受法寺本堂建築誌

伝統木造工法により建築中です

現場管理にあたって   香長建設  現場所長 楠瀬 進

2006年05月31日 | Weblog
 昨年八月五日より解体工事から着手して、早くも十ヶ月が過ぎました。その間、本堂の基礎コンクリート工事、既存石を再利用した基壇の石積み、御影石による礎石取り付け、亀腹施工を経て、いよいよ四月十三日より本堂木造建て方に着手しました。現在は屋根大工工事もほぼ終え、これから屋根瓦葺き、内部造作へと進んでいきます。
 
 私も香長建設で社寺建築の現場管理に取り組んで、今度の受法寺様で七件目となります。その間いつも思いますのは、社寺建築は一般住宅と比べても、二百年と長く持たさなければいけない。その為には基礎工事から始まり、技術面の簡素化は絶対許されないということです。
 
 幸いにも宮大工さんもしっかりした棟梁がつき、建物も柱が地覆、頭貫でしっかりと固定され、貫、土壁構造で地震に強くなっています。
 
 これから竣工まで、安全管理にも気をつけて頑張りたいと思います。壇家の皆様もいつでも現場を案内を致しますので、気楽にお立ち寄り下さい。

ゴムアス

2006年05月30日 | Weblog
昨日までに、野地板の取り付けが終了しましたのいで、いよいよ屋根葺きにかかります。

まず屋根に架かっていた足場を取りはずし、リフトを設置。

続いて、ゴムアスルーフィングの作業です。

ゴムアスは瓦の下に敷き、釘を打ち込んだ時に穴をよく塞ぎ、雨水を進入させ無い為のものです。

一枚でも効果はありますが、二重に貼ってあります。

この後、瓦の位置を割り付ける地割をしました。

設計のコンセプト②

2006年05月29日 | Weblog
先号で〝ピカッと・キチッと・ドシッとした建築づくり〟を提唱いたしました。

ピカッとは 文化として持ち合わさねばならない静けさを備える建築。

キチッとは 建築として持ち合わさねばならない確かさを備える建築。

ドシッとは その地として持ち合わさねばならない重たさを備える建築。
 
この考え方は土佐の苛酷な自然と向き合うための手法です。土佐は温帯日本の中でも典型的な高温多湿の地で、むしろ、亜熱帯に近い気候・風土です。この厳しい気候・風土は建築の耐久力を考える上で特に厳しい地です。
 
静けさは創造性。私は緊張感漂う静かな空間が好きです。その静けさです。土佐の日差しの強さを得手とし、影をデザインに取り入れた社寺建築のような美しい、モノトーンの建築を追い求めます。また、土佐の地が私たちに恵んでくれた土佐の恵と、工業社会が生む高性能の恵みを対比させ、その面に生ずる切れ味に緊張感を得ることができないかと試みています。
 
確かさは工法、ディテール等の確かな技。土佐の気候・風土に淘汰され、時間により証明され蓄積された確かな技術です。その確かさです。土佐では雨が下から降ると表現される程厳しい自然に対し、土佐の蔵は古くから幾重にも重なる水切瓦で対処しています。私は住宅だけでなくコンクリート造の大規模な公共建築でもその水切瓦に教えられています。また、土佐は台風常襲地です。その強風に対し培われた納屋の構法をベースとした土佐の家「納屋型」という住宅のプロトタイプを持ちます。大きな木造建築には、伝統的な升組構法をベースとした大きな家「肘木型」という構法で対処しています。
 
重たさはその地が求める重量感。その重たさです。土佐は自然と時間が証明してくれ、人の心を潤わすのに十分な恵みを多く持ちます。それは地球に優しい素材です。
これらは土佐の風景に馴染みます。
 
この静けさ、確かさ、重たさを備えた建築は耐久力を持つ建築です。耐久力は素材そのものが物理的に耐久力を持つだけでなく、機能的にもどのような時にも追随性がなければなりません。そして、地域の人々にいつでも受け入れられる美しさを持ってこそ200年を生き抜くことが出来ます。

しょう州窯の青花

2006年05月29日 | Weblog

29日より31日まで、本山での同朋運動推進者養成養成研修会に出席の為、後日更新した内容となります。

主に、6月1日発行の「受法寺報」の記事です。

昨年夏から始まった受法寺の本堂改築工事にあたり、高知市教育委員会が、平成17 年10月に本堂地下の基礎工事部分について遺跡の確認調査を行いました。 その結果、現在の表土下40~50cmのところで江戸時代中期から後期の生活の面が確認され、ここから18世紀から19世紀代の陶磁器などと共に、石列や建物の取壊しに伴うとみられる漆喰壁の一部や瓦片などが見つかりました。

