生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:構成分析、集成方法

2011年06月28日 13時21分31秒 | 美術/絵画
2011年6月28日-3
風間虹樹 <いのち。乱舞、、、>展:構成分析、集成方法




↑:自然落下による面的(さらに塊的)要素(一部は線的要素)
 [形態変異は、作業単位での絵具の大きさ、絵具のを落下させるときの角度(傾けた画面に相対的)と速さ。塊的要素の表面の色彩濃度のちらばりは、液体性質と塊体との乾くときの相互作用によるものだろう。]
 
 


↑:塊的要素に線的要素が多い区画。上層は、塊的要素と線的要素があるが、一振りで製作している(一振りゆえの自然さと非人為的制御性)。中層はもっぱら塊的要素で、下層は太い線的要素。より下層は、塊的要素。そのより下層は、色が異なる塊的要素。最下層は平たい面で漸次的に変化して、だんだら。
 
 


↑:厚みのある線的要素の全面展開とその上への、叩きつけによる、撥ね散りと、気体泡の閉じ込め、の結果の立体的形態要素の偶発的生成。立体的になるのは、多くの絵具を瞬時に使うことにもよる。

 




↑:下層は、年度の異なる液体的(水的)性質を相互作用させて、模様を生成する。最下層はジェッソが生乾きのときに、鉄ワイヤーひもをつけた棒を振るって、らせん状刻印的線をジェッソ面に刻印する。墨とアクリルを交互作用させる。乾いてから、白墨汁を1mほど上から落下させ、周囲から跳ね散っているような形態を生成する。乾いてから、内部を削り、下層の線的要素を透明的に出す。
 


↑:下層にひびわれを生成し、そのうえに液体の性質を重ねる。その上に塊的要素を加える。




絵画の現実性2:ピエール・スーラージュの言を手がかりとして

2011年06月28日 12時22分14秒 | 美術/絵画
2011年6月28日-2
絵画の現実性2:ピエール・スーラージュの言を手がかりとして


 ピエール・スーラージュは、自分の絵は表現主義ではなく、「アンフォルメル」という言葉は、「抽象表現主義」よりずっと良い言葉であるという。
 次の言葉は、1948年にドイツの大きな美術館で開催された巡回展の図録に書いたという。

  「絵画は感動、感覚、感情を表〔わ〕したものではない」(「ピエール・スーラージュへの6つの質問」、『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁)。

 はたしてこれは、次のような言明 statementに定式化できるか?

  言明1.絵画は、何かを表現するものではない。
  [この言明は、『絵画は、何かを伝達するものではない』という言明と、どのような関係にあるのだろうか? 言い換えれば、表現と伝達(伝送。交達または交信 communicationではなく、一方向的な(物体ではなく、或る程度以上に非物質的なものの、たとえば『情報』の)伝送 transmission)。]

 これは、言い過ぎ(強い主張)かもしれない。少なくともスーラージュにとって、絵画は、『感動、感覚、または感情を』表現したものではないということである。では、人物画や風景画のように、感動、感覚、または感情を表わしたのではなく、人物または風景を表わしました、と作者が言った(解説?した)場合は、どうなのだろうか。
 さらには、たとえば「へのへほのもへじ」のような文字を人の顔だと認識されるように配置して、これは人の顔を表わしました、ってのはどうなるのだろう? 
 また、写真と絵画の一種ではないのか? [→ある種類(と程度の)現実性に関わって、『再現』または再現前 representationと表現 expressionの問題]
 そもそも、感動、感覚、あるいは感情を表わしていると受け取る(あるいは受け取らない)のは、絵画を前にして知覚し、諸々に受け取り、あれこれ考えたりする観者(観る)である。

 さて、ピエール・スーラージュの作品は、黒いものが多いようである。それは、光の反射を表わすための手段として採用しているという

  「黄色に反射する光と、青色に反射する光、緑色に反射する光は、黒に反射する光とはとても違います。光の反射の仕方によっても異ります。つまり、そういう反射を、どう組み立てていくかが私の絵画なのです。」(「ピエール・スーラージュへの6つの質問」、『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁)。

  「伝統的絵画では、表面を突き抜けていかにも奥行きがあるように描いています。遠近法が、ある種の幻視を〔、〕見る者に与えているのです。幻視は芸術ではありません。芸術は「存在」なのです。」(「ピエール・スーラージュへの6つの質問」、『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁)。

  「光の反射を表〔わ〕す手段として、黒を使っているのです。これはパラドクス(逆説)なのです。黒は最も光のない色で、私の作品ではその黒から「光」が生まれるのです。それはもちろん表面の構造によります。」(「ピエール・スーラージュへの6つの質問」、『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁)。

 おそらく、次の絵画についての定義 【実は、『なんらかの部類として』を明示していないので、定義とはほど遠い(あえて言えば、作業途上の「定義」)のだが、『表面』という言い方に注目してほしい。絵画とは平面に限らず、曲面でもでこぼこでも表面であれば絵画であるとして、領域を拡張しているのである。ともあれ、そのように拡張しておいて、絵画とはどういう部類なのか、を探求していこうというわけである。】 は、スーラージュの表面に注目する考え方と矛盾しない。

