馬謖はぶるぶると震えながら言う。
「ニワトリがなんだってのさ! 人をこんなに落ち込ませて!」
大人しい休昭にしてはめずらしく、みずから馬謖に食って掛かる。
「ひとりでタマゴをうんじゃう、すごいニワトリの感動ストーリーだぞ。なぜ怒る! おまえにタマゴは産めまい!」
「産めてたまるか! ああ、なんたる時間の損失! 天才には、一瞬の無駄も許されないというのに!」
「その割に、成都に来てから遊び倒しているようだが」
「ふん、単に旧交をあたためているだけさ。若いうちに、どれだけのコネを作れるかで、男は出世できるか否かが決まるのだ。おまえたちのように、のんびりぼんやり過ごしていると、あっという間に白髪頭さ」
「コネって必要か? たとえ友はすくなくても、よき絆を築いておれば、自然と良縁が寄ってくるものだと思うがな」
と、文偉が言うと、馬謖は、自慢の黒髪をさらりとかき上げて、鼻で笑った。
「理想論だけじゃ、生けていけないよ? きみはずっと柴車に乗りつづけ、その脇を、わたしの豪華な巾車が通り過ぎていく。そういう人生さ。ま、そのときには挨拶ぐらいしてあげてもよいけれどね」
「おまえなんかに挨拶されたくないね。仲間だと思われるのが恥ずかしい」
「負け犬の遠吠えだな」
剣呑に言い争う三人を見て、さすがに偉度も呆れて言った。
「おまえたち、ここ何日か、ずっとこんな調子だったのか?」
「最初っからそうだったのだ。もはや我らに矯正の余地はない! 偉度、こいつを連れて帰って、クール宅急便で送り返してくれ!」
「ひとを新巻鮭みたいに言わないでほしいね。まったく、益州人って、どうしてこう単純なんだろうか」
「わたしは江夏出身だ!」
「そう、没落した費家のね」
うがーと奇声を発して馬謖の胸倉を掴もうとする文偉を、偉度はあわてて止めた。
「待て待て、仲良くしろとは言わぬが、せめて喧嘩はしてくれるな。いまはそれどころではないのだ」
「どういうことだ。おまえは、こいつを引き取りに来たのじゃなかったのか」
「こいつ、とは無礼な! 年下で官位も下の癖して!」
「だが背はわたしのほうが上だ。チビ!」
「やめろと言っているだろう! おまえたちを呼びに来たのは、ともに軍師将軍を探しに行くためだ!」
軍師将軍を探しに行く、と聞いて、互いにいまにも噛み付きそうな勢いだった文偉と馬謖はぴたりと手を止めた。
「よしよし。なんだか猛獣使いの気分だな。それはともかく、聞け。軍師将軍はこのところ、どこかに立ち寄られてからご帰宅なさる。あるときなどは、朝まで戻らなかったらしい。軍師のお屋敷の家人が、これは怪しいと知らせてくれたのだ」
「どこぞで密議でも?」
「問題は密議の内容さ。軍師将軍が最近購入されたものの一覧を見てくれ」
と、偉度が示した紙には、孔明がこの十日あまりに、仕事帰りにほうぼうへ寄って、せっせと買っている品が書き連ねられていた。
帯
白粉
鏡
簪
玉環
扇
「へえ、よく調べたな。というより、これって個人情報の漏洩といわないのか?」
「軍師将軍のプライバシー侵害だ。やりすぎだぞ、偉度」
文偉が言うと、馬謖がまたもや鼻を鳴らし、黒髪をかき上げつつ言った。
「仕方ないさ。なにせ、軍師将軍は頭に超がつく有名人だからね。有名人の悲しい宿命というやつかな。わたしも、いずれはそうなるだろうから、いまから覚悟を決めているよ」
「三面記事関連で、そうならないといいな」
「小雀どもに、鵠の大志はわかるまいよ。パパラッチさえアクセサリーの一種と割り切れるくらいにならないとね。軍師将軍には、パパラッチがいないようだけれどね、ま、そういうことなんだろうね」
「どういうことだ。自分が軍師より上になれるとでも言うのか」
「文偉、らしくもなく、いちいちつっかかるな。自分をよく見せようとするのは、そいつの趣味だと思え。パパラッチが軍師についていないのは、わたしたちが追い払っているからさ。さて、それよりも、この品目をみて、なにを考える」
「なにを、って、そりゃあ、普通は、アレだな」
なあ、と文偉は休昭に同意を求め、休昭はそのあとを継ぐように言った。
「女人への贈り物に見えるのだが」
「やはりそうか。しかも、軍師は、最近、長星橋の妓楼に通いつめているらしい。しかも隠れてだ。もちろん従者をつけているのだが、軍師は従者を途中で置いてしまい、自分だけ一人でどこぞへ消えてしまう。だから、どこの店に入っているのかはわからない。
