空に、大きなはやぶさが飛んでいた。
くるくると輪をかきながら、飛んでいる。
陳到が叫んだ。
「明星《みょうじょう》だっ!」
あるじの呼びかけに、はやぶさが、きぃぃぃ、と高らかに鳴いた。
と、さきほどはあれほど目を凝らしてもまったく見えなかった船団が、東のほうから、靄を破って、凄まじい勢いでこちらへ近づいてくるのがわかった。
「船だあっ!」
「軍師たちが戻って来たぞ!」
「やった、感謝するぞ、孔明、雲長!」
感激のあまりか、劉備がめずらしく感極まった声を出す。
それに呼応して、葦原に隠れていた民も、岸辺に飛び出して、船に向かって、おおい、おおいと手を振りはじめた。
船がやって来たのが曹操軍にも見えたようである。
突撃命令がくだるのを待つばかりだった曹操軍が、船からの攻撃を恐れたのか、動きを止めた。
船はあっという間に帆に風をはらみつつ、漢水《かんすい》のわたしにやってくる。
その舳先には、たくさんの弓兵が配置されていた。
弓兵は、中央の船の先端に立っていた孔明の合図によって、いっせいに曹操の兵に狙いを定める。
そのあいだにも、関羽と孫乾《そんけん》が、船を接岸させ、生き残った者たちに急いで船に乗るよう指示していた。
だれもが、転がるように、つぎつぎと船に乗っていく。
すると、下手につつくと損害がでると判断したのか、曹操軍が|踵《きびす》を返して、撤退をはじめた。
「おおっ、騎兵どもが去っていくぞ!」
手を打って喜ぶ張飛に合わせるように、あちこちから、喜びの声があがった。
助かった。
最大の危機をしのげたのだ。
「軍師っ、無事か!」
趙雲もうれしさのあまり、孔明に駆け寄る。
すると舳先《へさき》に立つ孔明は、あいかわらず清々しい笑い声をたてながら、
「もちろん! わたしを誰だと思う! 諸葛孔明だぞ!」
と答えてきた。
※
「子龍、よく生き乗ってくれた。
みなから聞いたが、言葉で言い表せないほどの状態だったようだな」
孔明は趙雲の手を親し気にとって、何度も何度も、手を握りしめた。
「辛い思いをさせてすまぬ」
「おまえが謝ることではない」
「いや、わたしの采配がもっときちんとしていれば、もっと違った展開になっていたかもしれないからな。
それにしても、たいしたものだ。奥方様と和子を守り通すとは」
孔明に感心されると、率直にうれしい。
謙遜する気持ちもうせて、趙雲はすなおに気持ちを吐露していた。
「たしかにつらかったな。体のあちこちがまだ痛む」
「そうだろうとも。曹操軍はしばらく追ってはこない。
部屋を作らせるから、そこでゆっくり休むがよい」
「船はどこへ向かう?」
「夏口さ。とりあえず、そこへ行って、あとどうするかは、わが君や劉公子と相談だな」
そうか、と答えようとしたところへ、麋竺がやってきた。
趙雲は孔明に、麋竺の獅子奮迅のはたらきを紹介しようとおもったのだが、その顔を見て、ハッとなった。
麋竺は両目から滂沱と涙を流していたのだ。
「どうかされましたか」
気づかわし気に尋ねる孔明に対し、麋竺は絞るように言った。
「わが妹がいま、息を引き取った」
「なんですと」
孔明の顔色が蒼白に変わる。
「矢傷が原因で、熱が引かず……危ういとおもっていたが、やはりだめだった」
趙雲もまた、その知らせを愕然として聞いた。
波に揺れる船のうえ、麋竺は真っ赤な目をしたまま、悄然としていう。
「子龍よ、そなたには感謝する。
もしあのとき、妹を助けられていなかったなら、妹は敵の手に落ち、無残な最期を遂げていたかもしれぬ」
そんな、と声を出そうとおもったが、震えて声が出ない。
悲しい、悔しい、自分が許せない。
そんな感情が一気に押し寄せてきて、声を出せなくなってしまった。
その代わり、熱い涙があふれてきた。
もし、あの夜に夫人たちを見失わず、すぐに助けられていたら、麋夫人は助かったのではないか。
おもわず、その場にへたり込み、身をかがめて慟哭を抑える。
泣く権利すら、自分にはないようにおもえた。
震える肩を、孔明が気づかわし気に撫でてくる。
その手が温かいのが救いだった。
「妹のために泣いてくれるか。ありがとう」
そう言って、麋竺もまた、目を真っ赤にしながら涙を流した。
「さいわい、わが君に看取られて妹は逝った。この状況をおもえば十分だ。
だから子龍よ、あまり自分を責めてはならんぞ。
妹の代わりに言うが、おかしなことは考えてはならぬ。
そなたは生き延びて、そして妹が愛したわが君とご家族をこれからも助けてさしあげてほしい」
最愛の妹をうしなってつらいだろうに、こちらを慮って声をかけてくれる麋竺に申し訳なく、また趙雲は身を伏して泣いた。
そのあいだも、孔明はじっとそばにいて、ともに静かに涙を流してくれていた。
つづく
くるくると輪をかきながら、飛んでいる。
陳到が叫んだ。
「明星《みょうじょう》だっ!」
あるじの呼びかけに、はやぶさが、きぃぃぃ、と高らかに鳴いた。
と、さきほどはあれほど目を凝らしてもまったく見えなかった船団が、東のほうから、靄を破って、凄まじい勢いでこちらへ近づいてくるのがわかった。
「船だあっ!」
「軍師たちが戻って来たぞ!」
「やった、感謝するぞ、孔明、雲長!」
感激のあまりか、劉備がめずらしく感極まった声を出す。
それに呼応して、葦原に隠れていた民も、岸辺に飛び出して、船に向かって、おおい、おおいと手を振りはじめた。