  定義1.絵画とは、表面に生じさせられた模様 patternを、なんらかの部類として見立てたものである。

  [模様を生じさせる手段は、絵具によるとは限らないし、立体物に光を当てて影という模様を生じさせたり、木に穴をあけて模様を生じさせることもできる。ただし、あくまで、『表面』についてのものである。しかし、われわれは視覚上、表面を見ることしかできない。たとえば、鶏の卵の表面は一つの滑らかに覆われた曲面に見えるが、たとえば走査電子顕微鏡で見れば、数多くの穴があいているように見える。人体の皮膚も穴を開閉している。
  というわけで、表面として認識されたものは、絵画であり得る。さらに、カメラのファインダーをのぞくようなつもりで、自然界の一区画を意識の上で切り取り、そのようにして得られた対象は、絵画であるかもしれない。この場合は、自然美ということになろうが、絵画に仕立てたのは、その人の(感性を働かせたという作用とともに)意識的作用(または力)である。]


  「視点が変わると光も変わります。同じ反射ではないのです。もちろん、もとは同じ作品なので、よく似た光の具合になるのですが。でも作品は見られる瞬間に存在するのです。その次の瞬間、見る人の位置が変わると、もう同じ作品ではなくなります。見ているその瞬間に絵画は存在します。伝統的な絵画と比べると、私の絵は時間との関係もことなるのです。伝統的な絵画は、どこに見る人が立っていても同じ絵画です。」(「ピエール・スーラージュへの6つの質問」、『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁)。

 ここでは、時間的変化についても触れている。作品が、見られる瞬間に存在するとすれば、見た回数分の作品が存在することになる。それは、或る同一物体から受け取られる変異だと考えよう。

 たとえば、ベートーヴェンの『田園』交響曲が、或る会場で演奏されるとする。或る客席で聞かれる交響曲の(時間変化する)音と、その隣で聞かれる交響曲の音は異なるに違いない。会場内のどこかでクシャミ音あるいは咳払い音が生じた場合は、その音に近い場所と遠い場所では、到達する音状態は異なる。会場内の聴者の数だけの交響曲があることになる。むろん、 或る近似でまたは或る範囲内では同一だとみなすことができる。それに、能動的に聴いている場合は、楽音以外は、「演奏される田園交響曲」という意識内容から除かれるかもしれない。様々な『雑音』を意識的に除いて、われわれは「このときに演奏された田園交響曲」という同一性を仮定するのである。
 絵画であっても、同一性の問題は同様である。結局それは、観る人または聴く人の感覚特性と感性に依存するが、まあ同じものを見ているあるいは聴いているとして、<差異が問題にならない限りにおいて>、話を通じさせるのである。ひょっとして互いに違うことを主張しているかもしれないが、そのことが判明しない限りは、めでたし?である。

 もう一つたとえば、ジョン・ケージ John Milton Cageの「4分33秒」と題された曲。『4分33秒』の内容は、演奏される都度、異なるが、作曲作品としては同一である(とみなされる)。『4分33秒』では、(まさにその環境によって異なるが、おそらく多くの場合で)違いが際立つが、この事情は、(何でもよいが)たとえばショパン F. Chopinの『バラード第二番』でも同じである。同一の楽譜にもとづいていても、演奏者によって、どのように実際に弾かれるかは異なるし、同じ演奏者であっても、演奏の都度異なるだろう。(最高の演奏を記録して再生するのは、一つの楽しみ方である。演奏会場で聴くことの良さは、また別にいろいろあるだろう。)

  設計的指示書(楽譜)→演奏者の解釈による構想(された演奏)→実際の演奏内容

 むろん、実際の演奏に影響するのは、これだけではない。演奏者や聴衆の体調にも依存して異なるかもしれない。

 で、伝統的絵画においても異なり方の事情は同様のはずだが、つまりは作者の製作意図が異なるということだろう。伝統的絵画においては、たとえばそれが展示される環境が異なっても、受け取られる内容が同一または同様であるという(暗黙的であれ)約束事の上に立って、絵画を観よ、ということだろう。
 ここには、どのように感性を変えて働かせるか、という創造に関わる問題に関わる。新しい芸術を目指すとすれば、新しい感性を開く、あるいは働かせることと関わるだろう。むろん、相互関係するが、まずは芸術者が新しい種類の絵画物体を作ることで、新しい感性が展開されるかもしれない。(この過程で、論評 comment、批評 critique、あるいは展望 reviewを発表することが役立つかもしれない。芸術者の宣言は、ゆえに貴重である。)

 また、

  「具象的絵画が、世界のひとつひとつの事項との関係を導き入れるものだとすれば、具象的でない絵画は、全体と全体との関係を導き入れる。画家にとって同様に鑑賞者にとっても、世界は見られるのではなく体験されるのである。世界は、彼らの経験のなかに移されるのだ。こうした経験自体は、キャンバスの上にその経験によって、生み出され壊される意味作用を通じて受け取られる。したがって、再現することを自らに禁じる絵画は、世界にとりまかれており、世界にその意味を負っているのだ」(ピエール・スーラージュ 「1960-1972年、フランス現代美術の12年」展カタログ、パリ、グラン・パレ、1972年)、「身体と表現 1920-1980 ポンビドゥーセンター所蔵作品から」 編集:東京国立近代美術館、市川政憲、千葉成夫、中村和雄 発行:NHK、NHKプロモーション 1996 p172」
http://www.b-sou.com/palw-Soulages.htm

と、スーラージュは、自分の絵画は、再現することを狙っているのではないということらしい。しかし、見ることは体験することの部類ではないのか? 

