「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「加藤氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-09-01 06:34:55 | 温故知新

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加藤氏については、大きく分けて①近江国加藤氏。伊予国大洲藩主の加藤氏。肥後国熊本城主の三つに分けられる。近江国の加藤氏は水口藩主。三河国生まれた。加藤嘉明は豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586)当初淡路国で1万5000石を宛がわれた。後に伊予国松前へ転封となり6万2000石を領有。10万石加増される。席が蠅らの戦後、10万石を加増され松山城に入った。寛永4年(1627)20万石加増されて陸奥国会津に転封。1643年明成のとき、領地を返上した(会津騒動)が、孫明友に石見国吉永で1万石が宛がわれた。天和2年(1696)1万石加増されて近江国水口へ移り、元禄8年下野国壬生に転封となり3万5000石を領有した。4代明英は、寺社奉行、奏番者、若年寄りを歴任して、更に正徳2年(1712)5代嘉矩のとき、近江国水口に戻り明治に至った。
②加藤氏に伊予国大洲藩主。家祖加藤光泰の父景泰は家電によると、藤原鎌足12代目の末裔とされる。光泰はその嫡男で美濃国生まれの斎藤龍興の武将、のち豊臣秀吉に仕え美濃国大垣に城主4万石に立身する。一時秀吉の勘気に触れて、近江国佐和山城主になり、小田原攻めの後、甲斐24万石に減封されたが、関ケ原の戦い後、徳川氏から伯耆国米子6万石を得、大坂の陣の戦功で元和3年(1617)大洲藩6万石に転封、以後廃藩置県まで13代続いた。
③もう一つの加藤氏は肥後熊本城主加藤清正、子の加藤忠広を中心とした姓氏、藤原北家道長流と言うが不明。清正の祖父が斉藤道三の家臣で尾張国愛知郡中村に住したのが始まり、清正の父清忠に継嗣されたという。清正は幼少期より秀吉に仕え、豊臣の武将として成長し天正16年(1588)肥後半国19万5000石の大名と秀吉蔵入り地の代官となり。関ケ原戦い後は肥後52万石となり、熊本城主となったが1611年に没後、1611年三男忠広が襲封したが、1632年に失政し出羽国庄内1万石に没落、その後飛騨国高山に流され、加藤家は消滅した。