船がやって来たのが曹操軍にも見えたようである。
突撃命令がくだるのを待つばかりだった曹操軍が、船からの攻撃を恐れたのか、動きを止めた。
船はあっという間に帆に風をはらみつつ、漢水《かんすい》のわたしにやってくる。
その舳先には、たくさんの弓兵が配置されていた。
弓兵は、中央の船の先端に立っていた孔明の合図によって、いっせいに曹操の兵に狙いを定める。
そのあいだにも、関羽と孫乾《そんけん》が、船を接岸させ、生き残った者たちに急いで船に乗るよう指示していた。
だれもが、転がるように、つぎつぎと船に乗っていく。
すると、下手につつくと損害がでると判断したのか、曹操軍が|踵《きびす》を返して、撤退をはじめた。
「おおっ、騎兵どもが去っていくぞ!」
手を打って喜ぶ張飛に合わせるように、あちこちから、喜びの声があがった。
助かった。
最大の危機をしのげたのだ。
「軍師っ、無事か!」
趙雲もうれしさのあまり、孔明に駆け寄る。
すると舳先《へさき》に立つ孔明は、あいかわらず清々しい笑い声をたてながら、
「もちろん! わたしを誰だと思う! 諸葛孔明だぞ!」
と答えてきた。
※
「子龍、よく生き乗ってくれた。
みなから聞いたが、言葉で言い表せないほどの状態だったようだな」
孔明は趙雲の手を親し気にとって、何度も何度も、手を握りしめた。
「辛い思いをさせてすまぬ」
「おまえが謝ることではない」
「いや、わたしの采配がもっときちんとしていれば、もっと違った展開になっていたかもしれないからな。
それにしても、たいしたものだ。奥方様と和子を守り通すとは」
孔明に感心されると、率直にうれしい。
謙遜する気持ちもうせて、趙雲はすなおに気持ちを吐露していた。
「たしかにつらかったな。体のあちこちがまだ痛む」
「そうだろうとも。曹操軍はしばらく追ってはこない。
部屋を作らせるから、そこでゆっくり休むがよい」
「船はどこへ向かう?」
「夏口さ。とりあえず、そこへ行って、あとどうするかは、わが君や劉公子と相談だな」
そうか、と答えようとしたところへ、麋竺がやってきた。
趙雲は孔明に、麋竺の獅子奮迅のはたらきを紹介しようとおもったのだが、その顔を見て、ハッとなった。
麋竺は両目から滂沱と涙を流していたのだ。
「どうかされましたか」
気づかわし気に尋ねる孔明に対し、麋竺は絞るように言った。
「わが妹がいま、息を引き取った」
「なんですと」
孔明の顔色が蒼白に変わる。
「矢傷が原因で、熱が引かず……危ういとおもっていたが、やはりだめだった」
趙雲もまた、その知らせを愕然として聞いた。
波に揺れる船のうえ、麋竺は真っ赤な目をしたまま、悄然としていう。
「子龍よ、そなたには感謝する。
もしあのとき、妹を助けられていなかったなら、妹は敵の手に落ち、無残な最期を遂げていたかもしれぬ」
そんな、と声を出そうとおもったが、震えて声が出ない。
悲しい、悔しい、自分が許せない。
そんな感情が一気に押し寄せてきて、声を出せなくなってしまった。
その代わり、熱い涙があふれてきた。
もし、あの夜に夫人たちを見失わず、すぐに助けられていたら、麋夫人は助かったのではないか。
おもわず、その場にへたり込み、身をかがめて慟哭を抑える。
泣く権利すら、自分にはないようにおもえた。
震える肩を、孔明が気づかわし気に撫でてくる。
その手が温かいのが救いだった。
「妹のために泣いてくれるか。ありがとう」
そう言って、麋竺もまた、目を真っ赤にしながら涙を流した。
「さいわい、わが君に看取られて妹は逝った。この状況をおもえば十分だ。
だから子龍よ、あまり自分を責めてはならんぞ。
妹の代わりに言うが、おかしなことは考えてはならぬ。
そなたは生き延びて、そして妹が愛したわが君とご家族をこれからも助けてさしあげてほしい」
最愛の妹をうしなってつらいだろうに、こちらを慮って声をかけてくれる麋竺に申し訳なく、また趙雲は身を伏して泣いた。
そのあいだも、孔明はじっとそばにいて、ともに静かに涙を流してくれていた。
つづく
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、どうもありがとうございます!(^^)!
いよいよ次回、「地這う龍」は最終回を迎えます。
ここまで読んでくださったすべてのみなさまに感謝です♪
そして、ブログランキングであらたにフォローしてくださった方、ありがとうございます!
繰り返しかもしれませんが、ほんとうに作品数だけはたくさんありますので、じっくり楽しんでいただけたならさいわいです(^^♪
次作の「箱書き」は、「小箱」を作ればできあがりというところまでいきました(小箱とは、箱書きのなかにある大箱・中箱・小箱のことでして、あらすじを徐々に細分化させていく設計図の一部のようなものです……うーむ、分かりづらい説明でスミマセン;)。
明日に最終回、明後日に「あとがき」、そして「甘寧の物語」を連載してから、赤壁編の連載をしようかなと思っています。
そんなにうまくいくかなあ、という不安もありますが……なんとかしよう。
とにもかくにも、まだまだつづく「奇想三国志 英華伝」!
今後もどうぞごひいきにー!
ではでは、最終回をおたのしみにー(*^▽^*)