「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「歴史の回想・天狗党の乱」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-04-11 07:58:10 | 温故知新


「歴史の回想・天狗党の乱」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
1、「幕末末期の元治元年(1864)水戸藩尊攘激派による筑波山挙兵とその後の騒乱事件。「天狗」とは、新参軽格の士が多い天保改革派にたいして反改革派が用いた蔑称で、譜代門閥の者には鼻高々の成り上がり者に映ったのだろう。一方、改革派は反改革派を「好物」と呼んだ。天狗党の主流は安政期頃から尊攘派として活動。安政5年(1858)前藩主徳川斉昭らの謹慎処分撤回を求める運動を展開したが、翌年戊午の密勅の取り扱いに巡って過激派と慎重派に分裂し。過激は天狗党につながり、鎮派の大方は弘道館書生や門閥派と結合し反天狗の諸生党を結び、両党は熾烈な武力闘争を生み出した。激派から桜田門外の変の関係者が出ている。1864年3月藤田小四郎、竹内百太郎、新治郡安食村の豪農で郷士らは各地の郷校に駐屯する同志を誘い、町奉行田丸稲之衛門を首領にして攘夷を旗印に筑波山に挙兵し、挙兵時は数百人に過ぎなかったが、各地から有志が参集し、一時1000人余りになった。天狗党は北関東を各地を横行し、追討軍と緒戦は優勢であった。だが次第に皇太子、藩内事情に起因する諸生党との抗争に縮小していった。10月那珂湊の戦いに敗れた一党は、元家老の武田耕雲斉を総裁にして、京都にいる一橋慶喜を頼り朝廷に真意を伝えるべく西上。一党は、下野、上野、信濃、飛騨の各地で追討軍と戦いながら、進んだが12月20日越前新保で加賀藩823人が降伏。翌年2月には敦賀で耕雲斉・小四郎ら352人が斬られ、そのほかも遠島、追放などに処せられた。しかしその後も両党の抗争は終わらず、明治元年1868年の弘道館の戦いに諸生党が実質的に滅びるまで続いた。


「歴史の回想・太平洋戦争」アマゾン・グーグル・楽天・角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍

2020-04-11 06:13:52 | 温故知新

「歴史の回想・太平洋戦争」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍
太平洋戦争(戦争の呼称)昭和16年(1941)から1945年にかけて、日本と中国・アメリカ・イギリス・オランダなど連合国との間で戦われた戦争。国際的には第二次世界大戦の一環であり、日本にとっては1931年満州事変以来の対中国侵略戦争を拡大したもので、政府はこの戦争を「志那事変」を含めて「大東亜戦争」と呼称した。しかし、敗戦後の1945年9月以降は太平洋戦争と呼ぶようになった。太平洋戦争はまた、満州事変及び日中戦争とともに「十五年戦争」と総称される場合もある。なお学会には、戦争の実態を表す「アジア・太平洋戦争」の呼称を使用すべきでないという意見もある。「開戦までの経緯」1937年の盧溝橋事件で本格化した日中戦争は、日本では「志那事変」と呼ばれたが、紛れもなく全面戦争となった。当初、政府も軍部も中国の抗日民族統一戦線の力量を軽視していた。ところが中国の予想外の強い抵抗で戦闘は拡大の一途をたどり、1938年秋の武漢・広東攻略戦で、日本軍の攻撃は限界に達し、戦争は長期持久戦の泥沼に落ち込んでいった。しかも一方で中国と戦いながら、陸軍はソ連、海軍はアメリカを敵として軍備の大拡張続けていたから、軍需の拡大が国民生活をを圧迫し国内の矛盾は深刻になっていった。1939年にヨーロッパで第二次世界大戦がはじまり、1940年春以来、ドイツ軍が英仏軍を破り、フランスを降伏させるなど、西部戦線が電撃的勝利を収めと、日本はこれに便乗して東南アジアに進出してその資源を手に入れようとして行き詰った日中戦争を打開しようとした。そして南方に進出拠点として、1940年9月仏領インドシナ北部に武力進出、さらにドイツ、イタリア日独伊三国同盟を結んだために、アメリカ、イギリスとの対立が激化すた。アメリカは石油の輸出制限の強化するなど経済制裁に乗り出した。第二次近衛文麿内閣は、1941年4月から日米間の国交調整を図ろうとして日米交渉を開始した。アメリカは日本の中国からの撤兵を求め、日本は撤兵に応じず資源獲得を求めたが、交渉妥結には至らなかった。この間に1941年6月独ソ戦争準備と南方に進出の両方を進めるという南北併進の国策を決定した。しかし日本は期待に反してソ連敗北の事態は起こらず8月に対ソ攻撃のの計画を中止、南進を進み始めた。9月6日開戦を決意し躊躇した近衛文麿内閣が総辞職し、同月18日に主戦論者の東条英機内閣が成立した。東条内閣は11月5日に御前会議に12月初頭の開戦を決定し、11月26日アメリカから従来通り中国から撤兵することを要求された。12月1日にの御前会議に最終的に対米英戦争を決定した。1941年12月8日早朝、宣戦布告に先立って陸軍のマレ半島に上陸、海軍の真珠湾攻撃が奇襲戦法によって始まった。当初は相手の準備不足に付け込み計画通りに進んだが、兵站戦の準備不足に物資、武器不足に徐々に後退し、後手後手の作戦に後退の一途をたどり、太平洋海戦で主力空母や戦艦を失い、攻略した南太平洋の拠点の島々はアメリカ軍に玉砕をしていった。日本軍の防衛線は次々破られて、特攻隊を仕立て若い兵士の肉弾戦闘機となって自爆していった。それでも事態や、戦線は好転せず、後退を強いられて、敗戦を重ね、日本兵・民間人には過酷なイバラの道に突き進んでいった。