2011年6月27日-1
絵画の現実性1:ピエール・スーラージュの言を手がかりとして
リアリティー realityは、
「現実感。真実性。迫真性。レアリテ。「描写に?がない」」(大辞泉)。
とある。「リアリティー」とカタカナ語では、文脈によって様々な意味になる。すると人によって意味していることが異なると、議論は噛みあっていないかもしれない。
1. It is real. それは実在する。
2. It is realistic. それは現実的[または実在的]である。
3. I feel it is real. それは実在する、とわたしは感じる。
4. I feel it is realistic. それは現実的[または実在的]だ、とわたしは感じる。
まず、『実在する』と『実在的である[または、現実的である]』を区別しよう。『実在的である』ことは、或る対象(言い換えれば、或る人が対象として注目した物または事)が実在することを必要とはしない。人が想像していること、あるいは過去に起きた光景の記憶は、現在では実在する物体(たち)ではないが、人がそれ(ら)を実在的または今まさに現実に存在すると感じることはある。
感じるのは、或る(実在する、実在した、実在するであろう)人である。「実在的」または「現実的」と、言葉で表している人は、そのように感じたことまたは判断したことを、言葉で指示または表現しているのである。
さて、絵画をどのように考えるのか、
[作者(または、製作者)#絵画♭観者]([maker#picture♭viewer])
ここで、#と♭は或る種の作用 actionを示す。本当は、三者間関係なので、三つ組み表示にすべきだが、観者が或る絵画を見ているあるいは鑑賞しているときに作者は不在であれば、作者の作用は絵画を媒介としてしか『伝達』されないので、作者自身の直接の作用を無視すれば、近似的にはこれでよいだろう。いっそのこと、
[絵画♭観者]
でも十分である。むしろ、このほうが、いわば純粋であり、絵画を観ることの本質または本質的部分が明らかになるだろう(詳細は、抽象絵画論に照らして、後述)。
の三者の諸関係ないしは
三者体(=def 三者が相互作用することによって形成される構築体。生成体であるので、動的に状態変化する。記述空間では、時間軸を含むことになる)
は、どのように分析され総合ないしは統合されるのか?
ありがたいことに、「アンフォルメル展とは何か?」(ブリヂストン美術館。2011年7月6日まで)で見た、ピエール・スーラージュ氏へのインタヴュー内容の重要部分が抜粋され文字となって、『週刊読書人』の2011年6月24日(第2894)号に掲載されていた。
「絵画のリアリティーとは3つのものの関係から成り立ちます。まず物(chose)。これは記号ではありません、記号はまた別物です。オブジェでもない、物なのです。その物に対しては意味を与えることも、またその意味を奪うこともできます。物が意味を伝達するのではなく、見る人がそこに意味を見いだすのです。絵画のリアリティーとは、3つのものの関係から成り立ちます。すなわち、画家と、絵画という物、そして見る人の3つのものの関係から成り立つのです。見る人がその物、すなわち絵画を変えるのです。それが作品の現実です。見る人の役割が、作品の現実の一部を成しているのです。」(「ピエール・スーラージュへの6つの質問」、『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁)。
上記の文言を順次、分析や解釈をして、言明的な表現に変換してみよう。「オブジェ」と「物(chose)」がどう違うのか、わからないけれども、エイヤッと、絵画システム(絵画系)の構成 compositionについて、下記のように定式化することにする。
1. 絵画の現実性[リアリティー]は、物、(製)作者、観者、の三者から構成される。
構成(絵画の現実性)={絵画物体(物体しての絵画),(製)作者,観者}
composition (reality of a picture) = {picture (as a chose ?= as a thing sensu stricto), a maker(s), a viewer}
2. ここで、物とは、記号ではないし、オブジェでもない。(ただし、スーラージュの言語的分類体系は不明)
3. 人は、物に対して、意味を与えたり奪うことができる。(意味は物体ではないから、絵画物体に観者がなんらかの物体をくっけるるわけではなく、あくまで、観者の脳内に構築された絵画像に対して、なんらかの状態変化を観者が(ほとんど「自動的」にでも)させたということである。)