 
 ピエール・スーラージュの作品は、黒いものが多いとのことである。
 では、黒く見える表面を反射した光は、どのように変化または変容または変貌 transfiguration するのか?

 
[S]
Soulages, Pierre. 2011.3.22.(高野勢子訳 2011)ピエール・スーラージュへの6つの質問??2011年3月22日、画家のアトリエ(パリ)にて.『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁.


絵画と記号、グッドマン『世界制作の方法』

2011年06月28日 00時36分34秒 | 美術/絵画
2011年6月28日-1
絵画と記号、グッドマン『世界制作の方法』

 Nelson Goodman ネルソン・グッドマン(1906-1998)の妻は画家であるらしい。
 グッドマン『世界制作の方法』 【その名前のもとに同一視されているもの(それはいったい何だろう?)の或る複製物が積ん読状態のまま16年が経過した】 のはじめのほうに、

  「多くの世界があるというのは正確にはどういう意味でなのか。本物の世界をいつわりの世界から区別するものは何なのか。世界は何から作られているのか。世界はどのようにして作られるのか。その制作にさいして記号はどのような役割をはたしているのか。さらに、世界制作は知識とどのように関連しているのか。これらの問いを正面から取り上げなくてはならない。」(グッドマン『世界制作の方法』、2頁)。

とある。
 とりわけ、製作のときに記号がどのような役割をするのか、とは興味深い。
 なお、菅野盾樹『恣意性の神話』の第七章では、

  「藝術を記号機能の面から考察するにあたり、〔略〕理論枠組の一つの重要な柱として、グッドマンの記号理論を採り上げた。」
http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/symbolnoumi/content/works/papers/semioticism.html

とのことである。

  「彼〔グッドマン〕によれば、唯名論とは何物でも個体として受け入れるが、何物をも集合とは見なさない学説、つまり、集合を個体と見なすことを拒否する主張である。たとえばごく常識的に、レンガ造りの家はレンガの壁から成り、壁は個々のレンガから成っている、とわれわれは言う。ところで、集合を存在者に数える実念論者は、ここに三つの別々の存在者、レンガ、レンガの集合としての壁、壁の集合としての家、すなわちレンガの集合の集合としての家を認めるのだ(ちなみに実念論者は、このやり方を続けてすきなだけ存在者を殖やすことができる)。これにひきかえ、唯名論者の眼には、その場にただひとつの同じ個体しか見えない。というのも彼にとり、どんな存在者も、いやしくも同じ要素へ分割されるならたがいに同一だからである*。唯名論とはグッドマンが額に汗しながら世界を構築するのに使用するクレーン、体系を構成する論理的装置にほかならない。それを形式化してとりだせば、いわゆる「個体計算」になる。」(菅野盾樹「グッドマンの記号主義」、『恣意性の神話』)
http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/symbolnoumi/content/works/papers/semioticism.html

 壁は、レンガの集合なのか? 「壁は個々のレンガから成っている」とは、壁を構成する要素、あるいはなんらかの単位または個体は、レンガである、ということであろう。

  構成(壁)={レンガ1, レンガ2, ...} (「{}」は数学的集合であることを表わす)
  種類(構成(壁))=レンガ
 
 
 「唯名論者の眼には、その場にただひとつの同じ個体しか見えない」という、その個体とは何なのか? レンガだけなのか、壁だけなのか、家だけなのか? 壁の集合としてではない家は(個体として)在るのか? 
 「レンガの集合としての壁」とは、レンガ間の結合関係は何も無いとするということなのか。それとも、何らかの結合素関係がレンガ間にあっても、構成あるいは成分だけを問題にするということなのか。

  1. レンガを重力だけによって結合させて壁を作った場合
  2. レンガ面を水を使って(この場合の結合力は何?)壁を作った場合
  3. レンガをセメントを使って(この場合の結合力は何?)壁を作った場合

 「同じ要素へ分割される」とはどういう事態を指しているのか? 
 生物体の場合には、(人体の)一つの細胞、細胞を構成要素とする心臓、臓器や組織などを構成要素とする人体、これらもひとつの同じ個体なのか?
 唯名論、あるいはグッドマンの「集合を個体と見なすことを拒否する」唯名論は、システム主義とは相容れないのか? 

 
[G]
グッドマン,N.1978.(菅野盾樹・中村雅之訳,1987)世界制作の方法.xii+274+ixpp.みすず書房.[B950404, y2575]

[T]
菅野盾樹.1999.恣意性の神話.xii+278+13pp.勁草書房.[B990805, y3,200]