盛夏の季節、天候不順のこの頃

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第37回上尾市美協展開催

阪神・淡路大震災から15年! 町田譽曽彦

2011-01-17 08:01:17 | 暮らし
 阪神・淡路大震災から16年になります。震災から暫くの間は、暗い部屋
では体が震えて、、、 死者 6434人。
 震災の体験を同窓生に講演しました。
<中央大学学員会白門43会、第10回総会町田譽曽彦の講演内容>           
                                                  NO.1

 

神戸ポートターミナル 透明水彩 1997.1.16 まちだよそひこ
                     
演題:「いざと言う時の準備」 阪神・淡路大震災での体験をもとに
講師: 町田譽曽彦 
前半 「いざと言う時の準備」(地震当日からその後について)             NO.2



      






● まず、阪神・淡路大震災の当日について。
       1995年1月17日午前5時46分ごろ地震が発生、、、(灘区烏帽子のマンションにて)

● 私の隣が烏帽子中学校、地震後に校庭は、避難所になりました。
1月17日、震災の夜は満月でした。
 家が全部壊れた家族は「命が助かった」と笑顔で会話、、、体育館は霊安室(遺体置き場)に使われました。





 





● 私が住んでいた灘区の12階建てのマンションの被害状況をお話ししたいと思います。
(冷蔵庫、お風呂、サイドボードなど、、、)冷蔵庫、サイドボードは横転、お風呂の水も地震
の縦揺れで半分ほどに           

●家族のいる埼玉に帰りたくて! 週末は、灘区烏帽子から阪神甲子園駅まで歩いて8時間
余り。
高崎線の上尾駅改札口では、家族兄弟親戚一同が私を見たら万歳! 万歳!

●震災後に神戸で水彩画を始めたキッカケは、美しい神戸を沢山絵に描きたくて
(震災後、新神戸駅前の「ホテル神戸」で町田譽曽彦個展を開催しました。)

●震災後に咲いた恋の花の行方、、、歯医者の受付の女性は今、36才! 







 






後半 「いざという時の準備」項目別                             NO.3
1.大地震が発生したらまず家族への連絡確認がいちばん大切です。
その時、公衆電話ではテレフォンカードは使えませんでした。10円玉なら繋がりました。
神戸から東京・埼玉に電話はかかりましたが、地方からは中々つながらなかったようです。(電話局で操作)
又、自動販売機は使えず、缶ジュースなどは購入できません。震災時には、携帯電話と携帯ラジオが大変便利で役に立ちます。

 
2.新築40年以上の古い家は、屋根瓦の重みに耐え切れず瞬時につぶれて住んでいた人は即死!
地震の縦揺れ横揺れなどの種類にもよりますが、山側より海側の被害が大きかったです。5階建て以上の大きなマンションは2階から3階にかけての被害が非常に大きかったです。安全を求めるのならばその階を、、、













新神戸布引ハーブ園にて 透明水彩 1998.8.23 町田譽曽彦



3.大震災後は、道路が地割れと壊れた家屋が道路にはみ出し自動車の通行は殆ど
無理になります。オートバイと自転車が大変便利で利用されていました。 
鉄道が不通になり街に車が、、、交通渋滞で自動車は動けず。

                                                    NO.4
4.親友と思っていた人が震災時にあまり当てにならず、あまりよく知らない人から救援の
物資と心のサポートが多くありました。
きっと、神戸が震災でそんなに大変な状況とは考えていなかったようです。心の優しさと
思いやりの大切さを強く感じました。とにかく、困っている人に手を差し伸べてあげることを
改めて教えられました。






 





5.大震災の夜のこと避難所の校庭は、家が全部燃えてしまった人や全壊の人達はみな笑顔で
話をしていました。その反面、家が少し壊れたとか家から物を取り出し忘れた人などは気持ちが
沈んでいました。
命が助かったと喜んでいた笑顔の家族がとても印象的でした。
一番大切なものは人の命、、、人は、お金や物を沢山に持つとどうしても財産に執着してしまい
“心の豊かさ”が貧しくなるような気がします。(震災後、特に感じた事は物への欲望と心のバランス
が大切のよう思いました。)

6.お風呂の水は栓を抜かないで、夜流さずに翌日まで残すようにすること
です。
震災後に洗濯、掃除、トイレの水などに有効利用できます。又、日頃からポリタンクに水を入れ、
飲み水として準備しておく事も大切です。
洗濯は、川でする人と自宅で給水車の水を使い洗濯そして、その水をトイレの用水として再利用しま
した。
                                                   NO.5
7.地震で壊れてしまうような大切な物は箪笥やサイドボードの上に置かないようにすると良い。又、
家具が倒れないように針金などで固定するのも一考です。そして、安全な寝かた布団の敷き方は、、、
震災から自分の身を守る寝かた布団の敷き方は、背を壁にする。そして、布団の隣に箪笥やサイド
ボードなど倒れる恐れのある物を置かない事です。
頭上に蛍光灯や電球などの障害物が来ないようにする。

8.震災時には、自動車の鍵は特に注意してかけておくことが大切です。とくに貴重品はご注意を、、、
(神戸の震災時には車の盗難が頻繁に起りました。会社の仲間が盗難に遭いました)

9.食器は、“ラーメン”どんぶりと箸があればとりあえず不自由しませんでした。余分の器や普段
使わない物が意外と家に多くあることに気が付きました。






 






10.震災後、冬の寒い中で冷たい弁当、40日間 ! 暖かいご飯と味噌汁が食べたくて、、、会社の
昼食は40日くらい大阪から仕出し弁当とインスタントの味噌汁でした。
ガスコンロとガスボンベ

