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生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

タクソンとニッチ(1)

2011年01月11日 00時09分08秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月11日-1
タクソンとニッチ(1)


■ タクソンの定義
■ (種タクサの定義)
■ 種概念(の定義)と現実タクサの定義との関係


 Mayr & Ashlock (1991)のtaxonの定義が述べられているはずのところは、索引によれば、p.20とp.116である。

 まず、p.20では、

  「bluebirds〔ルリコマドリ〕、thrushes〔ツグミ〕、songbirds〔鳴き鳥〕、そしてvertebrates〔脊椎動物〕というwords〔語、言葉〕は、有機体〔生物体〕の集団〔グループ〕を指す。動物学的分類のこのような具体的な対象 objects は、タクサ taxa である。〔或る一つの〕タクソン a taxon とは、Simpson (1961: 19)によって、『階層的分類のどのレベルのものでも、公式的単位として認識される実在する有機体〔生物体〕の集団である』と定義されている。同じ考えは、次のように表現され得るだろう。すなわち、
  A taxon is a named taxonomic group of any rank that is considered sufficiently distinct by taxonomists to be formally recognized and assigned to a definate category.
  タクソンとは、どの位階 rank であれ、タクソン学者〔分類学者〕によって、公式に認められ、かつ、或る明確な〔一定の;definite〕カテゴリーに割り当てられるほどに、十分に区別される〔明瞭な、別個の;distinct〕と熟考されて、命名されるタクソン的集団である。
」(Mayr & Ashlock 1991: 20;試訳)。

 〔わが見解:
  1. taxonomistsではなく、人 humansで良いだろう。
  2. a named taxonomic groupではなく、a named group で良い。taxonomicを入れたら、定義項に被定義項が入っているようなもの。
  3. もし、「それ」と指すことができるものならば、命名されていなくとも良い。もちろん、Mayr & Ashlockは命名規約に認められた、つまり公式に命名されたものだけが、タクソンだと言っているわけだが。〕

 bluebirdsやvertebratesは英語の語であり、英語圏社会では日常語である。bluebirdsと複数形なので、数えることができるものだと解釈できる。タクソンを『意味』しているとも取れる。

 続く段〔段落;paragraph〕は、

  「二つの側面が強調されなければならない。_タクソン_という用語はつねに、具体的な対象を指す〔指示する;refer to〕。ゆえに種 the species は、一つのタクソンではなく、一つのカテゴリーである。たとえば、the robin 〔ヨーロッパコマドリ〕(_Turdus migratorius_) は一つのタクソンである。次に、タクソンは、タクソン学者〔分類学者〕によって公式に認めら〔認識さ〕れなければならない。」(Mayr & Ashlock 1991: 20;試訳)。

 問題は次の段の主張である。

  「タクサは、クラスではなく、哲学者たちが個体〔個物;individuals〕または特殊者 〔特称者;particulars〕と呼ぶものである。これはすべての(狭義での)生物個体群 biopolulationsを含む。それらは、内的な凝集性と、第2章で論議されるが、種の存在論についての他の側面によって特徴づけられる。より高位のタクサは、種によって示される凝集度を欠いているから、せいぜい、_歴史的集団_(Wiley 1981)として言及〔指示〕されるが、それでも、より高位のタクサは、明瞭に個体の様 clearly individuallikeであり、クラスではない。」(Mayr & Ashlock 1991: 20;試訳)。

 なんという、ちんぷんかんぷんさ! いやむしろ、たんに辻褄が合わないだけではないか。種によって示される凝集度を欠くのなら、どうして、明瞭に個体の様だと言えるのか? また、せいぜい歴史的集団だというのに、個体似だと言えるのか?

 *******
 [次回は category。混乱を招くので、(levelではなく)rank 位階または位、を使おう。同定カテゴリーという言い方を多義的になならないように使うため。]


=== 登録していなかった書籍

[D]
ドレツキ,フレッド.1988(水本正晴訳 2005.10).行動を説明する:因果の世界における理由[双書現代哲学1].勁草書房.[Dretske, F. 1988. Explaining Behavior: Reasons in a World of Causes.] [y3,400+] [B20071119]



グローバル資本主義と日本の選択

2011年01月10日 20時32分33秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月10日-1
グローバル資本主義と日本の選択


