「佐竹氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
中・近世の武家。新羅三郎源光が常陸介となり下向、子の義業が久慈東部佐竹郷を領し、その子佐竹昌義が吉田清幹の娘と結婚して土着、常陸国那珂川以北の奥七郡を支配し、佐多氏を名乗る。治承4年(1151~1226)佐竹秀義は平氏に属し源頼朝に敵対、金砂山(茨城県久慈郡金砂)で攻防戦展開するが敗れて所領の大半を失う。その後、奥州合戦、承久の乱で戦功をあげて所領の一部を回復し、獲得した。足利氏、二階堂氏らと婚姻を通じて勢力を回復の基礎を固め、南北朝内乱では佐竹貞義(1287~1352)・義篤(1311~1362)父子が足利氏に属して南朝側と戦い、常陸守護に任じられ、多くの一族を分立させた。しかし一族中の最も有力な山入氏は、鎌倉公方と親しい惣領家に対し、将軍方に属して対立、15世紀末には佐竹義舜(1470~1517)を追って太田城を占拠した。間もなく義舜は岩城氏の支援を得て太田城を奪回し、その子佐竹義篤(1507~1545)は弟佐竹義元(?~1540)を排して白河に進出した。義昭・義重父子は常陸、下野東部、陸奥南部に跨る分国を形成、豊臣秀吉から54万石余りの知行を認められた。関ケ原の戦いで佐竹義宜が石田方に属し、出羽国秋田20万石に減封されたが、大坂の陣で戦功をあげて秋田藩主として一四代にわたっ。三代義処は弟義長に2万国を分与し、秋田新田藩(岩崎藩)が成立。戊辰戦争では政府側に味方して本藩の12代藩主佐竹義堯が従三位・参議、秋田県知事に任じられた。
中・近世の武家。新羅三郎源光が常陸介となり下向、子の義業が久慈東部佐竹郷を領し、その子佐竹昌義が吉田清幹の娘と結婚して土着、常陸国那珂川以北の奥七郡を支配し、佐多氏を名乗る。治承4年(1151~1226)佐竹秀義は平氏に属し源頼朝に敵対、金砂山(茨城県久慈郡金砂)で攻防戦展開するが敗れて所領の大半を失う。その後、奥州合戦、承久の乱で戦功をあげて所領の一部を回復し、獲得した。足利氏、二階堂氏らと婚姻を通じて勢力を回復の基礎を固め、南北朝内乱では佐竹貞義(1287~1352)・義篤(1311~1362)父子が足利氏に属して南朝側と戦い、常陸守護に任じられ、多くの一族を分立させた。しかし一族中の最も有力な山入氏は、鎌倉公方と親しい惣領家に対し、将軍方に属して対立、15世紀末には佐竹義舜(1470~1517)を追って太田城を占拠した。間もなく義舜は岩城氏の支援を得て太田城を奪回し、その子佐竹義篤(1507~1545)は弟佐竹義元(?~1540)を排して白河に進出した。義昭・義重父子は常陸、下野東部、陸奥南部に跨る分国を形成、豊臣秀吉から54万石余りの知行を認められた。関ケ原の戦いで佐竹義宜が石田方に属し、出羽国秋田20万石に減封されたが、大坂の陣で戦功をあげて秋田藩主として一四代にわたっ。三代義処は弟義長に2万国を分与し、秋田新田藩(岩崎藩)が成立。戊辰戦争では政府側に味方して本藩の12代藩主佐竹義堯が従三位・参議、秋田県知事に任じられた。
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