                                                NO.6 
11.仮設のトイレでの生活、マンションの前の庭が共同仮設トイレとなりました。
(ブルーテントは、震災後の仮設住宅を思い出します。)
昼の仮設トイレは良いですが夜に部屋から行くのは怖く抵抗がありました。
東京でブルーのシートを見ると震災後の仮設住宅と壊れた屋根・避難生活者の姿が目に浮かびます。
上野公園に行くとホームレスのブルーのテントが目に付きます。

12.路上には救援物資の衣類・食器・ジャンバー・セーターなどがむしろの上に、、、
震災時は水や食糧がほんとうに深刻でした。震災後の街の状況を見て○○本部、  ○○組などもテントを
張って物資を無料配布。市民へのボランテア活動参加を積極的にやっていた風景が、、、

13.名古屋から2人の学生さんが夜に自動車で沢山の“むすびをトランク”に入れボランテア活動!
 私が街に水を汲みに行く途中、道路で学生さんが声を、、、
私は“むすび2個”もらい、あとは烏帽子中学の避難所に行く事をお願いしました。

14.余震が続き恐怖感が増幅し夜になると部屋は暗くて、、、今でも、部屋が暗いと震災を思い出し怖くなり
部屋の蛍光灯を全部つけて明るくしてしまいます。
お風呂は1ヶ月で2回“余震が続く暗い部屋での30日間、”水とトイレと連絡手段“郵便物はすべて郵便局
止まりでした。
飲み水は、消防車が街を巡回し1日1回ポリバケツかポリタンクで貰う事が出来ました。
その時も被災者はいつも長い行列を作って飲料水をもらいました。                                          





 





      
郵便物は局止まり。郵便局の職員の数も限られおり又、地震で家は壊れ燃えてなくなっていました。
自宅への郵便物の配達はありませんでした。
家族から送られた菓子パン、ジュース、ぺットボトルなど届きませんでした。

15.私への救援物資は、携帯ラジオ.ガスコンロ(ガスボンベ)・ビタミン等の栄養剤・ミネラルウオーター
・手袋・下着・靴下・靴(底が厚いゴム)・ウエットティシュ・タオルなどと心のこもった手紙でした。

                                                  NO.7
16.救援隊が救助犬をつれて灘区に最初に来たのが地震発生から3日目でした、すでにつぶれた家の
住人は死んでいたかも知れません。、、、
日本政府が海外からのボランテアに対して、受け入れ態勢が出来ておらず。「整備が不十分」だった、、、


17.地震後、2日で灘区のJR六甲道駅付近は家が90%全焼してしまい焼け野原となってしまいました。
「父、この地に眠る!」「母この下に眠る、掘り起こしに注意!」の墓標がいたる所に見られました。










神戸オリエンタルホテルより六甲の山並み




18.六甲の山並みと神戸港の美しさは地震の前と変わらず、しかし地震で壊れた街と自然の美しさが
対照的に脳裏に残りました。 “国に敗れて山河あり”
今から80年ほど前の1923年、関東大震災の時が神戸のような被災状況だったかも知れないと思いました。
灘区六甲道付近は、家が殆ど焼失して焼け野原、、、
墓標があちこちに立ちならんでおりどのように表現したら良いか迷いました。
『この下で父が眠る、、、掘り起こしに注意!』何も無いこと、病気で無いこと、普通の生活が出来る事が一番
幸せと思い感謝しています。          
                                                   NO.8   
19.震災後、神戸では途切れることなく救急車・消防車そして、警察のサイレンが続いていました。
東京でサイレンの音を聞くと神戸の震災をすぐ思い出します。
震災後、ビルや家屋の取り壊しで粉塵が街に、、、外出には、防塵マスクが必要です。                          

20.大地震を想定して、いろんな大切なデータのバックアップの再点検が必要です。













21.震災後、3ヶ月経ってやっと灘区の全壊マンションからライフライン完備の新神戸駅前マンションに
移ることが出来ました。
とにかく、ライフラインが確保できればどこでも良いと思って自分で探しました。
しかし、その部屋は窓が少なくその上に北西向きの窓で太陽光線は殆ど入らずマンションでした。
お釈迦様か遺体の霊安室によい環境でしたが、、、










 アジ   透明水彩  町田誉曽彦






22.心の持ち方で人生楽しくも生きられる事を教えてくれました。
陽当りが悪いマンションでしたが、すぐ前が新幹線の新神戸駅で交通の便がすごく良く又、近くに神戸
北野異人館があり写生するにはとても良い所でした。
しかし、その事よりも「水、電気ガス、風呂」などが確保できればと満足しました。
自分で納得して入居し東京に戻るまでの約3年間住んでしまいました。












世の中は表と裏があり、人間は長所と短所があるものです。窓が「西と北向きのマンション」で環境が
悪かったですが“不満はなく感謝の気持ちで毎日を”暮らして来ました。上をみたら切りがなしです。

人の欲は果てしないものです。
人間は心の持ち方で人生を楽しくも生きられる事を震災が教えてくれました。
これからも震災の体験を風化させずに、語りつぎ生きて行きたいと考えています。
                                                 







新神戸ポートターミナル(北公園にて)水彩 1997.10.19 まちだよそひこ







まちだよそひこ メール: yosohiko@jade.plala.or.jp  
アート町田譽曽彦の世界HP http://pub.ne.jp/yosohiko/


①町田譽曽彦の世界公式サイトはこちらから



②群馬県立伊勢崎商業首都圏同窓会広瀬会サイトはこちらから



③Le Rond-Point  「ル・ロンポワン」東京・広尾 (フランス料理の
お店)サイトはこちらから







                        

                        <北野異人館 油絵 F15 町田 譽曽彦>
                           



(アルベルト譽)












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