 2011年1月9日読了。
 武者氏の楽観主義的見解ないし処方箋は、幻想となるだろう。
 金子氏は、
  「一九八〇年代後半の社会主義崩壊のときも」(4頁)。
と述べているが、(表現をそのまま受け取って)社会主義が崩壊したのではなく、社会主義を採用していると見られる国が崩壊した、ということであろう。では、社会主義を採用している国はあったのだろうか? あったとしても、少なくとも社会主義ゆえに「崩壊した」わけではないと思う。
 逆に、資本主義ゆえに或る国が「崩壊」することもないだろう。商業至上主義あるいは際限なき金儲け主義ゆえに、国の経済活動が大混乱するとか、また経済体制が崩れるということは、むしろ大いにあるだろう。そのことはすでに一般人にとっても、確証されつつあるのではないか。
 たとえば多国籍企業は、国を渡り歩くのである。しかし本質的には、金 money という抽象的なものが、数字として口座決済されたりして、現実の力を持つこと、そして問題は投機的思惑で人は金を動かすということである。要は、その動きが制御できないという点が問題である。すると解決策の一つは、物物交換的な経済決済システムにすることである。原点に戻れ、である。
 もっとも、文字通りの物物交換ではなく、少しは便利なように、工夫すればよい。というのは一つには、こと的労働があるからである。よって、物事物事交換となる。地域通貨とかの実践から、なんらかの示唆はないだろうか。
 もう一つ。経済を成長させる、のではなく、地域環境的および地球環境的に妥当なまでに、文化的な人間生活が安定して暮らせるように、経済規模をむしろ縮小させることである。とりわけ、無益な競争を止めて、無駄な製造を止めることである。

 グローバル資本主義についての分析や本質的定義がよくわからなかった。

 橘木氏の説く格差問題については、参考になった。本質的なところを、箇条書きで、かつ、(たとえば図解で)構造的に(=相互関係の配置を示すように)表現してもらえるともった良かった。

*金子勝・橘木俊詔・武者陵司.2010.3.グローバル資本主義と日本の選択:富と貧困の拡大のなかで.岩波書店.[ISBN:9784000094795] [y525+]


有機体主義〔有機体論〕と還元主義〔還元論〕

2011年01月09日 01時20分21秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月9日-1
有機体主義〔有機体論〕と還元主義〔還元論〕

 Hull (1974)の第5章は、「Organicism and Reductionism 有機体主義〔有機体論〕と還元主義〔還元論〕」と題されている。
 Hull (1974: 125)は、Julian Huxley (1971: 138)を引用していて、それによると、Huxleyが機械的説明 mechanistic explanationを要求する、或る実験を述べていると、J.S. Haldane(J.B.S. Haldaneの親爺)は、

  「けど、あんた、そりゃ、一個の非有機体でっせ」

と、言ったそうな(「あんた」は臨場感がでるかもしれないので、あたしが今此処に加えました)。
 「それがどうした?」とか「非有機体だからこそ、いいやん。」と言いたいところ。というのは、果たして、非有機体は、機械的説明なるもの(その他なんであれ)で、われわれは分かったつもりになれるのか、が鮮明になる(かもしれない)からである。
 機械論の落とし穴は、白上謙一(197*: ***)が述べたように、機械そのものの説明をしない、ことである。
 機械についてはわかったつもりであるとすれば、それはなぜだろう? 機械の何について、わかっているとするのか?
 たとえば、或る一個の機械がそこにあり、その振る舞いの機構 mechanismがわかっているとしよう。すると、その機械の作動は、その機構によって説明されるであろう。そして、その説明の仕方は、機構的〔メカニズム的〕説明 mechanismic explanation(mechanistic 機械的、ではないことに注意)ということになるだろう。
 では、機構(メカニズム)とは何か。おそらく結局は、この世界に存在するとされる様々な力または作用(つまりは、力または力と呼ばれているものの分類!)またはエネルギーのうちで、どんな力が働いているのか、そしてエネルギーの種類の変換や方向と量の変化を同定するということになろう。
 線図〔略図〕diagramによる例を検討してみる。

 
 非閑話休題。

 たとえば、
     「すべては、メッセージである」
と 述べることは、言明としては間違っているかもしれないが、そういうふうに捉えるという態度の表明なのかもしれない。では、メッセージは日本語では何だろうか。伝言とか、声明とか、宣伝文句とか、お告げ・ 託宣とか、教訓とか、ねらいとか、ある。第三者が介在する場合は、託言か。これも分類、あるいは世界の分節の仕方とその結果得られる分類項目に対応する語をどう割り振るかの問題。
 
 
[H]
Hull, D.L. 1974. Philosophy of Biological Science. ix+148pp. Prentice-Hall. [B20000731=$65.99+5.95, out of print]

ハル,D.L.1974.(木原弘二訳,1985)生物科学の哲学.v+232pp.培風館.[y2400] [Philosophy of Biological Science. Prentice-Hall, Inc.]