4. 物(絵画物体)が意味を伝達するのではない。(意味とは、われわれの解釈や判断体系に依存するような、われわれの脳神経系が作る構築体であるから、『物』は、光を反射することはあり得ても、意味を伝達するということはない。)
5. 見る人(観者)が、絵画物体に意味を見いだす。(「見る人がその物、すなわち絵画を変えるのです」は、修辞的表現であり、文字通りのことを主張しているのではないと、解釈することにする。)
「それが作品の現実です」の「それ」は何を指しているのか、「作品の現実」とは何を指しているのか、が不明だが、「見る人の役割」と「役割」という言葉が出てくるから、絵画の現実性 【realityをこう訳しておく。絵画の実相と訳すと、また異なる意味合いになるだろう。つまり、或る作者が作った一つの絵画を一つの生きている物体(生命体または生物体)とみなし、かつ、その本質を問う場合の実在する『相』である】 とは、絵画物体、(製)作者,観者、の三者から構成され、それらの関係(または相互作用)から生じる何か、である。
絵画の現実性とは、絵画(物体)、作者、観者の構成者の相互作用からもたらされる、なんらかの事象(こと)である。ここで作用者は、通常言われる生物体としては、作者と観者である。観者が或る絵画を見ているときに、そばに作者がいてその絵についてなにかを言うと、それも作用者となる。しかし、作者がいなければ、その鑑賞の場では、作者自身は作用者ではない。ただし、たとえば、絵画に表題(あるいは題名)がつけられている場合は、内容は観者の解釈にも依存するが、表題は、観者が力を「与える」結果として、観者が受け取る内容に影響を及ぼすかもしれない。
「無題」という表示があると、『作者は表題をつけていない untitled』ということではなく、作者は「無題」という題をつけたのだ、と解釈され得る。まぎれのないようにするには、「無題」という表示物を置かないことである。「(題無し)」と表示しても、(題無し)、という題(=「題無し」を左右に丸括弧をつけたもの)なのだ、と受け取られるかもしれない。
ここでは、表題が与える影響、あるいは作用の観点から正しく言えば、観者が表題(記号の一種)を見て、意味を同定し、その意味を絵画を見たことへと投影するもしくは(いわばその観者の鑑賞空間で)相互作用させた結果のことも、射程にいれておく必要があることを書き留めておく。
(例によって、システム的に厳密に議論しようとしてしまうと、(未熟ゆえに)脱線ばかりといった案配になる。)
絵画の現実性1:ピエール・スーラージュの言を手がかりとして
リアリティー realityは、
「現実感。真実性。迫真性。レアリテ。「描写に?がない」」(大辞泉)。
とある。「リアリティー」とカタカナ語では、文脈によって様々な意味になる。すると人によって意味していることが異なると、議論は噛みあっていないかもしれない。
1. It is real. それは実在する。
2. It is realistic. それは現実的[または実在的]である。
3. I feel it is real. それは実在する、とわたしは感じる。
4. I feel it is realistic. それは現実的[または実在的]だ、とわたしは感じる。
まず、『実在する』と『実在的である[または、現実的である]』を区別しよう。『実在的である』ことは、或る対象(言い換えれば、或る人が対象として注目した物または事)が実在することを必要とはしない。人が想像していること、あるいは過去に起きた光景の記憶は、現在では実在する物体(たち)ではないが、人がそれ(ら)を実在的または今まさに現実に存在すると感じることはある。
感じるのは、或る(実在する、実在した、実在するであろう)人である。「実在的」または「現実的」と、言葉で表している人は、そのように感じたことまたは判断したことを、言葉で指示または表現しているのである。
さて、絵画をどのように考えるのか、
[作者(または、製作者)#絵画♭観者]([maker#picture♭viewer])
ここで、#と♭は或る種の作用 actionを示す。本当は、三者間関係なので、三つ組み表示にすべきだが、観者が或る絵画を見ているあるいは鑑賞しているときに作者は不在であれば、作者の作用は絵画を媒介としてしか『伝達』されないので、作者自身の直接の作用を無視すれば、近似的にはこれでよいだろう。いっそのこと、
[絵画♭観者]
でも十分である。むしろ、このほうが、いわば純粋であり、絵画を観ることの本質または本質的部分が明らかになるだろう(詳細は、抽象絵画論に照らして、後述)。
の三者の諸関係ないしは
三者体(=def 三者が相互作用することによって形成される構築体。生成体であるので、動的に状態変化する。記述空間では、時間軸を含むことになる)
は、どのように分析され総合ないしは統合されるのか?
