「ところで、新野のあちこちに出没している『人攫い』はまだ捕まっておらんのか」
書簡のひとつを見て、劉備が眉をひそめた。
「ざんねんながら、まだ捕まっておりませぬ。どうやら、複数で動いているようだということまではわかっているのですが」
孔明が言うと、簡雍が手を動かしながら言った。
「器量のよい子をとくに攫っていると聞いておる。そうなれば、どこぞの妓楼にでも売られたのではと思って探させてみたが、いなくなった子の影も形もなかった。
ひどい話だわい、親の嘆きっぷりを見ていると、こちらまで胸が詰まる」
「新野ではなく、よその町の妓楼にでも売られてしまったかな。そうなると、もうこちらとしても探しようがない。これだけおおっぴらに、われらの目の前で子供が攫われるというのは、気分の良いものではありませぬな」
孫乾のことばを引き継いで、孔明は言った。
「まったくです。人攫いは、徴兵しに来たと親に嘘を言って、子供を連れ出しているとか。これではわが君の評判も貶められてしまう」
「まさか、曹操の謀略ということはなかろうなあ」
簡雍が推測するのはもっとものようであったが、しかし孔明は首を横に振った。
「曹操のやり口にしては、細かすぎますね」
「どちらにしろ、子供を取り返してやらねば。どこでどうしているやら、ひどい目に遭っておらぬとよいのだが」
麋竺に負けず劣らずの人の好さを見せる孫乾がそう嘆くと、場がしんみりとしてきた。
「娼妓殺しのほうも、下手人を捕縛するめどがたっておらぬ。世情が不安定だからということは言い訳にならぬな」
簡雍があらたな話題を持ち出すと、孫乾が、また湿った声をあげた。
「調書によれば、ひどくむごたらしい殺され方をされているようだな。おとといで何人目だったかな」
「三人ですよ。切り裂いたうえに、身に着けていた衣を奪っているようです」
孔明のことばに、孫乾は、自分がそうされたかのようにぶるりと震えた。
「ああ、おそろしい。下手人をなんとしても捕まえんとな」
「屯所の当番は、たしか今月からは趙子龍ではなかったか」
「そうです。そういえば、今朝は姿が見えませんね」
趙雲は孔明の主騎もしているので、麋竺同様、朝になると、かならず孔明のところに顔をだすのが日課になっていた。
ところが、今朝は顔を出していない。
不思議に思っていると、簡雍が、書簡のひとつを取り出して、言った。
「これではないか。昨日、子龍の部下の家族が皆殺しになったという事件が起こったとか」
「ほんとうですか」
またも凄惨な知らせに、孔明が身を乗り出すと、簡雍は書簡を読みつつ、答える。
「うむ、どうやらこちらは下手人がはっきりしているようだ」
「だれです」
「ほかならぬ、その部下がおのれの家族を殺して逃げたのではないかとある。詳しいことは、そいつを捕えて話を聞くとも書いてあるぞ」
「まだ捕まっていないのですか」
「子龍が追いかけているそうだ。だから、今朝は姿が見えないのだな」
なるほど、と孔明は納得した。
それにしても、ひどい事件が立て続けに起こっている。
世情不安のために民心が荒れているのはわかるが、すこし続きすぎている気もした。
しかし、だからといって、最大の敵である曹操の謀略かというと、それも違う気がする。
証左はないが、曹操がこれほど細かい、いやがらせのような謀略を仕掛けてくるとは思い難かった。
ふと気づくと、劉備がこちらを優しい目で見ていた。
成長したわが子を愛でるような目をしている。
はて、いまの殺伐としたやり取りの中に、わが君を喜ばすような要素があったかな、と孔明は首をひねる。
「どうされましたか、わが君」
問うと、劉備は照れ臭そうに笑って、答えた。
「なに、おまえがやっとこの城の者たちに慣れた様子だからな。こっちもうれしくなったのだ」
率直な物言いに、さすがの孔明も、なんといってよいかわからない。
それは簡雍や孫乾も同じようだったようで、照れ臭いような、きまり悪いような、複雑な表情を浮かべていた。
「最初は、おまえとみんながうまくやっていけるか、心配していたが、いや、今日は様子を見に来てよかった。おまえがこれほどみんなと馴染んでいるのがわかったのだからな。みんなも、これからも孔明をよろしく頼むぞ。孔明も、みんなとうまくやっていってくれ」
「仰せのままにいたします」
照れ隠しで無表情のまま頭を下げると、簡雍らも後に続いて、御意、と応じた。
簡雍や孫乾たちは、臥龍という号ばかりが立派で、なんの実績も見当たらない孔明に対し、さいしょは反発していたのだ。
ところが、最近は孔明の実力を認めるようになり、批判的な態度をとることがなくなった。
それを見て、劉備が喜んでいる、というわけである。
孫乾が、奇妙に浮ついた雰囲気になった場をごまかすかのように言った。
「それにしても軍師どのは仕事を覚えるのがお早い。司馬徽先生の塾では、実務も学ばれていたのですか」
「それもありますが、叔父を手伝って、十五のときから働いていたのが、いまになって役に立っているのでしょう」
答えながら、孔明は、少年だったころの自分の夢を思い出していた。
それは、お人よしの叔父を世に出すため、自分が補佐して力いっぱい働くという夢であった。
その夢は、叔父の死によってついえたが、いまは、その代わりに、叔父に似た劉備という主を得て、こうして働いているわけである。
叔父の名も玄で、劉備のあざなも「玄」徳。
もしかしたら、なにかの引き合わせかもしれないな、と孔明は思った。