===
 次回以降の論題:
  ・生気論 vitalismの真髄とは、何だったのか?
  ・


日経平均株価

2011年01月07日 02時17分28秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月7日-1
日経平均株価


 北海道新聞2008年1月16日朝刊の第11面(経済)によると、約2年2か月ぶりに1万4000円割れで、「官製不況」だという批判が高まっているとある。ニューヨークの外国為替市場の円相場は、一時106円台とあった。福田内閣のときである。夕刊では1面トップに「東証続落 一時378円安」という見出しである。グラフからは2007年1月初めは17000円を越えていたことがわかる。

 2011年1月6日の日経平均株価は、
  高値 10,530.11
  安値 10,477.52
で、「1万500円台回復 昨年来高値銘柄100に迫る」
http://markets.nikkei.co.jp/kokunai/
とある。
 3年前よりも、3000円超も低い。

プロセスとパターン(1)

2011年01月06日 00時00分40秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月6日-1
プロセスとパターン(1)

  'By _pattern_ we mean aspects of the apparent orderliness of life. By _process_ we mean the mechanisms that generate these patterns.' (Eldredge & Cracraft 1980: 1)
  「_パターン〔模様、様式〕_によって、われわれが意味するのは、生命 life の明白な、整然とした様 orderliness 〔整然性、秩序正しさ〕の諸局面〔諸側面、諸様相〕である。_プロセス〔過程〕_によって、われわれが意味するのは、これらの諸パターンを生成する諸メカニズムである。」(試訳)


 The Oxford Paperback Dictionary (1979)によると、patternとは、
  'n. 1. an arrangement of lines or shapes or colours, a decorative design. [中略]
   5. the regular form of order in which a series of actions or qualities etc. occur, _behaviour patterns_.


 そして、processとは、
  'n. 1. a series of actions or operations used in making or manufacturing or achieving something.
   2. a series of changes, a natural operation, _the digestive process_.
   3. a course of events or time. [中略]
   v. to put through a manufacturing or other process or course of treatment.

 というわけで、processという動詞には、処理する、とか、加工するという意味もある。プロセスチーズ processed cheese とは、貯蔵中のさらなる熟成または劣化を避けるように扱われた treated チーズということである。


[E]
Eldredge, N. & Cracraft, J. 1980. Phylogenetic Patterns and the Evolutionary Process. viii+349pp. Columbia University Press.

エルドリッジ,N.・クレイクラフト,J.1980.(篠原明彦・駒井古実・吉安 裕・橋本里志・金沢 至訳,1989) 系統発生と進化プロセス.377pp.蒼樹書房.

システム主義、システム的アプローチ systemism, systemic approach

2011年01月05日 23時55分53秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月5日-5
システム主義、システム的アプローチ systemism, systemic approach

 マーナ & ブーンゲ流のシステム主義は、

  「全体の存在を認めつつも,構成,環境,そして構造によって分析する.1.7.2節のCES分析という概念を思い出してほしい.生態学における最近のシステム主義擁護論についてはTuomivaara 1994を見よ.)」(マーナ & ブーンゲ『生物哲学の基礎』訳書第5章、224頁)。

 システム主義の中心的な存在論的テーゼ〔論証されるべき命題または措定。定立。〕とは、
  「
  『あらゆる物は他の何かと繋がれている』
  (Every thing is connected to some of other thing(s))
   」マーナ & ブーンゲ『生物哲学の基礎』訳書第5章、224頁)。

であり、これは、

  「あらゆるものは他のあらゆるものと繋がれている
  (Everything is connected to everything else)
  という全体論的テーゼよりも,はるかに弱い主張」(224頁)

である。

 システム主義は、認識論的には,反分析的ではなく、CES分析またはCESM分析と名づけて、システムを、その構成要素、その構造(要素または下位システム間の関係)、その環境、そしてその機構 mechanism を同定することによって、分析していく。

