建安十六年。
たび重なる羌族への締めつけと、のしかかる重税に悲鳴をあげた民の怨嗟の声を受け、涼州の英雄で、みずからもまた、羌族の血を引く馬超は、韓遂ら、有力氏族たちと連合し、叛乱を起こした。
怨嗟の声をあげたのは、羌族ばかりではなく、この乾燥した厳しい土地にすまう漢族もおなじである。
そして、漢族と羌族の双方の血をひき、その風貌も誇らしく美しい馬超は、かれらの旗頭にすえるのに、ぴったりな男であった。
本人もそれを熟知していた。
そうして、太陽のように燦々と輝きを放てとばかり、派手な鎧で身を飾り、はなばなしく戦場を駆け抜けた。
これで実力がなければ、あわれな道化師の死体が、草原を、町へ帰っていく行軍の穂先に、さらしものとして掲げられていたところであろう。が、そうはならなかったところに、馬超という名前の伝説が、早くに生まれた原因がある。
馬超の武勇は、誇張でも、勢いだけのものでもなかった。
一時は、曹操をして、遷都を考えさせるほどに馬超らの勢いはすさまじかった。
これは、洛陽も目前ではないかと、馬超たちの周辺で、楽観的な空気さえ流れ始めた頃であった。
かずかずの苦難を乗り越え、そして自らの運命を切り拓いてきた曹操という男の器量に対し、度量はあったが、若すぎた馬超のあいだに、勝敗の差が出たといってよい。
連続する勝利は、楽観を呼び、そこに弛緩を生じさせた。
その弛緩こそが、馬超の命取りとなってしまう。
勢いに乗るべしとする馬超と、慎重にと進言する韓遂の意見の対立がめだってきたのであった。
馬超と韓遂のあいだが、進軍するにつれ、不和になりつつある、との情報を手に入れた曹操は、家臣たちと謀り、韓遂に誤字を修正した箇所ばかりの手紙を送りつける。
それを目にした馬超は、修正したのは、ほかならぬ韓遂ではないかと疑い、この疑惑に怒った韓遂と完全に決裂。
ここに連合はやぶれ、馬超は敗退した。
馬超はあきらめず、羌族を中心とした北方の蛮族に呼びかけ、ふたたび叛乱を起こす。
それほどに馬超の羌族においての名声は、高いものであったのだ。
涼州の民も、『あの錦馬超』ならばと、ふたたびかれに期待をかけたのだ。
そうして、二度目の波に馬超は乗ることができた。
一時は、自らを征西将軍と名乗り、ふたたび盛り返す勢いをみせた。
しかし、こんどは、馬超の独走におののいた者たちによって、馬超は帰る土地を締め出され、故郷を追われることとなってしまう。第一戦において、曹操がみせた反逆者への残酷な仕打ちが、ぎりぎりのところで、あまたの民、そして将兵たちを竦ませた。
結局、馬超はここでも、曹操にまけてしまったのだ。
その後の馬一族は悲惨であった。
曹操は、叛乱した馬超の一族をゆるさず、すぐさまその家族をすべて捕らえると、二百あまりいた氏族をすべて処刑にした。
馬超は、たった一人のこった従弟の馬岱、そして妾の董氏とともに、鶴鳴山において『五斗米道』を主催する、新興宗教の教祖・張魯のもとへと、身を寄せるしかなくなってしまったのである。
※
董氏は、長年馬超に連れ添っていた妾のひとりであり、馬超とのあいだに、秋、という息子をもうけていた。
羌族の娘で、くるぶしまで届くほどの長く美しい黒髪を持っており、その男勝りな気性と美貌が馬超の気に入り、攫われるようにして、氏族の集落から連れ帰られた。
しかし、董氏のほうでも馬超の男ぶりの良さや、強引ながらも優しい面に惹かれて、結局、ふたりは仲むつまじくなった。
馬超は、当時の武将としては、ごくごくふつうに、複数の妻を持っていたが、勝気で物怖じせず、忍耐強い董氏は、特に気に入りであった。
よほどでないかぎり文句も言わないので、戦場にも連れて行っていたから、おかげで董氏だけが、曹操の手から逃れることができたのであった。
馬超は董氏の生んだ息子の秋をとても可愛がっており、秋、秋、と言ってしょっちゅう、その手に抱いては、暇さえあれば外に連れ出して、共に空を眺めたり、大地の風を嗅いだりした。
そうして張魯のもとで待つ妻のもとに戻り、夜はその手料理に舌鼓を打って、従弟の馬岱と酒をともにする。
三人には不文律があった。
それは決して、亡くなった一族のことを口にしてはならない、ということであった。
だれが言い出したことではない。もし口にしてしまえば、場が暗くなる、などという単純なものではなかった。