しかも、その従者め、口止め料としてたっぷりお小遣いをもらっていたから、今日までわたしの耳にその話が入ってこなかったのだ。もちろん、とっちめたが」
「とっちめられた従者も気の毒だが、軍師のことは珍しいな。というか、まあ、そういうことはあるかもしれぬが、嫌な話だな」
文偉が言うのを、やはり休昭も頷いて同意した。
「ほかの方のそういったお話なら、そうか、遊んでいるのだな、と思う程度なのだが、軍師がそうだと聞かされると、何かイヤだ。軍師には生臭い話は似合わないもの」
「実際にお屋敷に招かれたこともあるし、我が家へご招待したこともあるから、もちろん軍師が生身の方だということはわかっているが、生活感があるかと問われれば、答えは否、なのだよな。
あれはなぜであろう。見た目や雰囲気や、琅邪のご出自だということで我らに偏見があるのだろうか」
それを聞いた馬謖は、やれやれというふうに肩をすくめてみせる。
「本当、不思議に思うのだけれど、どうして君らは、軍師をそこまで神格化してしまっているのだろうか。あの方は、たしかに能力は高いけれど、襄陽時代の頃を知っているわたしからすれば、笑ってしまうのだけれどね」
「む…たしかに我らは、襄陽にお住まいになっていた頃の軍師は知らぬが。なあ、偉度」
偉度はあえて黙って、馬謖が得意そうに語るのを見ている。
「襄陽時代のあのひとは、生意気だというので、ほうぼうから煙たがられていてね、いつも喧嘩をしては、怪我をして、兄上に介抱されていたのさ。兄上が、喧嘩の仲裁に入ったことだってある。徐庶とかいう、前科持ちと仲良くしていたが、それとて、用心棒代わりだったとわたしは思っているよ。
ともかく、論争で勝つというのならともかく、結局、実力行使に至ってしまうのは、論客としてはどうだろうねと思ってしまうのだが」
「昔はどうあれ、いまは押しも押されぬ当代一の論客であろう。それに、男は拳で勝負せねばならぬこともある」
孔明の批判に、ムッとした文偉が言うと、馬謖は、素直に、まあそうかもね、とひっこんだ。
馬謖は馬謖なりに、新野にて軍師に迎えられて以降の孔明の功績を尊敬しているのである。
とはいえ、心の片隅では、わたしならば、もっとうまくやるさと思っているのだが。
「そうそう、怪我をするとね、あのひとはなぜか桃を食べたいとわがままを言うのさ。いつだったか、真冬の最中にそんなことを言い出した。もちろん夏にならなくちゃ桃は食べられない。
思いついたら、いても立ってもいられなくなったのだろう。あの人は、吹雪にもかかわらず外に出かけて、桃の干したのを求めてあちこちを歩きまわったあげくに遭難して、近所の樵夫に助けられていたっけ。結局、桃は食べられずじまい。遭難して倒れていたのは、冬眠しそこねた熊を避けるためだったと負け惜しみを言っていたけれど」
「あのひとなら、吹雪の日に、なぜだか冬眠しそこねた熊に遭遇しそうだけれど」
休昭の言葉に、偉度も文偉もうなずいた。
「そうだな。ほかの者ならば有り得ない事象も、あの人には普通に起こるからな。東南の風も、実は本当に妖術で吹かせましたって告白されても、あ、やっぱりそうなんですか、今度術を教えてくださいと普通に答えられそうだ」
「事実、めちゃくちゃな人生を送っていると思うよ。それはともかくとして、軍師が女人に入れ込んでいるかもしれないこの事実、どう思う? 先に言わせて貰うならば、主簿として、わたしはこれに反対する」
「うむ、偏狭かもしれぬが、軍師はいままでのほうがよい」
「わたしもだ。女人を相手に浮かれている軍師なんていやだ」
文偉と休昭が答えたのを、偉度はよしよし、というふうに頷くが、かたわらの馬謖は不満そうである。
「なぜ、わたしに意見を聞かないのかい?」
「おまえはもう帰れ。白まゆげの君に話をしたら、愚弟はやはりこちらで預かりますので、宅配ボックスの2番目に入れておいてくださいとのことだ」
「人を邪魔な荷物のように! イヤだ、兄上のところに行けば、小言ばかりになるのは決まっている。わたしは行かないよ」
「じゃあ、漫画喫茶なりファミレスなりで時間をつぶして過ごせ。われらは軍師を探しに行く」
「ふん、勝手にすればいいさ。こっちとしても、やっと莫迦を相手にしなくて済むと思うと、せいせいするよ。好きなところへ行かせてもらう」