また、工事対対象地の東側部分では、表土下60cmのところで中世未から近世初め頃の層が確認され、ここからは、焼土とともに16世世紀末から17世紀初頭頃の中国産の青花碗・皿や白磁皿などが出土しています。 

中世、浦戸には、山内氏が入城する慶長 6年(1601)まで長宗我部氏の本城であった浦戸城が存在しており、当時の浦戸は軍事及び海運による物資輸送の要衝の地でした。また浦戸は、防ノ津(鹿児島県)から下田・浦戸(高知県)を経て堺に至る、中国との通商貿易船の寄港地としても重要な港でした。

今回、受法寺境内の一角からは中国製品が多く出土していますが、こうした貿易陶磁器が浦戸城以外の地点から豊富に出土したことは、貿易船の停泊地としての役割を持つ浦戸城下町の性格を物語るものでもありましょう。 

また、天正16年(1588)の『長宗我部地検帳』によれば、現在の受法寺が立地する地点には「道場」の記載がみられ、念仏の道(教え)を弘める場として、浦戸城下町の中でも重要な宗教的役割を果たす場所であったことが分かります。

今回出土した中国産の陶磁器頚は、当時、武家や富裕層など一部の階層の人々しか所有できなかった高級品であり、貿易陶磁器を所有できる人物の屋敷や関連の施設がこの地に存在していた可能性が出土遺物からも推察できます。 

さらに、今回は受法寺および工事関係者の方々の協力もあり、工事対象地北西端の一角に2×2mの試掘坑(試し掘りの坑)を設けて、下面での堆積状況の調査を行うことができました。

その結果、表土下 130cmのところで、平安時代の土師器杯の底部や須恵器片を伴う古代の土坑が確認され、古代まで潮る遺構が存在したことが明かになりました。

浦戸は、紀貫之(9 世紀頃)が『土佐日記』に「大津より滴戸をさしてこぎいづ」と記した古代以来に港であり、受法寺にて今回、古代の遺構が確認できたことは大きな成果となりました。

このように、浦戸は古くから土佐の海運の要地として発展した地域であり、今回の調査結果から見ても、受法寺とその周辺には古代から近世までの遺跡が良好な形で残されていると考えられます。

受法寺とともに地下に眠る遺跡が今後も大切に守られ、地域の歴史遺産として後世に受絶がれることを願ってやみません。   

(本文は、当寺が文化財保保護法により地域的に埋蔵文化財包蔵地として指定されているため、高知市教育委員会文化財室の浜田恵子さんによって発掘・調査が行われ、写真とともにその結果報告の寄稿を受けたものです。)

*写真は発掘されたしょう(さんずい+章)州窯青花


ビスで留める

2006年05月27日 | Weblog
雨が上がった間に妻降棟(くだりむね)の側面に、野地板をビスで留めていきます。

画像の通り、破風板に通された垂木に沿って、曲線を描いています。

昔は鉄製の釘で留めていましたので、経年変化で錆び、力を失って板は浮き上がってきました。

今は電動ドライバーで、メッキされた長いビスで留めていきます。

内部造作

2006年05月26日 | Weblog
本堂後ろにある、厨房と多目的室での工事です。

竹小舞は内陣・余間が終わり、外壁の作業へと移っています。

アルミサッシの搬入がありました。

枝外垂木(しがいだるき)

2006年05月24日 | Weblog
妻に枝外垂木、その上に化粧野地板を付けていきました。

野地板は、全て長方形ででなく下に行くほど角度があります。

入母屋の寺院建築では反りが有り、向拝や屋根の隅では、下に行くほど野地板を付けるのが難しくなります。

最上部は、化粧野地板に替えて、通風孔の防虫ネットにしてあります。

竹小舞(たけこまい)

2006年05月23日 | Weblog
昨日より、竹小舞の作業に入っています。

竹小舞は土壁の芯となるもので、旧暦10月26日から11月5日の間に刈った虫の入らない旬の竹を用います。

丸い竹を大きさに応じて6から7等分し、まず横材にあけた穴に、先を尖らせたのを挿し込みます。
間隔は三尺で3本の竹を縦に挿し、横、縦に編み込んでいきます。
編みこむのは、以前はシュロ縄を用いていましたが、今は漁業に使うようなポリエチレンロープでした。

竹小舞が出来ると壁のようになり、部屋らしくなります。

破風板(はふいた)

2006年05月22日 | Weblog
久しぶりに五月晴れが広がり、北の屋根妻側の三角形のところへ、破風板を取り付けました。

この破風板も、窪川の寿製材所より納入していただきましたきめの細かい桧の素晴らしい材です。
よく民家では塗装していますが、寺院建築ではもちろんそんな事はしません。

この破風板に使われるのは、まっすぐな材を加工したのではなく、最初から曲がりを持った材を使用し、屋根の形に合わせていきます。