生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

美術修行2011年9月18日:地平線と天昇(天垂)線についての覚え書き

2011年09月18日 11時14分56秒 | 美術/絵画
2011年9月18日-1
美術修行2011年9月18日:地平線と天昇(天垂)線についての覚え書き

 a. 或る対象を描く(模写、あるいは模造、すること)こと。
   対象はわたしの外界に存在するか、内界に存在するか。
 b. 或る物体を存在させること。
 c. 存在しなかった物体を存在させること。
 d. 存在しなかった物体を画面に存在させること。
 e. 描く(狭義)のではなく、存在させること。
 f. 表現するとは、どういうことか。
 g. 存在させるとは、どういうことか。

 菱形は、(少なくとも創造的に補助線を仮設すれば。たとえば、人には、尖りと尖りをつなぐという振る舞い傾向があることによって)、人間の象徴である十字(水平と垂直の交点に、人間は位置し、その物質体は地平から垂直に天への上昇運動を志向する)を内包する。人はいつか、それ(または語り得ぬ『あれ』)を見出すであろう。

 したがって、面は線を内包し、体は面を内包する。
 よって、体面を構成する。
 さらにあるいは、要素的に構成することなく、存在させる。



 ………
 80. 像 image。心象。形象。。現像。
 81. 現景。幻景。
 82. 感景。心景。
 83. 想景。理景。
 84. 則景。法景。
 85. 唯一者(Kosmos)『自己』展開。
   (「自己製作」なるものは有り得ず、一様なエネルギー分布の内部での異質性による有階層化は有り得るのか。では、その異質化の契機は、内部と外部の分化によるのか。堂々巡りか、論理的悪循環か。)
 86. May the Energy be with Us !
 ………



美術修行2011年9月17日:甲斐野弘幸・市子 二人展

2011年09月18日 00時44分03秒 | 美術/絵画
2011年9月18日-1
美術修行2011年9月17日

 2011年9月17日(土)。甲斐野弘幸・市子 二人展/本郷新記念札幌彫刻美術館/入場無料。





 ↑:甲斐野弘幸氏作品





 ↑:甲斐野市子氏作品
 
 
 或る物理的空間座標に存在する人は、椅子に座って(立体的な作品も含めた広義の)絵画に向き合うとき、色の調べに志向づけられた(縮めて「色調づけられた」または「彩られた」と呼ぼう)。
 志向づけの多くは製作者の意図だとしてしばらくは仮におこう)『空間』を味わうならば、それはそのしばしの時と場所でその人が、(この世界経験において)、色づけた
   『空間』
を生成しているのである。
 そのように解釈するとして、では、特徴づけは原則から言ってやはり、色と形であろう。いわば固定された作品群は、動画などとは別次元で、たとえばイデア的に、峻立するかもしれない。
 同一領域内でたとえば30齣(または画面)/秒で画面が切り替わるとき、物体が動いている、あるいは顔の表情が移り変わると感じるかもしれない。その出現した30齣は、そのうちの一齣を含むには違いない。しかし、動くとして感じ取られた(または解釈された)とき、すでにその一齣は、たとえば数百齣で構成する一続きの動きの一部として<生きている>。
 静止している絵画は、『したがって』、永遠の今であり、ゆえに、そのように着想された絵画は、(技法的および技術的適切性をともなえば)、幾百の事例を含む豊かな作品となるかもしれない。
 (むろん、絵具の剥落による時間的変化による場合の絵画のことを指してはいない。)
 マーク・ロスコは何をめざしたのであろうか。あるいはどのような自己実現へと奮闘したのであろうか。あるいは、『自己内部』(これって何だろう?)の外的な表現ではなく、彩られた『空間』の存在性を問題にしたのか。


◇ 参考網所

 「甲斐野弘幸、市子 二人展」明日までです。
http://sapporo.100miles.jp/sapporochobi/article/9