「あのな」
と、いつになく仲良しな偉度と休昭の背中を見ながら、一歩遅れて歩く形となっている文偉は、後ろ頭のところで腕を組んだ姿勢のまま、言った。
「思ったのだが、軍師が買った小物、誰かに贈る、というのではなく、自分で使っているという可能性はないか?」
すると、偉度はぴたりと足をとめ、ぎろりと文偉を振り返った。
「莫迦文偉。軍師に女装趣味があるとでもいうのか?」
偉度は、普段は地味にしているが、この三人(プラス1)のなかでは、もっとも見目良い青年である。
顔立ちが整っているために、睨むと恐ろさも増す。
そのあまりの勢いに、うろたえつつ、文偉は言った。
「いや、単なる思い付きだ。ほら、むかし、おまえが荊州にいたころ、方々が余興で芝居をしたことがあったと言っていただろう」
「たしかに芝居はしたし、女装した方もいたさ。張将軍だったけどね」
「そう、そして、その夫役は、哀れな兄上だったのさ」
と、決別を宣言したにもかかわらず、コバンザメのようについてくる馬謖が口を挟んでくる。
三人は、この荊州発わがまま育ちの坊ちゃんの好きなようにしゃべらせておくようにした。
でなければ、また無駄な騒ぎになるからだ。
「偉度が言っているのは、天帝に見込まれた男のところに、神女が嫁にやってくる、という芝居の話だろう? 本当は、軍師が神女役だったのさ。ああいう、晴れやかな場は軍師だって好きだからね、最初は乗り気だったらしいのに、主役の男役が趙将軍だと聞いてから、絶対に嫌だと言い出して、主公が宥めても聞かないものだから、結局、文武百官全員が籤を引くことになったのさ。で、局地的な運の悪さをみせる兄上が、籤に当たった、と。
まったく、なんだってあんなに嫌がったのかね。ちょっと間抜けなところを部下に見せるのも、人心掌握術の一つだと思うのだけれどね、わたしは」
「嫌がったのは、なんとなくわかる気がするな」
文偉がぽつりと言うと、偉度がまったくだ、と付け加える。
「人の心の機微がわからないのじゃ、せっかく人心掌握術を心得ていても、宝の持ち腐れだよ、馬家の莫迦坊ちゃん」
なにおう、と後方でぶうぶう言う馬謖を尻目に、あいかわらず偉度と暑苦しく肩を組んだままの休昭が言った。
「わたしも、なぜ嫌がったのか、よくわからないな。偉度や文偉は、なぜ判るのだ?」
まあ、そりゃあ、と説明しにくそうにしている文偉の代わりに、偉度は答えた。
「領域の問題なのだよ。お子様の休昭には、いまひとつピンと来ないだろう」
「またそうやって莫迦にする。このなかで一番年少だからって、なにも判らないわけじゃない」
「ふん、じゃあ、こう言い換えようか。二つの杯がぴったりと並べられており、そこにはなみなみと水が注がれている。だが、片方は赤い水、片方は真水だ。この二つは、同等の高さと分量を保っている。奇跡の業で、交じり合わずに時間が止まって、同じ状態がずっと続いているのだ。
だが、ちょっとした衝撃、たとえば、杯の置いてある卓を揺らすなどしたら、水は跳ねて、真水が赤く染まってしまう。あるいは、どちらかが引っくり返って空になってしまう。軍師はそれを恐れたのさ」
「すまぬ、さっぱりわからぬ。文偉にはわかるのか?」
文偉は、というと、曖昧な顔をしたまま、振り返る休昭に答えた。
「偉度にはすまぬが、判りにくい喩えだな。でも、そういうことだよ」
「なんだ、判っているのじゃないか。杯は軍師と将軍を喩えたものだろう。水は?」
「それは自分で考えろ。とはいえ、おまえは、あの幼宰さまのお子だからな。もしかすると、生涯わからぬかもしれぬ」
偉度が言うと、休昭は、それじゃ意味がないとぶうぶう言った。
すかさず、最後尾の馬謖が言う。
「ふん、安心するがいい、董幼宰の子。わたしにも判らなかった」
「ええ、アレと仲間?」
ガッカリする休昭に、偉度は、とりあえず励ましの意味で、肩を組んだまま、手首だけを器用に動かして、宥めるように肩を叩くと、町中に入ってもなお、どこに消える気配もない馬謖に尋ねた。
「ところで、どこまで付いてくるつもりだ? あんたの好きそうなファミレスだのインターネットカフェだのPCショップだのは、つぎつぎと通り過ぎているのだが」(このお話はおばか企画です)