二百名、という、あまりに重過ぎる人命の犠牲は、残されたたった三人では、とてもではないが、耐えて抱えていることができなかったのである。
張魯は、貧民を中心に、生き神さまとさえ崇められているほどの人格者で、天師さま、天師さま、と呼ばれ、みなに好かれていた。
張魯は、この乱世にあっても、やはり劉璋や劉表の、幼少をさほど苦労せずに過ごしている裕福な士大夫とおなじで、三代目の教祖として、幼いころから特別に育てられていた。
そのあたり、やはり長子として、ほかの兄弟たちとは別待遇で育った馬超と、気が合ったのであろう。
それに張魯は、武勇に長け、正義感の人一倍つよい馬超を気に入っていた。馬超のほうも、曹操に追われる己をかばってくれた張魯に感謝していたし、束の間の、夢のように平穏な生活を、気に入っていた。
とはいえ、馬超の生活の場は、つねに戦場であった。
家族も恋人も友も、つねに戦場で得てきた。
戦場こそが、かれの家であり、固定されて動くことのない、穏やかな時間こそが、仮の宿りなのである。
一方の張魯としては、馬超のように切羽詰った事情がなかった。
つまり、『羌族の代表』としての強迫性である。
逆にあったのは、『五斗米道』(すでに『天師道』と呼ばれつつあったが)の教祖として、自分を頼ってきた、流民たちの生活をいかに守るか、という責任である。
馬超は、自分に期待して、数多くの兵卒を預けてくれたひとびとの心を、その言葉を忘れていなかった。
だから、志半ばで、このまま戦うことを止めるわけにはいかなかったのである。
馬超はおのれの心を隠すことはしなかったし、宴や議事の場でも、そも、信者たちが貧しい生活にあえいでいるのは、天下の乱れ、曹操の圧政が原因である、それをつぶさねばならぬ、と訴えた。
もちろん、大本の腐敗は漢王室にこそあるのであるが、そこを攻撃できるほどに馬超は勇気がなかった。
当時において、漢王朝はいまだに大地における我らの『父』であり、我らは帝の『赤子』なのである。子は父を批判『できない』。つまりこの場合の勇気とは、儒の気風強くのこる時代において、父を罵倒する勇気のことである。
そうであるがゆえに、あえて責任を曹操に向けた。
もちろん、現実をしっかり見据えている者たちは多く、いや、ほとんどの世情に長けた者は、世の乱れの要因は、曹操などという人物ひとりで説明がつかないものだということを知っていた。
それをいまさら曹操に帰することすら、時代遅れだという気風が出来上がりつつあった。
『五斗米道』は多くの流民を、五斗の米さえ寄進すれば、だれであれ受け入れ、食客としてやしなう宗教団体であった。
であるから、救いをもとめ、各地から多くの民がやってくる。
だからこそ、情報の集り方もハンパではない。
張魯は、鶴鳴山という中原からすればド田舎の山にひっこんでいる身でありながら、中原の士大夫顔負けの情報を、その耳にあつめていた。
もちろん、張魯の元につどっていた、ほかの武将も同様である。
そのために、『時代遅れの田舎者』である馬超と、時代をよく知る武将たちとでは、衝突することもたびたびであった。
馬超は、長子たるゆえか、世渡りが下手であったといわざるを得ない。
この不満を、五斗米道内に同志をつくることで解決しようとせず、直接、張魯に訴えた。
困ったのは、張魯のほうである。
張魯は、たしかに馬超に安息の場を与えてくれたものの、張魯自身に野望はなかった。
彼は己をたよってきた信者の安息こそが第一であり、馬超を迎え入れたのも、貧窮した民を迎え入れるのと、さほど変わらぬ感覚であったのである。
そこが、宗教者と、生まれながらの武人の、意識の差であった。
そこで、張魯は腹心の武将、楊柏に相談することにした。
じつは、馬超の男ぶりのよさにほれ込んでいた張魯は、自分の娘のひとりを、妾しかいない馬超に妻として、与えようとしたことがある。
しかし、それを反対したのは、楊柏という将軍であったのだ。
この楊柏、将軍という肩書きこそあるが、もともとが貧農の息子である。それが張魯にひろわれ、そのご恩返しとばかりに懸命に働いて、働いて、ついに将軍という肩書きがもらえるまでに、出世したのである。
「二百名ものおのれの家族を見捨て、たった一人の妾と子供、そして従弟だけしか救えなかった男、それだけしか愛せなかった男でございますぞ、それが、他人を愛せる男と申せましょうか」
