「信玄の西上作戦」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電書籍
「西上作戦の起因」(せいじょうさくせん)とは、元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐武田氏による遠征。
尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し、外交関係が始まっており、永禄8年(1565年)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立している。織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。
元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより権僧正という高位の僧位を元亀3年(1572年)に与えられた。また、元亀2年には甲相同盟が回復している。
元亀3年(1572年)10月3日、信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景と秋山虎繁の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め入った。
信玄率いる本隊は、信長と交戦中であった浅井長政、朝倉義景らに信長への対抗を要請し、10月13日に徳川方の諸城を1日で落とし、山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流した。一方11月に信長の叔母のおつやの方が治める東美濃の要衝岩村城が秋山虎繁に包囲されて軍門に下った。
これに対して、信長は信玄と義絶するが、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に佐久間信盛、平手汎秀らと3000の兵を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している(一言坂の戦い)。12月19日には、(武田軍は)遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。
劣勢に追い込まれた家康は浜松城に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と決戦し敗退している(三方ヶ原の戦い)。
しかしここで(信玄は)盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしなかった。
信玄は軍勢の動きを止め浜名湖北岸の刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。3月6日、岩村城に秋山虎繁を入れた。