「成都は田舎で嫌だね。わたしはファミレスなんて安っぽい飲食店には入らないし、インターネットカフェも、気に入りのチェーン店でないと嫌なのだ。成都にはそれがないからね、まあ、いっそ誘致しようかという計画もたてているのだが。
PCはいつも最新のものをそろえているし、情報は常にチェックしているから、いまさら店舗に寄る意味もない」
と、馬謖はなぜか自慢げに、手入れの行き届いた黒髪をさらりとかきあげてみせた。
とりあえず、必要最小限の髪は結っているのだが、たいがいは、これ見よがしに垂らしている、という髪型である。
馬謖は、『パリのサロンの最新ヘアスタイル』とうそぶいていたが、偉度はひそかに『貞子風味の寝癖スタイル』と呼んでいる。
「じゃあ、大人しく白まゆげの君の自宅の宅配ボックスの2番目に入っていろよ」
「あのね、嫌だと言っているじゃないか。だいたい、君は、わたしより年下だっていうのに、こちらに対する敬意が不足しすぎているのじゃないかな」
「あいにくとわたしは義陽の田舎者でね。実力の在る者になら、たとえ年下にでも頭を下げるが、無能な者には頭を下げない主義なのだ」
「なんだろう、聞きまちがいかな。いま、君がとんでもなく無礼なことを言ったような気がしたけれど」
「無礼なことは言っていないさ。事実を言ったのだ」
ぶつかりあう視点のちょうど真ん中に位置する文偉は、喧嘩になりそうな気配を察知し、偉度の視線に割り込むと、わざとおどけて言った。
「なあ、さっきの話だが、軍師に女装趣味がある、というのではなく、それこそ余興で、女装する必要がある、ということはないか」
「そんな予定は聞いていないぞ」
「だから、おまえにも内緒で、みなをびっくりさせるために、女装の準備をしているのだ」
文偉の言葉に、偉度はたしかに、と想像をめぐらせる。
なんらかの余興のため、こっそり内緒で女装の準備を進めている。
そして、女らしい所作を学ぶために、妓楼へ通って指導を受けている?
「まあ、突拍子のない方だから、ありうるが」
「だろう? そうであったらいいな。いや、軍師の女装を見たいかと問われれば、いささか微妙ではあるが」
「軍師の女装かい? 背がかかしのように高いくせに、妙に妖麗な雰囲気を醸し出す、仙女のような姿であったよ」
「見たことあるのか?」
三人が一斉に足を止めて振り向いたので、馬謖としては満足したらしく、口はしに、自信満々な嫌味の笑みではなく、素直に嬉しそうな笑みを浮かべて、言った。
「そうさ。司馬徳操先生のところで、みなで飲んだとき、ふざけ半分に、このなかで女装して、いちばん見栄えの良かったものに何でも奢る、という話になってね、兄もわたしもいたのだが、まあ、とりあえず参加したけれど、若気の至りというかね、怪異現象目白押し、という状況で、さすがの先生も蒼くなっておられたが」
「が?」
「軍師が登場したら、みなしーんとなってしまってね、最初はぽかんとしていた先生も、はっとして、みなの顔を見回してから、顔をいちばん真っ青にして、『おまえは、二度とみなの前で女装はしないように。それがおまえの友のためであり、友情を長続きさせるための方法だ』とおっしゃったのさ」
「……当然ながら、男ばっかりだったのだろう、その集まり」
「そのあとの気まずい空気ったらありゃしない。軍師はそれ以来、冗談でも女装をしなくなったし、わたしたちの間じゃ、軍師の女装の話は、『してはならない話』のトップなのだ」
「軍師、お気の毒に」
休昭が言うので、偉度は思わず尋ねる。
「気の毒にというが、おまえ、なにが原因で、その場が静まり返ったのか、わかっているのか」
「わかっているとも。真面目な軍師がそのような振る舞いをされるとは、だれも思っていなかったので、呆れて黙り込んでしまったのだろう?」
偉度は肩の力をすとんと落して、苦笑いをした。
「おまえのココロは、呆れるほどにすこやかだ」
「ええ? ちがうのか?」
休昭は眉を軽くひそめて、正解を探っているが、偉度の見る限り、休昭が自力で正解にたどり着く可能性はしばらくないようである。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/09/04)
