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生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

「リスク」って何だろう?

2011年08月30日 00時28分12秒 | 放射能
2011年8月30日-1
「リスク」って何だろう?


  「安井至・国連大学副学長(環境持続学)が興味深いデータを持っていた。生命を脅かす「リスク」を客観的に測る物差しを作ろうと、日本人に身近な三五の死因について一〇万人当たりの死者数を試算したところ、トップはたばこ、最下位はBSE(牛海綿状脳症)だった。
 上位集団はがん、肥満、心臓病、自殺などおなじみの死因が占め、マスコミをにぎわす原子力事故や食品添加物、電磁波などは、低リスク集団に集中していた。この「安井指標」を使うと、BSEのリスクはたばこの三六億分の一に過ぎない。」(元村 2007: 82頁)。

 死因というのは、個人の死についてのことである。原子力事故が個人の死に結びつくことは、低いということだろう。実際、福島第一原発事故でも、放射能による直接の死亡者は報道されていない。

  「原子力事故はどうだろう。これも、現場の作業員から原子炉メーカーまで、核物質を安全に制御するあらゆる手を打ったという前提で、このリスクの低さが保たれていることを考慮する必要がある。
 喫煙を禁止されている高血圧患者が、医者に隠れて「いいや一本ぐらい……」と煙草を吸っても、それは彼(女)個人の余命を縮める程度で済む。しかし、発電所で核燃料の管理をしている作業員が「いいや一本ぐらい……」と燃料棒を所外に持ち出せば、地域の人々が被曝の危機にさらされる。」(元村 2007: 84-85頁)。

 確かに、「核物質を安全に制御するあらゆる手を打った」のではないから、事故は起きたのであろう。そして、多くの人が外部被曝したし、内部被曝した。

 
[M]
元村有希子.2007.10.理系思考:分からないから面白い.349pp.毎日新聞社.[y1,500+] [B20071120]


リスク論、科学社会学・科学技術社会学[本]

2011年08月20日 11時31分49秒 | 放射能
2011年8月20日-2
リスク論、科学社会学・科学技術社会学[本]

 立石裕二『環境問題の科学社会学』は、リスク論に触れているようだ。

 
[H]
*平川秀幸.2010.8.科学は誰のものか:社会の側から問い直す.256pp.日本放送出版協会.[生活人新書328][y777]


[M]
*松本三和夫.1998.7.科学技術社会学の理論.365pp.木鐸社.[y4,200]

*松本三和夫.2009.9.テクノサイエンス・リスクと社会学:科学社会学の新たな展開.378pp.東京大学出版会.[y5,250]

[T]
*立石裕二.2011.4.環境問題の科学社会学.312pp.世界思想社.[y3,360]

[Y]
*若松征男.2010.7.科学技術政策に市民の声をどう届けるか[科学コミュニケーション叢書].256pp.東京電機大学出版局.[y2,940]


リスク論の乱用

2011年08月19日 13時00分29秒 | 放射能
2011年8月19日-1
リスク論の乱用

 こんにちの社会は、外を歩けば数多くの危険に出会うことになる。家の中にいても、たとえばシック病にかかるかもしれないし、クレーンが倒れてくるかもしれないし、車が飛び込んでくるかもしれない。

 さて、リスク論の考え方そのものの(要文献)、あるいは、リスク論の適用での(要文献)、問題点はいくつかの段階(要文献)で考えられる。もともと政治的意図を入れやすいところがあると思われる(要文献)。

 平川秀幸(2011.5)「三・一一以降の科学技術ガバナンスに向けて:過去を通じての未来へ」では、<リスクの「合理的理解」を盾にした「リスク受容の要求(ときには強要)」について触れられている。浜岡原発の耐震性を主題とした、1998年頃の科学技術庁(当時)での討論会のやりとりに触れてのことであるが、論点はリスク論に関わっており、一般化できるものである。たとえば放射能汚染あるいは放射線被曝に対してである。

  「なるほど、かつては絶対安全と言い張るだけだった原子力の行政や専門家がリスクの存在を公然と認めたことは大きな進歩だろう。しかしそこには、リスクの「合理的理解」を盾にした「リスク受容の要求(ときには強要)」の意図が見え隠れしている。 ここでリスクの合理的理解とは次のようなものだ。第一に、リスクは科学的に理解しなければならない。すなわちリスクとは、ある損害の大きさにその発生確率を掛けたものであり、大きなものもあれば小さなものもある。そして原発が全電源喪失などによって過酷事故を起こす確率は、極々低確率であるため、事実上無視できる。第二に、あるリスクを削減するかどうか、するとすれば、どれだけ削減するかは、そうするためのコストや、逆にリスクを引き受けることで得られるはずの便益(たとえば薬の副作用のリスクを引き受けることで得られる治療効果)とのつりあい、身の回りの他のリスク(たとえば自動車事故や喫煙のリスク)との比較によって、判断されねばならない。あるリスクの削減にコストを掛けすぎれば、他のリスクの対策を圧迫することになるし、便益を得たければリスクも引き受けねばならない。自動車や喫煙のリスクは受け入れているのに、それよりはるかに小さな原子力のリスクを受け入れないのは辻棲が合わない。第三に、あるリスクを小さくすることは、別のリスク(対抗リスク)を大きくすることもある。たとえば薬の副作用リスクを下げると効能も減り、病気がなかなか治らないというリスクが高まる。そして、これらの考え方に反し、小さなリスクでも不安になったり、さらなる削減を要求したりするのは、リスクに関する科学的理解が足りないか、不合理な「ゼロリスク指向」だと批判される。上の科技庁でのやりとりで専門家が主張しているのは、そういうことだ。そして、これらのことを理解して安心するか、安心できない場合でも「正しく怖がる」こと。三・一一以降の放射能汚染についても、そうすることを説く言説をあちこちで見聞きした。 こうした考え方は、個人としても社会全体としても、数多あるリスクに対処していくためには不可欠の考え方ではある。しかし常に適切なわけではない。今回の事故に照らしていえば、何が正しい怖がり方かの基準自体が揺らいでいる。」(平川秀幸 2011.5 176頁)。