ありがたいことに、「アンフォルメル展とは何か?」(ブリヂストン美術館。2011年7月6日まで)で見た、ピエール・スーラージュ氏へのインタヴュー内容の重要部分が抜粋され文字となって、『週刊読書人』の2011年6月24日(第2894)号に掲載されていた。
「絵画のリアリティーとは3つのものの関係から成り立ちます。まず物(chose)。これは記号ではありません、記号はまた別物です。オブジェでもない、物なのです。その物に対しては意味を与えることも、またその意味を奪うこともできます。物が意味を伝達するのではなく、見る人がそこに意味を見いだすのです。絵画のリアリティーとは、3つのものの関係から成り立ちます。すなわち、画家と、絵画という物、そして見る人の3つのものの関係から成り立つのです。見る人がその物、すなわち絵画を変えるのです。それが作品の現実です。見る人の役割が、作品の現実の一部を成しているのです。」(「ピエール・スーラージュへの6つの質問」、『週刊読書人』2011年6月24日(第2894)号、6頁)。
上記の文言を順次、分析や解釈をして、言明的な表現に変換してみよう。「オブジェ」と「物(chose)」がどう違うのか、わからないけれども、エイヤッと、絵画システム(絵画系)の構成 compositionについて、下記のように定式化することにする。
1. 絵画の現実性[リアリティー]は、物、(製)作者、観者、の三者から構成される。
構成(絵画の現実性)={絵画物体(物体しての絵画),(製)作者,観者}
composition (reality of a picture) = {picture (as a chose ?= as a thing sensu stricto), a maker(s), a viewer}
2. ここで、物とは、記号ではないし、オブジェでもない。(ただし、スーラージュの言語的分類体系は不明)
3. 人は、物に対して、意味を与えたり奪うことができる。(意味は物体ではないから、絵画物体に観者がなんらかの物体をくっけるるわけではなく、あくまで、観者の脳内に構築された絵画像に対して、なんらかの状態変化を観者が(ほとんど「自動的」にでも)させたということである。)
4. 物(絵画物体)が意味を伝達するのではない。(意味とは、われわれの解釈や判断体系に依存するような、われわれの脳神経系が作る構築体であるから、『物』は、光を反射することはあり得ても、意味を伝達するということはない。)
5. 見る人(観者)が、絵画物体に意味を見いだす。(「見る人がその物、すなわち絵画を変えるのです」は、修辞的表現であり、文字通りのことを主張しているのではないと、解釈することにする。)
「それが作品の現実です」の「それ」は何を指しているのか、「作品の現実」とは何を指しているのか、が不明だが、「見る人の役割」と「役割」という言葉が出てくるから、絵画の現実性 【realityをこう訳しておく。絵画の実相と訳すと、また異なる意味合いになるだろう。つまり、或る作者が作った一つの絵画を一つの生きている物体(生命体または生物体)とみなし、かつ、その本質を問う場合の実在する『相』である】 とは、絵画物体、(製)作者,観者、の三者から構成され、それらの関係(または相互作用)から生じる何か、である。
絵画の現実性とは、絵画(物体)、作者、観者の構成者の相互作用からもたらされる、なんらかの事象(こと)である。ここで作用者は、通常言われる生物体としては、作者と観者である。観者が或る絵画を見ているときに、そばに作者がいてその絵についてなにかを言うと、それも作用者となる。しかし、作者がいなければ、その鑑賞の場では、作者自身は作用者ではない。ただし、たとえば、絵画に表題(あるいは題名)がつけられている場合は、内容は観者の解釈にも依存するが、表題は、観者が力を「与える」結果として、観者が受け取る内容に影響を及ぼすかもしれない。
「無題」という表示があると、『作者は表題をつけていない untitled』ということではなく、作者は「無題」という題をつけたのだ、と解釈され得る。まぎれのないようにするには、「無題」という表示物を置かないことである。「(題無し)」と表示しても、(題無し)、という題(=「題無し」を左右に丸括弧をつけたもの)なのだ、と受け取られるかもしれない。
ここでは、表題が与える影響、あるいは作用の観点から正しく言えば、観者が表題(記号の一種)を見て、意味を同定し、その意味を絵画を見たことへと投影するもしくは(いわばその観者の鑑賞空間で)相互作用させた結果のことも、射程にいれておく必要があることを書き留めておく。
(例によって、システム的に厳密に議論しようとしてしまうと、(未熟ゆえに)脱線ばかりといった案配になる。)