 しかし、

  1. <あらゆる物事(=ものとこと)は、他のあらゆる物事と繋がれている>という存在論と、
  2. <或る物は、他の有限個の何かと繋がれている>という認識論的方法、

を採用するほうが、scope (視程、射程)を広くできる。

 「或る物(=システム)」と言えるのは、この世界の残余のものから、なんらかの関心または興味によって、認識上の便宜から(物理的にあるいは心理的に)取り出したものである。なんらかの境界を定めているのであって、そのことは、<あらゆる物は、他の何かと繋がれている>という存在論的仮定と矛盾するわけではない。
 或る物と他の或る(それこそ無数個のような)物が、なんらかの関係を持つかどうかは、認識的または実践的に、或る関心のもとに決定することである。したがって、マーナ & ブーンゲ『生物哲学の基礎』の採用する、<あらゆる物は、他の何かと繋がれている>は、むしろ強い規定である。というのは、繋がり度がゼロの場合を含めるようにすれば、<あらゆる物事(=ものとこと)は、他のあらゆる物事と繋がれている>は、<あらゆる物は、他の何かと繋がれている>を含むことになる。そうしておいて、この世界について実際に観測して、どうであるかを主張または決定すればよいことである。

 したがって、存在論的には、

  1. あらゆる物事は、他のあらゆる物事と繋がれている。

を採用する(つまり、そのように<仮定>する)。
 そして、(いわゆる超能力者はさておき)われわれの現在の認識装置は無限個の対象を認識できないようであり、また、(現在のところ)実践的にも時間は限定されているので、あらゆる物事を対象範囲とすることはできない。そして、対象を操作したり加工する上でも、通常は時間および空間規模の小さい局所的な相互作用によるほかないから、認識的に、

  2. 或る物事は、他のいくつかの物事と繋がれている。

とするのが、得策であろう。むろん、或る物事が他のどれだけの種類と個数の物事と繋がれているかは、その物事の何を問題とするかという関心に依存する。

 このように考えれば、存在論的仮定において、システム主義と全体論は同一にできる。違いは、対象への接近方法であり、全体論は全体としての存在をいわば尊重して、分析を適用しなかったのだと思う。
 おそらく全体論ではこれまで有効な分析的方法を提供しなかったこと、また、統合する方法も提供しなかったことではないか、と思う。
 では、フォン・ベルタランフィ Bertalanffyが主導したシステム論の運動成果はどうだったのか? フォン・ベルタランフィ自身が、総合のたは統合の方向への無成果をぼやいているのである(フォン・ベルタランフィ 訳書1973 ***頁)。

 
 あるゆる対象は、(広義の)システムである。こうみなして、システム的アプローチをなにごとに対しても適用するのが、システム主義である。


[V]
von Bertalanffy, L. 1969(1971). General System Theory: Foundations, Development, Applications. Revised Edition. xxiv+295pp. George Braziller.

フォン・ベルタランフィ,ルートヴィヒ.(長野敬・太田邦昌訳 1973.1).一般システム理論:その基礎・発展・応用.[von Bertalanffy, Ludwig. 4622025221]

=== 続く。
備忘録

 或る対象は、なんらかの種類と程度において、複雑である。→複雑度の測度(ゲルマン『**』の議論)。

 
 全体性の問題。統一力=制御者の存在。→レベル構造の導入。階層の同定。入れ子構造との差異。




生命火花(の構成要素)による十牛図:(a flower devas) の場合

2011年01月05日 01時21分24秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月5日-4
生命火花:(a flower devas) 、(の構成要素)による十牛図の場合

 下記から十個を選んで、十牛図に照応するように組み立てて観(魅)ませんか?

 
   
   (a)

 
 (b)

     
     (c)

       
       (d)

         
         (e)

       
       (f)

     
     (g)

   
   (h)
 
 
 
 (i)

           
           (j)

  
  (k)

      
      (m)

        
        (n)

          
          (p)

     
     (q)

   
   (r)

         
         (s)


   風間虹樹「生命火花(a flower devas)」(F20、2007年9月)より。



意識としてのわたしの同一性

2011年01月01日 23時05分55秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月1日-2
意識としてのわたしの同一性

