第49回日本近代文学館 夏の文学教室 文学・「土地」の力
2012年7月30日~8月4日 有楽町よみうりホール
主催:公益財団法人 日本近代文学館(後援:読売新聞社、協力:小学館)
所のない文学 8月4日(土)Ⅲ時間目 古井由吉
文学には、時間と空間が存在する。土地のない文学はどうか? 土地を失ったら文学は成り立つか?
土地を失った…そこに文学の原点がある。かつての土地が区画整理されてしまう。これは土地の運命でもある。ほんの少し書くだけで空間が目に浮かぶ。プラハでの大改造(20世紀初頭)があったが、土地を失った人間が昔のプラハの幻影の中で暮らしている気がする。
森鴎外の末裔と話をしたことがあるが、鴎外の新聞連載により記者が古文書や系図といった資料を持ってくるのだと言っていた。
トポスはギリシャ語で場所・位置・立所のことだが、土地であり空間という意味もある。
江戸時代から続いたトポスが大正5、6年につきかけた。
永井荷風は、いろいろな所で焼け出された。自分が空襲を受けた日記を強い文章で書いている。場所・空間・所を読み取ることができる。「所(トポス)」に関しては、荷風の認めなければならないところだ。知らぬ者が読んでも(その空間が)鮮やかに浮かんでくる……。
徳田秋声の小説も、その場所が目に浮かぶほど上手い。声や音によって居住空間を巧みに書いている。土地のことをことさら書かなくても、におい・音響をなすことができ、そんなことは、われわれにはできないと思う。
太宰治の『人間失格』は、戦前の話なのに何度読み返しても途中から敗戦直後の風景に思えてしまう。
マンションとは部屋なのか?家なのか? アパートというのもある。建物は濡れた場所と乾いた場所がフラットでつながっている。マンションには、地面と切り離されていて、
地面による湿気が感じられない。
畳のにおいがあり、土管は詰り、厠は汲み取りのにおい立ちがある。ここには、うらやましいような色っぽさがある。インドは、重たくて芳しい、そして色っぽい。きたない・くさい。実はこういうものが、かつて日本の文学を満たしていた。
土地とはにおいではないか? もののにおい、もののあわれ、これが土地のにおい。
われわれ現代人の書く小説は人工的な手続きが多すぎる。例としてカフカの『変身』をあげる。この小説は幻想的で鮮明なので人工的とされており風景描写が少ないと言われている。しかし、ここには、におうように浮かんでくるものがある。
どこの土地だか知らないが、「ああ、土地があるんだな」と感じることのできる文学のことを思う。私は昭和12年生まれであり、戦争を経験しているので3月11日より3月10日のほうに重大な記憶がある。
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今年の夏の文学教室最終日は磯憲一郎・高橋源一郎・古井由吉といった豪華な講師陣で、招待券をタイミングよく手に入れることができ、思い出深い夏となりました。
Ⅲ時間目の古井由吉氏の授業は、その前の2作家の話と比べると聞き取りづらく、何となく、こんなお話でした……という報告で申しわけないのですが、せっかくですのでその日の授業の記録としても簡単に残しておいたほうがよいと考えました。
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