張魯は、直感の人であると同時に、感受性のつよい、思索のひとであった。
であるから、楊柏のことばを、最初は跳ね除けたものの、よくよく事実と照らし合わせれば、そのとおりであると思うようになっていた。
もとより、名門の馬家の御曹司である馬超からすれば、兵卒は使うもの、という意識がつよい。
しかし、最下層から伸し上がってきた楊柏からすれば、兵卒は、同胞であった。
同胞を、天下の情勢に照らし合わせても、勝ち目のない戦に送り出すわけには行かない。
だからこそ衝突したし、敬愛する張魯が、馬超と縁続きになり、曹操ににらまれ、処刑された二百名とおなじ運命をたどらせるわけにはいかない、と思ったのである。
張魯は、楊柏の心をよく知っていたので、娘の婚儀をとりやめた。
そして一層、楊柏を重用するようになっており、徐々に馬超への感心は薄れつつあった。
このあたりから、張魯と馬超のあいだに、馬超と韓遂のときと同様の、不協和音がながれはじめるのである。
やがて馬超は、たびかさなる動議の場において、つねに孤立するようになっていった。
張魯に不平不満を訴えるが、聞き入れられるところは少ない。
しかも、張魯というのは、面倒くさがりというわけではなかったが、やはり苦労知らずで育っているがゆえに、人の和を乱しすぎる人間が苦手で、理解できないのであった。
馬超は、まさに理解できない不穏分子であり、楊柏側の、馬超をなんとかすべしという進言が重なったこともあり、だんだんと、馬超を曹操へ引き渡すべきではないかという考えが、浮かび上がってきたのである。
とはいえ、馬超もまったくの愚か者ではない。
いや、愚か者であったほうが、どれけかよかっただろう。
馬超は、己を取り巻く環境が、日に日に悪くなっていくことに、敏感に気づいていた。己を締め付ける麻縄が、じょじょにきつくなり、身動き取れなくなっていく感覚である。
もがけばもがくほど、逃げることができない。
これは、自由を愛する馬超にとっては、おそるべき事態であった。
張魯の脳裏に、馬超を曹操へ引き渡す、という考えが浮かぶのと同様に、張魯から逃げて、よそへと出奔すべきではないかという考えが、馬超の脳裏にも浮かび始めていた。
つづく……
たび重なる羌族への締めつけと、のしかかる重税に悲鳴をあげた民の怨嗟の声を受け、涼州の英雄で、みずからもまた、羌族の血を引く馬超は、韓遂ら、有力氏族たちと連合し、叛乱を起こした。
怨嗟の声をあげたのは、羌族ばかりではなく、この乾燥した厳しい土地にすまう漢族もおなじである。
そして、漢族と羌族の双方の血をひき、その風貌も誇らしく美しい馬超は、かれらの旗頭にすえるのに、ぴったりな男であった。
本人もそれを熟知していた。
そうして、太陽のように燦々と輝きを放てとばかり、派手な鎧で身を飾り、はなばなしく戦場を駆け抜けた。
これで実力がなければ、あわれな道化師の死体が、草原を、町へ帰っていく行軍の穂先に、さらしものとして掲げられていたところであろう。が、そうはならなかったところに、馬超という名前の伝説が、早くに生まれた原因がある。
馬超の武勇は、誇張でも、勢いだけのものでもなかった。
一時は、曹操をして、遷都を考えさせるほどに馬超らの勢いはすさまじかった。
これは、洛陽も目前ではないかと、馬超たちの周辺で、楽観的な空気さえ流れ始めた頃であった。
かずかずの苦難を乗り越え、そして自らの運命を切り拓いてきた曹操という男の器量に対し、度量はあったが、若すぎた馬超のあいだに、勝敗の差が出たといってよい。
連続する勝利は、楽観を呼び、そこに弛緩を生じさせた。
その弛緩こそが、馬超の命取りとなってしまう。
勢いに乗るべしとする馬超と、慎重にと進言する韓遂の意見の対立がめだってきたのであった。
馬超と韓遂のあいだが、進軍するにつれ、不和になりつつある、との情報を手に入れた曹操は、家臣たちと謀り、韓遂に誤字を修正した箇所ばかりの手紙を送りつける。
それを目にした馬超は、修正したのは、ほかならぬ韓遂ではないかと疑い、この疑惑に怒った韓遂と完全に決裂。
ここに連合はやぶれ、馬超は敗退した。
馬超はあきらめず、羌族を中心とした北方の蛮族に呼びかけ、ふたたび叛乱を起こす。
それほどに馬超の羌族においての名声は、高いものであったのだ。
涼州の民も、『あの錦馬超』ならばと、ふたたびかれに期待をかけたのだ。
そうして、二度目の波に馬超は乗ることができた。