つづく
書簡のひとつを見て、劉備が眉をひそめた。
「ざんねんながら、まだ捕まっておりませぬ。どうやら、複数で動いているようだということまではわかっているのですが」
孔明が言うと、簡雍が手を動かしながら言った。
「器量のよい子をとくに攫っていると聞いておる。そうなれば、どこぞの妓楼にでも売られたのではと思って探させてみたが、いなくなった子の影も形もなかった。
ひどい話だわい、親の嘆きっぷりを見ていると、こちらまで胸が詰まる」
「新野ではなく、よその町の妓楼にでも売られてしまったかな。そうなると、もうこちらとしても探しようがない。これだけおおっぴらに、われらの目の前で子供が攫われるというのは、気分の良いものではありませぬな」
孫乾のことばを引き継いで、孔明は言った。
「まったくです。人攫いは、徴兵しに来たと親に嘘を言って、子供を連れ出しているとか。これではわが君の評判も貶められてしまう」
「まさか、曹操の謀略ということはなかろうなあ」
簡雍が推測するのはもっとものようであったが、しかし孔明は首を横に振った。
「曹操のやり口にしては、細かすぎますね」
「どちらにしろ、子供を取り返してやらねば。どこでどうしているやら、ひどい目に遭っておらぬとよいのだが」
麋竺に負けず劣らずの人の好さを見せる孫乾がそう嘆くと、場がしんみりとしてきた。
「娼妓殺しのほうも、下手人を捕縛するめどがたっておらぬ。世情が不安定だからということは言い訳にならぬな」
簡雍があらたな話題を持ち出すと、孫乾が、また湿った声をあげた。
「調書によれば、ひどくむごたらしい殺され方をされているようだな。おとといで何人目だったかな」
「三人ですよ。切り裂いたうえに、身に着けていた衣を奪っているようです」
孔明のことばに、孫乾は、自分がそうされたかのようにぶるりと震えた。
「ああ、おそろしい。下手人をなんとしても捕まえんとな」
「屯所の当番は、たしか今月からは趙子龍ではなかったか」
「そうです。そういえば、今朝は姿が見えませんね」
趙雲は孔明の主騎もしているので、麋竺同様、朝になると、かならず孔明のところに顔をだすのが日課になっていた。
ところが、今朝は顔を出していない。
不思議に思っていると、簡雍が、書簡のひとつを取り出して、言った。
「これではないか。昨日、子龍の部下の家族が皆殺しになったという事件が起こったとか」
「ほんとうですか」
またも凄惨な知らせに、孔明が身を乗り出すと、簡雍は書簡を読みつつ、答える。
「うむ、どうやらこちらは下手人がはっきりしているようだ」
「だれです」
「ほかならぬ、その部下がおのれの家族を殺して逃げたのではないかとある。詳しいことは、そいつを捕えて話を聞くとも書いてあるぞ」
「まだ捕まっていないのですか」
「子龍が追いかけているそうだ。だから、今朝は姿が見えないのだな」
なるほど、と孔明は納得した。
それにしても、ひどい事件が立て続けに起こっている。
世情不安のために民心が荒れているのはわかるが、すこし続きすぎている気もした。
しかし、だからといって、最大の敵である曹操の謀略かというと、それも違う気がする。
証左はないが、曹操がこれほど細かい、いやがらせのような謀略を仕掛けてくるとは思い難かった。
ふと気づくと、劉備がこちらを優しい目で見ていた。
成長したわが子を愛でるような目をしている。
はて、いまの殺伐としたやり取りの中に、わが君を喜ばすような要素があったかな、と孔明は首をひねる。
「どうされましたか、わが君」
問うと、劉備は照れ臭そうに笑って、答えた。
「なに、おまえがやっとこの城の者たちに慣れた様子だからな。こっちもうれしくなったのだ」
率直な物言いに、さすがの孔明も、なんといってよいかわからない。
それは簡雍や孫乾も同じようだったようで、照れ臭いような、きまり悪いような、複雑な表情を浮かべていた。
「最初は、おまえとみんながうまくやっていけるか、心配していたが、いや、今日は様子を見に来てよかった。おまえがこれほどみんなと馴染んでいるのがわかったのだからな。みんなも、これからも孔明をよろしく頼むぞ。孔明も、みんなとうまくやっていってくれ」
「仰せのままにいたします」
照れ隠しで無表情のまま頭を下げると、簡雍らも後に続いて、御意、と応じた。
簡雍や孫乾たちは、臥龍という号ばかりが立派で、なんの実績も見当たらない孔明に対し、さいしょは反発していたのだ。
ところが、最近は孔明の実力を認めるようになり、批判的な態度をとることがなくなった。
それを見て、劉備が喜んでいる、というわけである。
孫乾が、奇妙に浮ついた雰囲気になった場をごまかすかのように言った。
「それにしても軍師どのは仕事を覚えるのがお早い。司馬徽先生の塾では、実務も学ばれていたのですか」
「それもありますが、叔父を手伝って、十五のときから働いていたのが、いまになって役に立っているのでしょう」
答えながら、孔明は、少年だったころの自分の夢を思い出していた。
それは、お人よしの叔父を世に出すため、自分が補佐して力いっぱい働くという夢であった。
その夢は、叔父の死によってついえたが、いまは、その代わりに、叔父に似た劉備という主を得て、こうして働いているわけである。
叔父の名も玄で、劉備のあざなも「玄」徳。
もしかしたら、なにかの引き合わせかもしれないな、と孔明は思った。
つづく