「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「島津氏一族の群像」アマゾン 電子書籍紹介。

2019-09-23 05:42:10 | 温故知新

「島津氏一族の群像」アマゾン
電子書籍紹介。鎌倉時代より江戸時代に至るまで南九州の大名家。島津藩主,始祖島津忠久は惟宗姓を名乗り、摂関家近衛家の家司であった。
比企氏との縁で源頼朝に重用され、近衛家領島津荘の総地頭に任じられた。
建仁3年(1203)の比企氏の乱で薩摩一国守護・地頭に留まったが、鎌倉幕府の滅亡後は、大隅の守護職に任じられ回復した。
南北朝時代島津貞久は三男島津師久に大隅の守護職を譲った。前者師久は官位上総介から総州家と呼ばれ、後者氏久の官職が陸奥守で奥州家と呼ばれた。日向三国守護職を有し、鹿児島清水城を本拠とした。忠国以降の一族の反乱、国一揆に苦しみ忠昌は天文5年(1535)国外に退去し自殺した。その後養子となった相州家、島津忠良の子島津貴久が三州の統一を推進し、その子島津義久から島津義弘は伊東・大友・相良・龍造寺氏らを破って九州一円に勢力を拡大した。天正15年(1600)豊臣秀吉の侵攻によって屈服し、薩摩・大隅・日向諸県などが安堵された。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に属し、徳川幕府の制裁を巧みに領土を保全することに成功した。江戸時代末の幕末には薩摩藩は重要な役割を果たした。

「毛利氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-09-23 05:37:07 | 温故知新
「毛利氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
戦国時代に中国地方の覇者に、その名を馳せた毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。鎌倉幕府政所別当大江広元の四男・毛利季光を祖とする一族、したがって大江広元の子孫ではあるが、嫡流ではない。
名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市毛利台の周辺)を本貫としたことによる。
その系譜は、鎌倉時代末期に、越後国刈羽郡(旧称:三島郡)佐橋庄(さはしのしょう)南条(みなみじょう)の南條館を領した毛利経光は、四男の時親に安芸国高田郡吉田荘(よしだのしょう) 高田郡吉田村吉田、現・広島県安芸高田市吉田町吉田)を分与し分家を立てる。
時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが、南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)において領地を直接統治するようになる。
吉田荘に移った毛利氏は、室町時代に安芸国の有力な国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた。
戦国時代、毛利元就が世に出ると一代で国人領主から、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には山陽道・山陰道10か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の戦国大名に成長した。
元就の死後、孫の毛利輝元は将軍・足利義昭を庇護し、織田信長と激しく争ったが、のちに豊臣秀吉に従属して、安芸ほか8か国を安堵された。また、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島城に移す。
しかし、慶長5年(1600)、輝元が関ヶ原の戦いで西軍の総大将となったことで、敗戦後に毛利氏は周防国・長門国の2か国に減封される。
江戸時代には、萩に居城を新たに築城し、長州藩(萩藩)になり、外様大名ながら国主(国持ち)大名として官位や江戸城の席次などで幕府から厚遇を得た。

「北畠氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-09-23 05:27:46 | 温故知新
「北畠氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
[中世の武家。村上源氏。中院雅家(1215~1275)が京の北畠の地に住んで北畠の姓を称したのに始まる。鎌倉時代には正二位・大納言を極官とする公卿であったが、南北朝時代に北畠親房が出て後醍醐天皇の信任を受ける。その子北畠顕家・北畠顕信・北畠顕能も南朝側として活躍、顕能は伊勢国司となり、同国一志郡の多気城を本拠とする。その後も後南朝方の中心勢力になり、正長元年(1428)には北畠満雅が後亀山上皇の孫小倉宮を奉じて挙兵した。満雅は同年12月に戦死するが、室町幕府は弟北畠顕雅を赦免し一志・飯高両郡を安堵した。
これ以降、北畠氏は南伊勢、志摩、伊賀、大和に勢力を持つ大名として発展する。一族には、大河内・木造・田丸をはじめとする庶民が分立し、その勢力は伊勢中心にも及んだ。戦国時代には、伊勢の有力国人長野氏とも同盟をしたのは、天正3年(1575)にはあ信長の次男信雄が家督を継ぎ、翌年北畠具教を自殺させて事実上北畠氏は滅んだ。