一時は、自らを征西将軍と名乗り、ふたたび盛り返す勢いをみせた。
しかし、こんどは、馬超の独走におののいた者たちによって、馬超は帰る土地を締め出され、故郷を追われることとなってしまう。第一戦において、曹操がみせた反逆者への残酷な仕打ちが、ぎりぎりのところで、あまたの民、そして将兵たちを竦ませた。
結局、馬超はここでも、曹操にまけてしまったのだ。
その後の馬一族は悲惨であった。
曹操は、叛乱した馬超の一族をゆるさず、すぐさまその家族をすべて捕らえると、二百あまりいた氏族をすべて処刑にした。
馬超は、たった一人のこった従弟の馬岱、そして妾の董氏とともに、鶴鳴山において『五斗米道』を主催する、新興宗教の教祖・張魯のもとへと、身を寄せるしかなくなってしまったのである。
※
董氏は、長年馬超に連れ添っていた妾のひとりであり、馬超とのあいだに、秋、という息子をもうけていた。
羌族の娘で、くるぶしまで届くほどの長く美しい黒髪を持っており、その男勝りな気性と美貌が馬超の気に入り、攫われるようにして、氏族の集落から連れ帰られた。
しかし、董氏のほうでも馬超の男ぶりの良さや、強引ながらも優しい面に惹かれて、結局、ふたりは仲むつまじくなった。
馬超は、当時の武将としては、ごくごくふつうに、複数の妻を持っていたが、勝気で物怖じせず、忍耐強い董氏は、特に気に入りであった。
よほどでないかぎり文句も言わないので、戦場にも連れて行っていたから、おかげで董氏だけが、曹操の手から逃れることができたのであった。
馬超は董氏の生んだ息子の秋をとても可愛がっており、秋、秋、と言ってしょっちゅう、その手に抱いては、暇さえあれば外に連れ出して、共に空を眺めたり、大地の風を嗅いだりした。
そうして張魯のもとで待つ妻のもとに戻り、夜はその手料理に舌鼓を打って、従弟の馬岱と酒をともにする。
三人には不文律があった。
それは決して、亡くなった一族のことを口にしてはならない、ということであった。
だれが言い出したことではない。もし口にしてしまえば、場が暗くなる、などという単純なものではなかった。
二百名、という、あまりに重過ぎる人命の犠牲は、残されたたった三人では、とてもではないが、耐えて抱えていることができなかったのである。
張魯は、貧民を中心に、生き神さまとさえ崇められているほどの人格者で、天師さま、天師さま、と呼ばれ、みなに好かれていた。
張魯は、この乱世にあっても、やはり劉璋や劉表の、幼少をさほど苦労せずに過ごしている裕福な士大夫とおなじで、三代目の教祖として、幼いころから特別に育てられていた。
そのあたり、やはり長子として、ほかの兄弟たちとは別待遇で育った馬超と、気が合ったのであろう。
それに張魯は、武勇に長け、正義感の人一倍つよい馬超を気に入っていた。馬超のほうも、曹操に追われる己をかばってくれた張魯に感謝していたし、束の間の、夢のように平穏な生活を、気に入っていた。
とはいえ、馬超の生活の場は、つねに戦場であった。
家族も恋人も友も、つねに戦場で得てきた。
戦場こそが、かれの家であり、固定されて動くことのない、穏やかな時間こそが、仮の宿りなのである。
一方の張魯としては、馬超のように切羽詰った事情がなかった。
つまり、『羌族の代表』としての強迫性である。
逆にあったのは、『五斗米道』(すでに『天師道』と呼ばれつつあったが)の教祖として、自分を頼ってきた、流民たちの生活をいかに守るか、という責任である。
馬超は、自分に期待して、数多くの兵卒を預けてくれたひとびとの心を、その言葉を忘れていなかった。
だから、志半ばで、このまま戦うことを止めるわけにはいかなかったのである。
馬超はおのれの心を隠すことはしなかったし、宴や議事の場でも、そも、信者たちが貧しい生活にあえいでいるのは、天下の乱れ、曹操の圧政が原因である、それをつぶさねばならぬ、と訴えた。
もちろん、大本の腐敗は漢王室にこそあるのであるが、そこを攻撃できるほどに馬超は勇気がなかった。
当時において、漢王朝はいまだに大地における我らの『父』であり、我らは帝の『赤子』なのである。子は父を批判『できない』。つまりこの場合の勇気とは、儒の気風強くのこる時代において、父を罵倒する勇気のことである。
そうであるがゆえに、あえて責任を曹操に向けた。