と、いつになく仲良しな偉度と休昭の背中を見ながら、一歩遅れて歩く形となっている文偉は、後ろ頭のところで腕を組んだ姿勢のまま、言った。
「思ったのだが、軍師が買った小物、誰かに贈る、というのではなく、自分で使っているという可能性はないか?」
すると、偉度はぴたりと足をとめ、ぎろりと文偉を振り返った。
「莫迦文偉。軍師に女装趣味があるとでもいうのか?」
偉度は、普段は地味にしているが、この三人(プラス1)のなかでは、もっとも見目良い青年である。
顔立ちが整っているために、睨むと恐ろさも増す。
そのあまりの勢いに、うろたえつつ、文偉は言った。
「いや、単なる思い付きだ。ほら、むかし、おまえが荊州にいたころ、方々が余興で芝居をしたことがあったと言っていただろう」
「たしかに芝居はしたし、女装した方もいたさ。張将軍だったけどね」
「そう、そして、その夫役は、哀れな兄上だったのさ」
と、決別を宣言したにもかかわらず、コバンザメのようについてくる馬謖が口を挟んでくる。
三人は、この荊州発わがまま育ちの坊ちゃんの好きなようにしゃべらせておくようにした。
でなければ、また無駄な騒ぎになるからだ。
「偉度が言っているのは、天帝に見込まれた男のところに、神女が嫁にやってくる、という芝居の話だろう? 本当は、軍師が神女役だったのさ。ああいう、晴れやかな場は軍師だって好きだからね、最初は乗り気だったらしいのに、主役の男役が趙将軍だと聞いてから、絶対に嫌だと言い出して、主公が宥めても聞かないものだから、結局、文武百官全員が籤を引くことになったのさ。で、局地的な運の悪さをみせる兄上が、籤に当たった、と。
まったく、なんだってあんなに嫌がったのかね。ちょっと間抜けなところを部下に見せるのも、人心掌握術の一つだと思うのだけれどね、わたしは」
「嫌がったのは、なんとなくわかる気がするな」
文偉がぽつりと言うと、偉度がまったくだ、と付け加える。
「人の心の機微がわからないのじゃ、せっかく人心掌握術を心得ていても、宝の持ち腐れだよ、馬家の莫迦坊ちゃん」
なにおう、と後方でぶうぶう言う馬謖を尻目に、あいかわらず偉度と暑苦しく肩を組んだままの休昭が言った。
「わたしも、なぜ嫌がったのか、よくわからないな。偉度や文偉は、なぜ判るのだ?」
まあ、そりゃあ、と説明しにくそうにしている文偉の代わりに、偉度は答えた。
「領域の問題なのだよ。お子様の休昭には、いまひとつピンと来ないだろう」
「またそうやって莫迦にする。このなかで一番年少だからって、なにも判らないわけじゃない」
「ふん、じゃあ、こう言い換えようか。二つの杯がぴったりと並べられており、そこにはなみなみと水が注がれている。だが、片方は赤い水、片方は真水だ。この二つは、同等の高さと分量を保っている。奇跡の業で、交じり合わずに時間が止まって、同じ状態がずっと続いているのだ。
だが、ちょっとした衝撃、たとえば、杯の置いてある卓を揺らすなどしたら、水は跳ねて、真水が赤く染まってしまう。あるいは、どちらかが引っくり返って空になってしまう。軍師はそれを恐れたのさ」
「すまぬ、さっぱりわからぬ。文偉にはわかるのか?」
文偉は、というと、曖昧な顔をしたまま、振り返る休昭に答えた。
「偉度にはすまぬが、判りにくい喩えだな。でも、そういうことだよ」
「なんだ、判っているのじゃないか。杯は軍師と将軍を喩えたものだろう。水は?」
「それは自分で考えろ。とはいえ、おまえは、あの幼宰さまのお子だからな。もしかすると、生涯わからぬかもしれぬ」
偉度が言うと、休昭は、それじゃ意味がないとぶうぶう言った。
すかさず、最後尾の馬謖が言う。
「ふん、安心するがいい、董幼宰の子。わたしにも判らなかった」
「ええ、アレと仲間?」
ガッカリする休昭に、偉度は、とりあえず励ましの意味で、肩を組んだまま、手首だけを器用に動かして、宥めるように肩を叩くと、町中に入ってもなお、どこに消える気配もない馬謖に尋ねた。
「ところで、どこまで付いてくるつもりだ? あんたの好きそうなファミレスだのインターネットカフェだのPCショップだのは、つぎつぎと通り過ぎているのだが」(このお話はおばか企画です)
