に、お咎めは行きましょうや? その際には、娘や…ほかの同じ目に遭った娘たちはどうなりましょう?」
「すまぬが、いまは、わからぬ、としか言えぬ。奉という男に、わたしもずいぶんきついことを言ってしまった。すまぬが貴方から、偉度が謝っていたと伝えてくれぬか」
「奉は、蕭花の幼なじみでございまして」
と、薛は、ふと昔をなつかしむような、優しい、しかし遠い目をして言う。
「早くに親を亡くし、わたくしどもで面倒を見ておりました。あの二人は、兄妹のようにいつも一緒で、いつしか自然に、夫婦になる約束もできていたのです。奉は、じきにわが婿養子となるはずでございました」
「そうであったか」

自分とは遠い、幸福な光のあるところに住んでいた者たち。
だからこそ興味をおぼえたし、惹かれもした。
妾腹だったから、かわいそうだった? 
冗談ではない。その程度の寂しさが原因で、人々を踏みにじる権利が、いったいおまえのどこにある。
偉度は、胸につかえていた痛みが、転じて怒りと義務に変わっていくのを覚えていた。
これを正義感とも呼んだかもしれないが、偉度は自分の心にうまれた義憤の心を、正義とは見たくなかった。
自分は、日陰に生きるものでいい。
その覚悟は、偉度の誇りでもある。
日陰に生きる覚悟をした者には、それなりの規則がある。
それは、光を侵食してはならぬという不文律だ。
それを破ったものには、相応の仕置きをせねばなるまい。

「薛どの、ひとつ申し上げたい」
なんでございましょう、と薛は顔をあげて偉度を見た。
その、わずかの間に、一気に老け込んだ顔を見て、偉度はやはり、とおのれの勘のよさに頷いた。
「死ぬおつもりであれば、あと三日。三日だけ、この世に留まられよ。三日過ぎてからは、自由にされるがよい。わたしも口をはさまぬ」
薛は、心の内をずばり言い当てられ、言葉をなくしてうろたえている。
そして偉度は、ある準備をするために、その場を静かに立ち去った。

つづく……

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