「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「佐竹氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-09-26 06:50:16 | 温故知新
「佐竹氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
 中・近世の武家。新羅三郎源光が常陸介となり下向、子の義業が久慈東部佐竹郷を領し、その子佐竹昌義が吉田清幹の娘と結婚して土着、常陸国那珂川以北の奥七郡を支配し、佐多氏を名乗る。治承4年(1151~1226)佐竹秀義は平氏に属し源頼朝に敵対、金砂山(茨城県久慈郡金砂)で攻防戦展開するが敗れて所領の大半を失う。その後、奥州合戦、承久の乱で戦功をあげて所領の一部を回復し、獲得した。足利氏、二階堂氏らと婚姻を通じて勢力を回復の基礎を固め、南北朝内乱では佐竹貞義(1287~1352)・義篤(1311~1362)父子が足利氏に属して南朝側と戦い、常陸守護に任じられ、多くの一族を分立させた。しかし一族中の最も有力な山入氏は、鎌倉公方と親しい惣領家に対し、将軍方に属して対立、15世紀末には佐竹義舜(1470~1517)を追って太田城を占拠した。間もなく義舜は岩城氏の支援を得て太田城を奪回し、その子佐竹義篤(1507~1545)は弟佐竹義元(?~1540)を排して白河に進出した。義昭・義重父子は常陸、下野東部、陸奥南部に跨る分国を形成、豊臣秀吉から54万石余りの知行を認められた。関ケ原の戦いで佐竹義宜が石田方に属し、出羽国秋田20万石に減封されたが、大坂の陣で戦功をあげて秋田藩主として一四代にわたっ。三代義処は弟義長に2万国を分与し、秋田新田藩(岩崎藩)が成立。戊辰戦争では政府側に味方して本藩の12代藩主佐竹義堯が従三位・参議、秋田県知事に任じられた。

「山名氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-26 06:47:27 | 温故知新
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南北朝から室町時代の武家。清和源氏。新田義重の子義範が上野国山名郷に住したことに始まる。室町時代は侍所所司を出す家格(四職)となった。山名時氏のとき、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の五カ国の守護職を幕府に認められたからは、幕府における地位が上昇、山名氏一族の領国は一二カ国(山城の守護職を含む)にのぼり、日本六十六州の六分の一を占めることから「六分の一殿」と呼ばれた。山名氏の勢力に危惧を抱く将軍足利義満は明徳元年(1390)一族の名有分に介入、翌年、明徳の乱にかくだいした。乱により山名氏清らが敗死し、山名一族の領国は但馬。伯耆・因幡の三カ国のみとなった。応永六年1399)の応永の乱で大内義弘が滅ぼされると、安芸国に満氏が守護として入部する。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱に際して、山名宗全(持豊)が赤松満祐追討の功により、赤松領国にすると訴台に勢力を回復し、細川氏と並ぶ守護大名になった。応仁。文明の乱では持豊は西軍の主将になる。この乱以降、戦国時代を通じて山名氏は後退していった。天正八年(1580)に但馬の出石城を豊臣秀吉に攻めらえて、山名氏の宗家は滅亡した。しかし,庶家の山名豊国が徳川家康から但馬七味郡に6700石知行を与えらえ、以降幕末に至る。

「土岐氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-09-26 06:45:59 | 温故知新
「土岐氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
 美濃国の武家。清和源氏。平安後期、源国房、光国の頃に美濃に拠点を築き、光信、光衡の頃に土岐郡に土着し、土岐氏を名乗った。承久の乱で幕府方についたことで美濃国内で勢力を伸ばし、執権北条氏とも婚姻関係を持った。正中の変で一族が関係したが、南北朝の内乱に於いて土岐頼貞(?~1339)は足利尊氏に従い、その軍功により美濃守護になった。
土岐頼康の代には美濃・尾張・伊勢の三国を守護として勢力を拡大したが、その子土岐廉行の時、一族の内紛によって明徳元年(1390)幕府軍の追討を受けた。その後、美濃一国の守護として存続したが、応仁・文明の乱のころからは守護代斎藤氏によって実権は奪われ、天文21年(1552)土岐頼芸の時に斉藤道三によって追放され、守護土岐氏は滅亡した。庶流は土岐世保家・常陸土岐氏・明智土岐氏と江戸時代になっても旗本として土岐氏の血筋を伝えている。