「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想・『太閤の夢の夢』アマゾン・グーグル・楽天・書籍電子書籍紹介 角川電子書籍・

2020-04-10 18:27:03 | 温故知新

『太閤の夢の夢』アマゾン書籍電子書籍紹介 角川電子書籍・
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。
 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。
 織田信長が西暦1534年六月生まれ、豊臣秀吉が西暦1537年三月生まれ、徳川家康が西暦1543年一月生まれで三傑の年齢差は三歳・六歳違いのほぼ同世代の英雄である。
農民の子として生まれ天下人になり立身出世した。
 天下統一を果たした織田信長の家臣として活躍後、信長の本能寺の横死後に後継者争いに勝利を収めた。 柴田勝家・徳川家康を押さえて関白に任官し、紀伊・四国・越中攻略など経て九州平定・小田原征伐を終えて盤石な天下統一を果たした。
 日本の天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。
 秀吉の野望は日本の遥か周辺国に目が向けらえて、朝鮮出兵で多大な損失を受けた。あろうことか中国の明をを支配下に置く野望を持ったが、秀吉死去などうやむやの内に敗北を帰した。秀吉は後継者に恵まれず、甥の秀次に関白に譲るが、皮肉にもその後継子・秀頼の誕生に溺愛、老いの一徹、非情な秀次切腹事件で晩成を汚しつつ、慶長三年(1598)八月一八日に六二歳で没した。




「歴史の回想・疫病の襲来」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電書籍

2020-04-10 17:52:18 | 温故知新

「歴史の回想・疫病の襲来」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電書籍
「古代日本に天然痘の襲来」人類誕生後、弛まない進化によって、この地球上に高度な文明を構築し地球上の征服者として君臨してきたが、その文明科学に立ちはだかる三大脅威・苦難が「天災と戦争と疫病」がある。日本史上を見ても、平城京に襲った天然痘の大流行があって、政治の政権中枢にあって権勢を誇った「藤原四兄弟」は次々に天然痘(疱瘡)に亡くなった。一時は政治も朝廷の儀式・行事も機能しなくなったという。また民百姓まで伝染し、一説に日本の人口の4分のⅠが失われたという。
今日では放送は根絶されたというが、我々子どもの子供頃は学校で疱瘡の予防接種が腕に傷つけ菌を植え付け抗体をつけたものである。「東アジアから日本に来襲した天然痘」
中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た。
日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。
『日本書紀』には「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている。
735年から738年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した(天平の疫病大流行)。天平の疫病大流行(てんぴょうのえきびょうだいりゅうこう)は、735年から737年にかけて奈良時代の日本で発生した天然痘の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる、100万–150万人が感染により死亡したとされている。





歴史の回想・「浅井長政の群像」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-04-10 17:45:10 | 温故知新


「浅井長政の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
浅井長政(1545年~1573年)北近江の戦国大名。足久政の子。名ははじめ賢政。備前守を称す。南近江の戦国大名六角氏の重臣平井定武の娘と結婚したが、六角の下に立つことを嫌って離縁して、1560年(永禄3)の野良田表の戦いで六角氏を破った。1567年、織田信長が美濃平定すると、信長の妹お市の方と結婚して信長と同盟関係を形成させた。浅井氏は、初代浅井亮政の時から越前朝倉氏とのつながりが強く、1570年(元亀元)4月、信長が朝倉氏を攻めたときは、信長との同盟を破棄。同年6月の姉川の戦いで、長政は小谷城に籠城する形になり、1573年(天正元)信長方に攻められて落城、自刃した。お市の方と3人の娘(茶々・淀殿)発、小督は城を出たが、嫡男万福丸は木下秀吉によって殺され、浅井氏は断絶した。