「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「九州探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-27 05:38:34 | 温故知新
「九州探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介。
「はじめに」九州探題は室地幕府が九州の軍事統率の為設置した機関。鎌倉幕府が設置した鎮西探題と区別をする。実質的九州探題の任に始めて着いたのは一色範氏であった。子の直氏の九州下向後は直氏が探題になり、父子一体となって経営をした。恩王の遊覧の一時期、足利直冬鎮西探題に就任したが、間もなく九州の地を離れた。康元元年(1361)には藩氏・直氏の後任として斯波氏経が九州に下向したが、征西将軍宮の全盛期時代であった。任務遂行に出来ないまま2年後に帰京し、その後任渋川義行はついに九州に入ることが出来なかった。このような状況の中、
1、今川貞世であった。貞世は応安4年(1371)から応永2年(1395)に解任されるまで25年間九州経営に当たった。北朝方勢力確立に当たり、その後九州探題は北朝勢力が確立し、九州探題は渋川氏によって世襲されたが、在地勢力に圧倒され、九州全体が行使することが出来なくなっていった。

>芭蕉紀行漂白の憧憬芭蕉紀行漂白アマゾン電子書籍紹介。

2019-09-27 05:35:32 | 温故知新
芭蕉紀行漂白の憧憬芭蕉紀行漂白アマゾン電子書籍紹介。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。」
この名文は誰もが知っている芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭の名文である。
 感銘ある言葉の響きは、哲学を秘めた生死観であり、凝縮された人生観である。
紀行文は見聞録として江戸時代中期の陸奥、北陸などの地方の世相、世情を後世に伝える歴史の確認の指標である。
古人の足跡と古歌、神話の説話や西行の歌枕を辿りながら、時には杜甫の漢詩の一節を思い出しながら、俳諧の人脈を通じて名所、古跡の奥州と、その時代の情景、日々の暮らしとその光景が、紀行記述が俳諧を通じて味わい深い言葉で綴られている。
感性に満ち溢れた美的表現の枠を極めている。この最初に出てくる冒頭文で全体の作者の思いが察知できると言うものである。
また芭蕉は流派や大店の旦那衆の句会の連歌の集まりに、机上の俳諧より、広い世間に見聞する為に、身の危険も顧みず、未知の世界のみちのくの旅へ、思い立たせたのではないだろうか、それは芭蕉の気宇壮大な自然と人々の日々の生業と森羅万象の移り変わりを句に表すことに意図とした旅でもあった。
それはとりもなおさず、芭蕉の理念や信念や崇高な世界観の評価より、今から三百年余り前の陸奥、北陸地方の農民は漁民の日々の暮らしの句や紀行文にしたためたことと、また名所古跡や先人の流浪の足跡を記述に残したことと、また時間を隔てて今、その時代を世情,今、改めて足跡を辿るに、芭蕉の偉大さは今から三百年余りの江戸時代の「みちのく」の美景、情景、旅情を、独自の史観と世界観を持って切り取り、句に詩に、その思いや考えを込めて「おくのほそ道」に書き綴った功績は大きい。
書き綴られた「おくのほそ道」によって、後世の今、我々は当時の様々な美景、情景、旅情を句や詩の独自な表現を通じて知ることができた。
芭蕉のみちのく旅の「おくのほそ道」の行程予定は「歌枕」「古歌」の名所を辿ることで、おおよそ、その地図とその足跡が見えてくる。
先人に学び貴ぶ謙虚な芭蕉の姿勢が読み取れる。現代人には、その先人への畏敬と謙虚さが欠落していることを、「紀行文」が教えている。
また芭蕉の物事の興味旺盛は物見遊山のなかに、土地土地の人々の暮らしぶりを観察し俳句に綴っていく紀行であった。
また道中の出来事風景や習慣、習わしを詳しく書き残したことで元禄二年(1689)の時代背景を知ることが出来る。

「本多氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-09-27 05:33:17 | 温故知新
「本多氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
本多氏の出自は、三河国の国人、江戸時代譜代大名・旗本家。左大臣藤原顕光11代目の助秀が豊後国本多に住してより本多を称し、12代助定の時足利尊氏に仕えたという。13代助政のあと定通家と定正家に分かれ、それぞれ三河で松平宗家に仕えた。歴史上著名な人物としては、定通家からは本多正信・本多忠勝が、定正家からは「徳川四天王」の一人とされた父子が出ている。
正信の家は、元和8年(1622)正純の改易で絶えたが、本多氏全体としては、江戸時代には多くの大名・旗本の家に分かれた。大名として明治に至ったのは、定通家からは、三河国岡崎藩本多氏、正信を祖とする播磨国山崎藩本多氏、忠以を祖とする陸奥国泉藩本多氏、正時を祖とする近江国膳所藩本多氏、忠恒を祖とする伊勢国神戸藩本多氏、忠相を祖とする三河国西端藩本多氏の大名家6家が、定正家からは、正重を祖とする信濃国飯山藩本多氏の大名家二家が成立した。また、定正家には加賀藩家老本多氏、福井藩家老の本多氏がいる。