「成都は田舎で嫌だね。わたしはファミレスなんて安っぽい飲食店には入らないし、インターネットカフェも、気に入りのチェーン店でないと嫌なのだ。成都にはそれがないからね、まあ、いっそ誘致しようかという計画もたてているのだが。
PCはいつも最新のものをそろえているし、情報は常にチェックしているから、いまさら店舗に寄る意味もない」
と、馬謖はなぜか自慢げに、手入れの行き届いた黒髪をさらりとかきあげてみせた。
とりあえず、必要最小限の髪は結っているのだが、たいがいは、これ見よがしに垂らしている、という髪型である。
馬謖は、『パリのサロンの最新ヘアスタイル』とうそぶいていたが、偉度はひそかに『貞子風味の寝癖スタイル』と呼んでいる。
「じゃあ、大人しく白まゆげの君の自宅の宅配ボックスの2番目に入っていろよ」
「あのね、嫌だと言っているじゃないか。だいたい、君は、わたしより年下だっていうのに、こちらに対する敬意が不足しすぎているのじゃないかな」
「あいにくとわたしは義陽の田舎者でね。実力の在る者になら、たとえ年下にでも頭を下げるが、無能な者には頭を下げない主義なのだ」
「なんだろう、聞きまちがいかな。いま、君がとんでもなく無礼なことを言ったような気がしたけれど」
「無礼なことは言っていないさ。事実を言ったのだ」
ぶつかりあう視点のちょうど真ん中に位置する文偉は、喧嘩になりそうな気配を察知し、偉度の視線に割り込むと、わざとおどけて言った。
「なあ、さっきの話だが、軍師に女装趣味がある、というのではなく、それこそ余興で、女装する必要がある、ということはないか」
「そんな予定は聞いていないぞ」
「だから、おまえにも内緒で、みなをびっくりさせるために、女装の準備をしているのだ」
文偉の言葉に、偉度はたしかに、と想像をめぐらせる。
なんらかの余興のため、こっそり内緒で女装の準備を進めている。
そして、女らしい所作を学ぶために、妓楼へ通って指導を受けている?
「まあ、突拍子のない方だから、ありうるが」
「だろう? そうであったらいいな。いや、軍師の女装を見たいかと問われれば、いささか微妙ではあるが」
「軍師の女装かい? 背がかかしのように高いくせに、妙に妖麗な雰囲気を醸し出す、仙女のような姿であったよ」
「見たことあるのか?」
三人が一斉に足を止めて振り向いたので、馬謖としては満足したらしく、口はしに、自信満々な嫌味の笑みではなく、素直に嬉しそうな笑みを浮かべて、言った。
「そうさ。司馬徳操先生のところで、みなで飲んだとき、ふざけ半分に、このなかで女装して、いちばん見栄えの良かったものに何でも奢る、という話になってね、兄もわたしもいたのだが、まあ、とりあえず参加したけれど、若気の至りというかね、怪異現象目白押し、という状況で、さすがの先生も蒼くなっておられたが」
「が?」
「軍師が登場したら、みなしーんとなってしまってね、最初はぽかんとしていた先生も、はっとして、みなの顔を見回してから、顔をいちばん真っ青にして、『おまえは、二度とみなの前で女装はしないように。それがおまえの友のためであり、友情を長続きさせるための方法だ』とおっしゃったのさ」
「……当然ながら、男ばっかりだったのだろう、その集まり」
「そのあとの気まずい空気ったらありゃしない。軍師はそれ以来、冗談でも女装をしなくなったし、わたしたちの間じゃ、軍師の女装の話は、『してはならない話』のトップなのだ」
「軍師、お気の毒に」
休昭が言うので、偉度は思わず尋ねる。
「気の毒にというが、おまえ、なにが原因で、その場が静まり返ったのか、わかっているのか」
「わかっているとも。真面目な軍師がそのような振る舞いをされるとは、だれも思っていなかったので、呆れて黙り込んでしまったのだろう?」
偉度は肩の力をすとんと落して、苦笑いをした。
「おまえのココロは、呆れるほどにすこやかだ」
「ええ? ちがうのか?」
休昭は眉を軽くひそめて、正解を探っているが、偉度の見る限り、休昭が自力で正解にたどり着く可能性はしばらくないようである。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/09/04)