 「こうした考え方」とは、どこからどこまでを指しているかわからないが、少なくともすべて不可欠とは考えないような社会にすべきだろう。
 自動車については、衝突防止装置を装備した車を販売すべきであろう。少なくとも、受動喫煙にはならないように、全国禁煙にする。など、など。

 さて、論理的筋道を明示的にすると、下記の通りとなるだろう〔要記載〕。

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  *************
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[H]
平川秀幸.2011.5.三・一一以降の科学技術ガバナンスに向けて:過去を通じての未来へ.現代思想 39(7): 172-177.


リスク評価による行動選択の落とし穴

2011年08月16日 22時53分43秒 | 放射能
2011年8月16日-1
リスク評価による行動選択の落とし穴


  「ときおり緊急の目覚まし電話が鳴り響き、われわれを立ち止まらせ、用心するように促す。その一例は、東海村の核燃料加工工場で一九九九年九月に起きた臨界事故である。悲劇的な事故の真相が明らかになり、放射線がまき散らされ、気分が悪くなる者が出てくるにつれ、現地の地方自治体の当局者は、危険を避けるために何をするのが最善なのかという問いに直面させられた。住民を疎開させるべきか否か、住民をドアを締め切った屋内にとどまるよう要請すべきか否か、といった問いである。技術システムを生み出したり、それを管理したりする人々が、もっと知恵を働かせていれば、こうした種類の苦渋の選択が起こることを予期し、それを避けることができたはずである。大きな災難がわれわれに降りかかるのを座して待つことはない。」(ラングトン・ウィナー (吉岡斉・若松征男訳,2000)「日本語版への序文」、『鯨と原子炉』:7頁)。

 上記は、ウィナー『鯨と原子炉』の「日本語版への序文」に書かれたものである。
 結局、東海村JCO臨界事故の後では、柏崎刈羽原発事故もあったが、多くの日本人は福島第一原発事故を、当局の隠蔽と国民の騙されやすさと無関心の上に、座して待ったことになるだろう。
 
 さて、危害、危険、危機といった語の意味を調べてみる。

  「危害。身体・生命・物品を損なうような危険なこと」(大辞泉)。
  「危険。生命や身体の損害、事故?災害などが生じる可能性のあること」(大辞泉)。
  「危機 〔crisis〕。悪い結果が予測される危険な時?状況。あやうい状態」(大辞泉)。
  「リスク risk。1 危険。危険度。2 保険で、損害を受ける可能性」(大辞泉)。
  「使い分け。〔略〕【2】「危険」は、広く危ないことを意味するが、「危機」は、危ない場面、境遇に焦点が当てられている。英danger【3】「危険」と「危機」では、「危機」の方がやや硬い表現であると同時に、一般に危なさの度合いも大きく感じられる。」

  「危険。(a) danger; (a) hazard; 〔差し迫った,大きな危険〕peril; 〔冒険,賭けに伴う〕(a) risk」(プログレッシブ英和中辞典)。
  「危害。(an) injury; harm」(プログレッシブ英和中辞典)。
  「害。harm (▼物質的精神的肉体的な害について広く用いる); 〔損害〕damage」(プログレッシブ英和中辞典)。

 
 さて、訳者あとがき(この執筆者は吉岡斉氏)の287頁に、「「リスク」概念については第八章で、精密な批判的分析が展開されている」と書かれている。そのウィナー『鯨と原子炉』の第八章「タール人形につかまらないために」から、下記を引用する。

