「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「今川氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-17 05:52:00 | 温故知新
「今川氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
今川氏は南北朝時代から戦国時代の足利氏の一族の守護、戦国大名。吉良長氏の次男国氏が三河国幡豆郡吉良荘今川【現愛知県西尾市】を領した。
国氏の孫今川範国は、元弘・建武の動乱期に足利尊氏に従い、駿河・と遠江両国の守護に補任され、今川氏の発展に基礎を作った。その次男今川貞世(了俊)は九州探題などして室町幕府の確立に尽力し、それ以降は代々駿河国守護として室町幕府の鎌倉府監視の重責を担い、上杉禅宗の乱、永享の乱、結城合戦では幕府軍の先鋒として活躍した。応仁・文明の乱で、義忠は東軍として、遠江国守護斯波と戦い勢力拡大に努めたが、今川氏親の代に戦国大名へ脱皮を遂げた。その子今川義元はさらに三河を支配下に置き、駿府(静岡)を中心に全盛期を迎えたが、永禄3年(1560)織田・徳川氏の桶狭間野戦いに敗れ、その子今川氏真の尽力も及ばず、武田・徳川氏の侵攻で滅亡した。江戸時代には高家として存続した。


「上杉一族の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-17 05:45:32 | 温故知新
「上杉一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
 中世から近世の武家。勧修寺流藤原氏。上杉重房が丹波国阿鹿郡上杉荘を領したにはじまる。
 重房は宗尊親王に従って鎌倉に下向、子頼重の娘上杉清子が足利貞氏に嫁いで尊氏と直義を生んで以降、一族は足利氏に重用され繁栄する。
 頼重の子重顕が扇谷を、重顕が扇谷を、重顕の弟憲房の子重能、憲藤、憲顕がそれぞれ宅間、犬飼、山内を称する。
 貞治2年(1363)に復帰して以来、一次的を除き関東管領を独占した。宅間家は早くに衰退し、犬飼家(上杉家)は応永23年(1416)鎌倉公方足利持氏に対して謀反を起こし自害した。(上杉弾正の乱)山内家(上杉家)は上野と北武蔵を勢力圏にし、両家は15世紀半以降衝突を繰り返した。
天文15年(1546)武蔵川を越で扇谷朝定と山内憲政が連合して北北条氏康の軍勢と戦うが敗れ、扇谷朝定が戦死した。山内憲政は長尾景虎(謙信)を頼り越後に逃れ、永禄4年(1561)景虎(謙信)に関東管領職と上杉姓を譲る。謙信は越後の盟主になり頻繁に関東や信濃・北陸に出兵した。武田軍と五度の川中島の戦い繰り返したが決せず、その後領土拡大し、豊臣政権の五大老に就任し往時には120万石を有した大名であったが、謙信の没後は2人の養子、景虎(北条氏康の子)と景勝(長尾政景の子)が対立し、景勝が景虎を自殺させ(御館の乱)謙信の後を継いだ。
景勝は豊臣秀吉に従属し、慶長3年(1598)国替えを命じられ合図若松に120万石を領し、五大老の一人となった。しかし関ケ原の合戦に敗れたために出羽米沢30万石に減封される。米沢藩は上杉氏が13代続いたが、寛文4年(1664)15万石の減封、戊辰戦争には新政府に対抗したために、4万石に減封され、廃藩置県に至る。


「島津一族の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-17 05:42:50 | 温故知新
「島津一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
 鎌倉時代より江戸時代に至るまで南九州の大名家。島津藩主,始祖島津忠久は惟宗姓を名乗り、摂関家近衛家の家司であった。
比企氏との縁で源頼朝に重用され、近衛家領島津荘の総地頭に任じられた。
建仁3年(1203)の比企氏の乱で薩摩一国守護・地頭に留まったが、鎌倉幕府の滅亡後は、大隅の守護職に任じられ回復した。
南北朝時代島津貞久は三男島津師久に大隅の守護職を譲った。前者師久は官位上総介から総州家と呼ばれ、後者氏久の官職が陸奥守で奥州家と呼ばれた。日向三国守護職を有し、鹿児島清水城を本拠とした。忠国以降の一族の反乱、国一揆に苦しみ忠昌は天文5年(1535)国外に退去し自殺した。その後養子となった相州家、島津忠良の子島津貴久が三州の統一を推進し、その子島津義久から島津義弘は伊東・大友・相良・龍造寺氏らを破って九州一円に勢力を拡大した。天正15年(1600)豊臣秀吉の侵攻によって屈服し、薩摩・大隅・日向諸県などが安堵された。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に属し、徳川幕府の制裁を巧みに領土を保全することに成功した。江戸時代末の幕末には薩摩藩は重要な役割を果たした。