「偉度、軍師を探しに行くのに異論はないが、そういうことならば、趙将軍にさきにお声をかけたほうがよいのでは? あの方なら、軍師のことで、なにかご存知かも知れぬ」
文偉の言葉に、偉度はめずらしく心もとなさそうな顔をして振り向いた。
「それがな、ここに来る前に、話をしに行ったら、ただひとこと、『そうか』と言われて、おしまいになった」
「『そうか』って、それだけ?」
「それだけさ。慌てもせず、騒ぎもせず、驚きすらしなかった。あのひと、たまに冷たいくらいに割り切ったものの考え方をなさるからな。軍師も男なのだし、そういうこともあるかと思っているのだろう。が」
「が?」
「わたしは嫌なのだ! よりによって妓楼の女だと? 偏見はないさ。ああ、本当にない! だが、わたしに隠れてこそこそと通っている、その性根が気に食わぬ!」
偉度の勢いに、文偉と偉度の二人はたじろぎつつ、言った。
「きみが軍師の奥方というわけじゃあるまいし、そこまで怒ることなかろう」
「ふん、では聞くが、休昭、おまえ、父君が妓楼に通っていると知ったら、どう思う」
「幻滅すると思う」
休昭の言葉に、文偉は異論を唱える。
「そうか? わたしは、幼宰様も男なのだと、普通に思えるが」
「たまに通う程度ならばいいさ。だが、通いつめているとなると、やはり穏やかではない。相手の女人に対して、真剣に妻にと考えているのならばよいが、単に遊びのために通っているのだとしたら、やはり嫌だし、子として悲しいな」
「おまえたちは潔癖症だな。もしうちの伯父上が妓楼の女に通いつめているとしたら、遅い春が来たのだな、と思うが」
文偉の言葉に、偉度は不機嫌に言う。
「ふん、単純坊ちゃん。おまえは趙将軍と同じというわけか。休昭、こっちへ来い。文偉は放っておいて、われらだけで軍師を探そう」
まったくだ、と言いながら、いつになく仲良く二人して並んで歩き、しかも珍しいことに、肩まで組んみはじめた偉度と休昭の背中に、文偉は言った。
「にわか作りの潔癖党の結成というわけか。おまえたち、そんな調子だと、女人と付き合えないぞ」
「付き合うつもりはない」
きっぱり言ってのける偉度の横で、休昭は、言葉を濁して、ちょっと困る、と小さな声でつぶやいた。
偉度はそれを聞き流し、ぶつぶつ言う。
「まったく、自分で言ったことを忘れて、妓楼通いだと? 信じられぬ。あの若さでもう健忘症か? 趙将軍がお許しになっても、わたしは許さぬぞ」
「偉度、あんまりカッカするな。休昭が怯えているじゃないか。軍師がなにを言ったって?」
「昔のことだけれどね、妓楼にいる女たちは、好きでそこにいるわけじゃない。かといって、妓楼の経営を止めるわけにはいかない。あれこそは必要悪の最たるものだ。
わたしに出来ることは、せめて中にいる妓女たちが悲惨な目に遭わないように法を制定して取り締まることくらいなものだ、と。そして、わたし一人のむなしい抵抗かもしれぬが、生きている間は、妓女を買うことはしない、と。そう言っていたくせに!」
「人は食欲・情欲・睡眠の三つは、抑えがたいというではないか。わたしが言うのもおかしいが、許してさしあげろよ」
「嫌だ!」
「まったく、柔軟な奴かとおもえば、ときにひどく頑なになる。おまえという奴はわけがわからぬ。ところで偉度」
「なんだ」
「われらの後ろを、顔ナシみたいに、付いて来る者がいるのだが」
文偉の言葉に振り返ると、好きなところへ行く、と言っていたはずの馬謖が、すまし顔をしてついてくる。
偉度と文偉の視線に気づいたか、質問をされる前に答えた。
「なんだい? わたしが向かう先に、たまたま君らがいるだけさ。それともなにかい? やはり、三人だけでは心もとないから、付いてきて欲しいとでも言うのかい?」
「言わない」
「なんだい! だったら、こちらを見るな!」
不機嫌そうに馬謖は言うが、偉度は、なんとなくこの白まゆげのわがまま弟、はるかむかーしの自分に似ているな、と違和感を覚えつつ感じていた。
軍師と初めて会ったとき、軍師がこちらに反発を覚えたと言っていたっけ。
こんな気分だったのかな、と偉度は思いつつ、長星橋へ向かって歩き続けた。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/31)