 
  「相対的なコストとベネフィットのバランスを進んで取ろうとする姿勢は、自分の状況を記述するために「リスク」という概念を採用すること自体に内在したものである。ふつうに使うとき、この言葉は損害の大きさを可能な利得に対して測った人の立場からの「損害のチャンス」を意味する。人はリスクにどう対処するか? 時には人はそれを引き受けることを決心する。いっぼう危険【ルビ:ハザード】にはどう対処するか? ふつう人はそれを避けるか、除去することを求める。ビジネスでの取引、スポーツ、そしてギャンブルでは「リスク」という概念が使われている。そのことはこの概念がきわめて密接に、自発的な企てという感覚と結びついているさまを表わしている。〔略〕
 〔略〕「危険」【ルビ:デンジャー】、「危険」【ルビ:ハザード】、「危険」【ルビ:ペリル】の概念とは対照的に、「リスク」という概念は、問題となる損害のチャンスを利得の期待のもとに進んで受け入れるということを意味する傾向にある。」(ウィナー 『鯨と原子炉』: 233-234頁)。

 
  「日常生活はリスクに関するさまざまな種類の状況に満ちている。これに注目して現代のリスク評価は、一連の心理学的な紛糾の種に焦点を当ててきた。それは科学的不確実にかかわる困難や、リスク/コスト/ベネフィット分析の計算にかかわる困難の上に、さらに困難を積み上げるものである。人々は実際直面するリスクを正確に評価するだろうか? 彼らはどのくらい上手に、そのようなリスクを比較し、評価することができるだろうか? なぜ彼らは他のリスクではなく、あるリスクに焦点を当てようとするのだろうか? 数多くの興味深く、また有効な心理学的研究が、そのような疑問に答えるべく行なわれてきた。概してこれらの研究は、日常的活動に含まれる損害の相対的チャンスについて、人々がかなり曖昧に理解していることを示している。そのような知見に、現代生活におけるさまざまな状況の中でこうむる傷害者数と死亡者数の統計的比較を重ね合わせて考えると、なぜ人々がある種のリスクについて心配し、他のリスクについては心配しないのかという問題は、まことに謎に包まれたものとなる。
 この謎をレトリックとして使おうとする者もいる。彼らはしばしば、人々のリスク感覚における混乱を引き合いに出して、ある特定の原因による損害のチャンスに焦点を当てる者の主張の評判を落とそうとする。あのいまいましい傷害と死の原因である自動車を運転する人は、いったいなぜ原子力や大気汚染の程度について心配するのか? この種の不快を催させる比較は、人々の技術的危険【ルビ:ハザード】についての恐怖が、まったく不合理であるということを示すためにときどき用いられる。たとえばこの見解のある指導的な提唱者は次のように論じる。「心理的、社会的問題をもった人々が、技術進歩に不安をいだくのは驚くにあたらない。その恐怖は、高層建築物のエレベータに対する不安から、煙探知器からの『放射線』についての懸念に至るまで、幅広い事柄にわたっている。決まって、これらの恐怖は、精神科医が恐怖症と分類する内的不安を、置き換えたものである」。こう書いた著者は、ふつうの人は現代技術がわれわれすべてにもたらした数えきれない益を思い出すことによって、そのような恐怖症を克服することができると説明している。「健全な心をもった人々は、驚くべき物質的な利益にしばしば伴う無視できるほどのリスクと小さな不便とを受け入れるのである」。」(ウィナー 『鯨と原子炉』: 234-235頁)。

 この後でウィナーは批判しているが、それはさておき、最後の文での「健全な心」というのは、そう書いた或る著者が勝手に決めただけで、心の健全性を個々人について測定したわけではないだろう、おそらく。

 「タール人形」とはなんだろうと思って、ネット検索すると、「タバコってなんですか? 日本のタバコ規制が進まないのは財務省、JT、悪法・たばこ事業法の三悪が元凶です。」という網所に、

  「たばこの健康被害を訴えるため、シドニー中心部に設置された人形」
http://blog.goo.ne.jp/tankobu_x/e/8247ea82666d95b50fd104c3a342bcb7

とあった。




 
[W]
ウィナー.1986.(吉岡斉・若松征男訳,2000)鯨と原子炉:技術の限界を求めて.306+xiii pp.紀伊国屋書店. [Winner, Langton. 1986. The Whale and the Reactor: A Search for Limits in an Age of High Technology. The University of Chicago Press.] [B000327, y2,600]



郡山市で放射性セシウムの一部は5月下旬に深さ約15cmまで浸透

2011年08月15日 00時59分06秒 | 放射能
2011年8月15日-2
郡山市で放射性セシウムの一部は5月下旬に深さ約15cmまで浸透

 朝日新聞2011年8月14日34面によれば、郡山市の水田の土壌で東京大と福島県農業総合センターの研究者が調べた結果、放射性セシウムの一部は5月下旬に深さ約15cmまで浸透していたとのこと。

 
  「 5月下旬に調べた。放射性セシウム134と137の88%は深さ3センチまで、96%は同5センチまでにとどまっていたが、深さ15センチでもごく微量が検出された。

 またセシウムが溶けた水が深いところに移動する速度は水の千分の1程度と考えられていたが、実際には10分の1程度と、予想より速いこともわかった。調査を担当した東京大の塩沢昌教授(農地環境工学)は「土壌などの撤去は、放射性物質が表面にあるうちに早くやる必要がある」と話す。」
http://www.asahi.com/national/update/0812/TKY201108120641.html