もちろん、現実をしっかり見据えている者たちは多く、いや、ほとんどの世情に長けた者は、世の乱れの要因は、曹操などという人物ひとりで説明がつかないものだということを知っていた。
それをいまさら曹操に帰することすら、時代遅れだという気風が出来上がりつつあった。
『五斗米道』は多くの流民を、五斗の米さえ寄進すれば、だれであれ受け入れ、食客としてやしなう宗教団体であった。
であるから、救いをもとめ、各地から多くの民がやってくる。
だからこそ、情報の集り方もハンパではない。
張魯は、鶴鳴山という中原からすればド田舎の山にひっこんでいる身でありながら、中原の士大夫顔負けの情報を、その耳にあつめていた。
もちろん、張魯の元につどっていた、ほかの武将も同様である。
そのために、『時代遅れの田舎者』である馬超と、時代をよく知る武将たちとでは、衝突することもたびたびであった。
馬超は、長子たるゆえか、世渡りが下手であったといわざるを得ない。
この不満を、五斗米道内に同志をつくることで解決しようとせず、直接、張魯に訴えた。
困ったのは、張魯のほうである。
張魯は、たしかに馬超に安息の場を与えてくれたものの、張魯自身に野望はなかった。
彼は己をたよってきた信者の安息こそが第一であり、馬超を迎え入れたのも、貧窮した民を迎え入れるのと、さほど変わらぬ感覚であったのである。
そこが、宗教者と、生まれながらの武人の、意識の差であった。
そこで、張魯は腹心の武将、楊柏に相談することにした。
じつは、馬超の男ぶりのよさにほれ込んでいた張魯は、自分の娘のひとりを、妾しかいない馬超に妻として、与えようとしたことがある。
しかし、それを反対したのは、楊柏という将軍であったのだ。
この楊柏、将軍という肩書きこそあるが、もともとが貧農の息子である。それが張魯にひろわれ、そのご恩返しとばかりに懸命に働いて、働いて、ついに将軍という肩書きがもらえるまでに、出世したのである。
「二百名ものおのれの家族を見捨て、たった一人の妾と子供、そして従弟だけしか救えなかった男、それだけしか愛せなかった男でございますぞ、それが、他人を愛せる男と申せましょうか」
張魯は、直感の人であると同時に、感受性のつよい、思索のひとであった。
であるから、楊柏のことばを、最初は跳ね除けたものの、よくよく事実と照らし合わせれば、そのとおりであると思うようになっていた。
もとより、名門の馬家の御曹司である馬超からすれば、兵卒は使うもの、という意識がつよい。
しかし、最下層から伸し上がってきた楊柏からすれば、兵卒は、同胞であった。
同胞を、天下の情勢に照らし合わせても、勝ち目のない戦に送り出すわけには行かない。
だからこそ衝突したし、敬愛する張魯が、馬超と縁続きになり、曹操ににらまれ、処刑された二百名とおなじ運命をたどらせるわけにはいかない、と思ったのである。
張魯は、楊柏の心をよく知っていたので、娘の婚儀をとりやめた。
そして一層、楊柏を重用するようになっており、徐々に馬超への感心は薄れつつあった。
このあたりから、張魯と馬超のあいだに、馬超と韓遂のときと同様の、不協和音がながれはじめるのである。
やがて馬超は、たびかさなる動議の場において、つねに孤立するようになっていった。
張魯に不平不満を訴えるが、聞き入れられるところは少ない。
しかも、張魯というのは、面倒くさがりというわけではなかったが、やはり苦労知らずで育っているがゆえに、人の和を乱しすぎる人間が苦手で、理解できないのであった。
馬超は、まさに理解できない不穏分子であり、楊柏側の、馬超をなんとかすべしという進言が重なったこともあり、だんだんと、馬超を曹操へ引き渡すべきではないかという考えが、浮かび上がってきたのである。
とはいえ、馬超もまったくの愚か者ではない。
いや、愚か者であったほうが、どれけかよかっただろう。
馬超は、己を取り巻く環境が、日に日に悪くなっていくことに、敏感に気づいていた。己を締め付ける麻縄が、じょじょにきつくなり、身動き取れなくなっていく感覚である。
もがけばもがくほど、逃げることができない。
これは、自由を愛する馬超にとっては、おそるべき事態であった。
張魯の脳裏に、馬超を曹操へ引き渡す、という考えが浮かぶのと同様に、張魯から逃げて、よそへと出奔すべきではないかという考えが、馬超の脳裏にも浮かび始めていた。
つづく……