 例のデカルトの、<私>が存在するという論証について。

                    「「この現実」と言っ
  ても、そんなものはないかもしれない」。「いま」、「ここ」と
  言っても、まったく間違っているのかもしれない。それでも
  なお、ひとつ絶対に確かなことがある。それは、事態がどう
  なっていようと、また私が何であろうと、私があるところ、
  そこが現実である、ということだ。これが「私はある、私は
  存在する」の意味である。
                   (上野修 2010.10 :5)


 <わたし>が、だれだかなにだかどこだかいつだかわからないが、出発点を<わたし>に取れば、そう主張することはできる。しかし、その主張が妥当かどうかは、わからない。
 わたしをわたしと思っているのは、なんらかの意識だとしよう。また、意識とは、つねになんらかについての意識であると仮定する。(すると、夢見のない睡眠状態のときは、どうなるのか?)

 夢のなかで、わたしは夢のなかで自分が活動しているのを疑いもなく現実だと思っている。夢から覚めて初めて、わたしの意識?が夢のなかであった(あるいは夢見の世界にわたしという意識の焦点が合わされていた? するとそのときの意識はどこに存在していたのか?)とわかる。
 夢から覚めたと思っても、それはまだ夢のなかだったという場合もある。
 夢における<わたし1>と、覚醒して「ああ夢だったのか」と思う<わたし2>は、同一なのか? 意識の連続性も錯覚であるかも。しかしまた錯覚かどうか、どうやって確かめるのか。他の人に確かめてもらうのが、一番である。脳波と眼球運動と脳血流の測定器をつけることにする。

 おそらく、視覚的な夢の場合、急速眼球運動が見られれば、まずは夢を見ている。被試験者を起こせば、夢を見ていたと言うからである。ただし、これも<今>ではなく、さきほどの夢見状態(「状態」と言えるのかどうかはさておき)におけるなんらかの経験についての記憶である。記憶内容を語っているであって、現在経験している状態にいるのではない。そしてその記憶は、大部分は歪んでいるだろう。
 覚醒状態(または覚醒しているときの世界。そのような世界が存在すると言えない段階だが)と夢見状態で意識の位置が移るのだと仮定しよう(眠っていて夢を見ていない状態もあるが、省略)。


 
 もう一つの疑問点。もし、わたしが疑っている(あるいはなにかを思っている)限りにおいて、わたしが存在することが確かだと主張しているのなら、疑っている私が存在することは確かだ、とそのことを疑うことを止めた途端に、わたしは存在しているかどうか確かではなくなる。
 
 
[U]
上野修.2010.10.わたしはある、私は存在する--デカルト(三).本 35(10): 2-6.





生命とは何か

2011年01月01日 11時56分24秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月1日-1
生命とは何か
 
 
  「生命とは何か what is life」という問いの意味は、『とは何か』
  の意味と、『生命』という概念の外延(つまり、『生命』は生き
  ている有機体〔生物体〕だけを指すのか、あるいは生命圏全体を
  指すのか)から引き出される。
  (Sattler 1986: 211-212;試私訳[お試しの、わたくし的な訳])

 「それは何ですか? what is it ?」と問われれば、「それは~です。 it is x.」と答えるだろう。このとき、「である is」の問題については知らん顔して、「~」には、どのような種類の言葉が置かれるのか。

 質問が言葉で行なわれれば、言葉で返すのが多くの場合だと思う。((あるとして、)テレパシーによる場合は、脳内に音声が聞こえるのか、あるいは、概念的な物体が転送?されるのか?) 定義とは、定義項(言葉を構成要素として、それらが(多くの場合、線的に)配置される。そうではない例としては、(定義とは言えないかもしれないが)タルムードに見られる方式)と被定義項を併置し、その二つをなんらかの操作記号(たとえば、「=def」)で結びつけることである。たとえば、

  A =def b*c#e
    (*, #:なんらかの操作子)

のようにである。

 (あかん。また厳密に書こうとして、逆茂木型に支離滅裂になってしまった……そや、ちょっぴり思い出した。)

 (また忘れた。忘年会をしなかった祟りかも。)

 
 生命は、生きている物体の機能であるのか? (機能については、Buller 1999の総括を見よ。)


 生きている物体として、家猫(野良猫と野猫を含む)を考えてみよう。これは、「ネコ」という名称によって表現される分類的概念(クラス)に属する。学名は、_Felis catus_ または _Felis silvestris catus_である。

