受法寺本堂建築誌

伝統木造工法により建築中です

しょう州窯の青花

2006年05月29日 | Weblog

29日より31日まで、本山での同朋運動推進者養成養成研修会に出席の為、後日更新した内容となります。

主に、6月1日発行の「受法寺報」の記事です。

昨年夏から始まった受法寺の本堂改築工事にあたり、高知市教育委員会が、平成17 年10月に本堂地下の基礎工事部分について遺跡の確認調査を行いました。 その結果、現在の表土下40~50cmのところで江戸時代中期から後期の生活の面が確認され、ここから18世紀から19世紀代の陶磁器などと共に、石列や建物の取壊しに伴うとみられる漆喰壁の一部や瓦片などが見つかりました。

また、工事対対象地の東側部分では、表土下60cmのところで中世未から近世初め頃の層が確認され、ここからは、焼土とともに16世世紀末から17世紀初頭頃の中国産の青花碗・皿や白磁皿などが出土しています。 

中世、浦戸には、山内氏が入城する慶長 6年(1601)まで長宗我部氏の本城であった浦戸城が存在しており、当時の浦戸は軍事及び海運による物資輸送の要衝の地でした。また浦戸は、防ノ津(鹿児島県)から下田・浦戸(高知県)を経て堺に至る、中国との通商貿易船の寄港地としても重要な港でした。

今回、受法寺境内の一角からは中国製品が多く出土していますが、こうした貿易陶磁器が浦戸城以外の地点から豊富に出土したことは、貿易船の停泊地としての役割を持つ浦戸城下町の性格を物語るものでもありましょう。 

また、天正16年(1588)の『長宗我部地検帳』によれば、現在の受法寺が立地する地点には「道場」の記載がみられ、念仏の道(教え)を弘める場として、浦戸城下町の中でも重要な宗教的役割を果たす場所であったことが分かります。

今回出土した中国産の陶磁器頚は、当時、武家や富裕層など一部の階層の人々しか所有できなかった高級品であり、貿易陶磁器を所有できる人物の屋敷や関連の施設がこの地に存在していた可能性が出土遺物からも推察できます。 

さらに、今回は受法寺および工事関係者の方々の協力もあり、工事対象地北西端の一角に2×2mの試掘坑(試し掘りの坑)を設けて、下面での堆積状況の調査を行うことができました。

その結果、表土下 130cmのところで、平安時代の土師器杯の底部や須恵器片を伴う古代の土坑が確認され、古代まで潮る遺構が存在したことが明かになりました。

浦戸は、紀貫之(9 世紀頃)が『土佐日記』に「大津より滴戸をさしてこぎいづ」と記した古代以来に港であり、受法寺にて今回、古代の遺構が確認できたことは大きな成果となりました。

このように、浦戸は古くから土佐の海運の要地として発展した地域であり、今回の調査結果から見ても、受法寺とその周辺には古代から近世までの遺跡が良好な形で残されていると考えられます。

受法寺とともに地下に眠る遺跡が今後も大切に守られ、地域の歴史遺産として後世に受絶がれることを願ってやみません。   

(本文は、当寺が文化財保保護法により地域的に埋蔵文化財包蔵地として指定されているため、高知市教育委員会文化財室の浜田恵子さんによって発掘・調査が行われ、写真とともにその結果報告の寄稿を受けたものです。)

*写真は発掘されたしょう(さんずい+章)州窯青花


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