  イエネコは従来、ネコ科ネコ属のネコという種(Felis catus)とさ
  れてきたが、最近になって、ヤマネコ(Felis silvestris)の1亜種
  (Felis silvestris silvestris)と見なされるようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%8C%AB

とあるが、_Felis silvestris_の模式標本とされた、または属員として指示されていたのは、「ヨーロッパに棲息するネコ属の1種」であるヤマネコに属する生物体であろう。したがっておそらく、「(Felis silvestris silvestris)」ではなくて、「(_Felis silvestris catus_)」であろう。ウィキペディアの他の項(=ネコ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B3
では、_Felis silvestris catus_となっている。しかし、

  学名
  Felis silvestris catus
  (Linnaeus, 1758)

と、「Linnaeus, 1758」が括弧内になっているのはなぜ? イヌでは、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C

  学名
  Canis lupus familiaris
  Linnaeus, 1758

と、括弧内になっていない。


  _Felis catus_ Linnaeus, 1758

  _Felis silvestris_ Schreber 1777

をくらべると、Linnaeusのほうが先だから、_Felis silvestris_の方が _Felis catus silvestris_となるはずだが、ITIS(Integrated Taxonomic Information System)とMSW(Mammal Species of the World)によって強権発動的に_Felis silvestris catus_となったのか(なんら確認していないので、間違っているかも)、あるいは命名規約上の根拠なくITISとMSWに関わる人々がそのようにしているのか。

 (なんという脱線! やっかいな生物分類とその命名。)
 (戻線)
 
 It is what it isという言い方がある。ならば、

  Life is what life is

もあり、だろう。最節約的で良いかも。

 つまり、一つ以上の諸性質を表現する語を並べるよりも、必要かつ十分条件を簡潔に与えている。すなわち、生命は言葉で定義できるのか、また、定義して何になるのか、概念で置き換えられるのか、が問題である。たとえば、生命とは経験するものだ、といったような答え方。あるいは、生命は概念的思考によって捉えることばできず、したがって言葉で定義することはできず、(たとえば)生命は直観するものである(直観によって捉えるものだ)、とか。

  神を述べるのに、「It is that it is that」だったかな、そういう言い方があったと思う。何々であるといった述語を一つでも並べることは、限定することである。限定が無い(否定形。もっともこれは表現上ことである。→渡辺慧の「醜い家鴨の仔の定理」を参照)と言うのも、限定することであり、無限であると言っても、結局は言葉による限定ということになるだろう。つまり、定義できない。
 もう一つは、こうではない、そうではない、何々ではないと、「~ではない」を無限個並べるやり方もあり得る。しかしこれも、言葉による限定となる。つまりは、われわれの知的活動による限定になる。

  宇宙とは宇宙である。
  生命とは生命である。
  ゆえに、宇宙は生命である。
  ゆえに、生命は宇宙である。
  ゆえに、生命 =def 宇宙。
  ゆえに、宇宙 =def 生命。
  よって、生命 =def 生命。

 しかしながら、概念的思考の結果、言葉によって表現して、なにごとかを指し示すこと、それが知的活動の性(さが)である。

 
 
[B]
Buller, D.J. 1998. Etiological theories of function: a geographical survey. Biology & Philosophy 13〔4〕: 505-527. [Buller 1999: 281-306 に再録。ただし、原論文にある6行分のabstractは掲載されていない。]

Buller, D.J. (ed.) 1999. Function, Selection, and Design. viii+325pp. State Univ of New York Press. [機能に関する主だった論文が再録されているので便利。]

[S]
Sattler, R. 1986. Biophilosophy: Analytic and Holistic Perspectives. xvi+284pp. Springer-Verlag.

[W]
*Walsh, D.M. & Ariew, A. 1996. A taxonomy of functions. Canadian Journal of Philosophy 26: 493-514. [Buller 1999: 257-279 に再録。]




成長または生成

2010年12月30日 22時37分41秒 | 生命生物生活哲学
2010年12月30日-5
成長または生成



2008. 2. 5. 08:46 撮影

 タクソン H2Oなどに属する物体または生物体は、このとき、或る環境条件下で、当然のごとく、上の画像のような形態となった。つまり、ほとんどがタクソン H2Oに属する物体の集合体は、そのほとんどがタクソン H2Oに属し、それゆえ(=タクソン的推論)その本質に因って、水の結晶様のものが生成された。(水・物体=生物体が、自ら生成したのではない。)