松田洋子のアトリエ絵リアル

松田洋子(マツダヨウコ)の絵画創作活動軌跡 ~ときどきポエムも登場します~☆⇒「麻生洋乃のライティング詩リアル」で検索

遅まきながら、夏の文学教室最終日Ⅲ時間目の報告

2012-12-11 23:20:13 | 文学

        第49回日本近代文学館 夏の文学教室 文学・「土地」の力
                2012年7月30日~8月4日 有楽町よみうりホール
       主催:公益財団法人 日本近代文学館(後援:読売新聞社、協力:小学館)

所のない文学                  8月4日(土)Ⅲ時間目 古井由吉

 文学には、時間と空間が存在する。土地のない文学はどうか? 土地を失ったら文学は成り立つか?
 土地を失った…そこに文学の原点がある。かつての土地が区画整理されてしまう。これは土地の運命でもある。ほんの少し書くだけで空間が目に浮かぶ。プラハでの大改造(20世紀初頭)があったが、土地を失った人間が昔のプラハの幻影の中で暮らしている気がする。
 森鴎外の末裔と話をしたことがあるが、鴎外の新聞連載により記者が古文書や系図といった資料を持ってくるのだと言っていた。
 トポスはギリシャ語で場所・位置・立所のことだが、土地であり空間という意味もある。
江戸時代から続いたトポスが大正5、6年につきかけた。
 永井荷風は、いろいろな所で焼け出された。自分が空襲を受けた日記を強い文章で書いている。場所・空間・所を読み取ることができる。「所(トポス)」に関しては、荷風の認めなければならないところだ。知らぬ者が読んでも(その空間が)鮮やかに浮かんでくる……。
 徳田秋声の小説も、その場所が目に浮かぶほど上手い。声や音によって居住空間を巧みに書いている。土地のことをことさら書かなくても、におい・音響をなすことができ、そんなことは、われわれにはできないと思う。
 太宰治の『人間失格』は、戦前の話なのに何度読み返しても途中から敗戦直後の風景に思えてしまう。
 マンションとは部屋なのか?家なのか? アパートというのもある。建物は濡れた場所と乾いた場所がフラットでつながっている。マンションには、地面と切り離されていて、
地面による湿気が感じられない。
 畳のにおいがあり、土管は詰り、厠は汲み取りのにおい立ちがある。ここには、うらやましいような色っぽさがある。インドは、重たくて芳しい、そして色っぽい。きたない・くさい。実はこういうものが、かつて日本の文学を満たしていた。
 土地とはにおいではないか? もののにおい、もののあわれ、これが土地のにおい。
 われわれ現代人の書く小説は人工的な手続きが多すぎる。例としてカフカの『変身』をあげる。この小説は幻想的で鮮明なので人工的とされており風景描写が少ないと言われている。しかし、ここには、におうように浮かんでくるものがある。
 どこの土地だか知らないが、「ああ、土地があるんだな」と感じることのできる文学のことを思う。私は昭和12年生まれであり、戦争を経験しているので3月11日より3月10日のほうに重大な記憶がある。

★ ★ ★

 今年の夏の文学教室最終日は磯憲一郎・高橋源一郎・古井由吉といった豪華な講師陣で、招待券をタイミングよく手に入れることができ、思い出深い夏となりました。
 Ⅲ時間目の古井由吉氏の授業は、その前の2作家の話と比べると聞き取りづらく、何となく、こんなお話でした……という報告で申しわけないのですが、せっかくですのでその日の授業の記録としても簡単に残しておいたほうがよいと考えました。


第49回日本近代文学館夏の文学教室2012年8月4日Ⅱ時間目 高橋源一郎

2012-09-17 09:32:34 | 文学

             第49回日本近代文学館 夏の文学教室 文学・「土地」の力
                2012年7月30日~8月4日 有楽町よみうりホール
       主催:公益財団法人 日本近代文学館(後援:読売新聞社、協力:小学館)

「根無し草」であること          8月4日(土)Ⅱ時間目 高橋源一郎 

 高橋源一郎の講義は、去年の10月に山口県の小島祝島に行ったときの経験を中心にして、2011年3・11以降の日本という国を考えるといった内容で語られました。


★   ★   ★


 今まで40回も引越しをしている自分の中には、ふるさとに属することはないと思う。
 自分のルーツから離れたところで小説のルーツができている。ある意味では根無し草である。


 祝島は瀬戸内海にある小島であるが、30年前に原発反対運動が起こり、今でも続いている。平均年齢は70歳を超える人たちであり、当時は2000人の住民がいたが、今では425人、毎年25人減っているという計算になり、過疎状態にある。


 祝島に行くために宿をとろうと電話をしたときに、たった一人の宿主は病気で寝ていると言う。何も世話ができないが、それでよいなら来てもよいと言ったので、寝るところさえあればと思い、仲間と行った。いざ島に着き、宿へ行くと宿主は寝ていた。しかし、少しすると、隣の人が3人勝手に宿に上がりこんできて、魚も3匹持ってきており、われわれのために夜ご飯を作り始めた。これには最初はびっくりしたものだった。


 漁業が主なため、30年前から続けていた原発反対運動は30年かかって史上初の住民運動として勝利した。あるとき知らないうちに、中国電力側から祝島漁協の口座に大金10億円が振り込まれた。福島の原発の問題は未だに解決されないわけで、そこには当然大金が必要である。祝島の人たちはそれ(金)を拒否した。祝島の人たちはなぜ金を必要としなかったか? 店はなく、すべて自給自足の生活をしている人たちである。かれらは楽しむ術を知っている。ビワやミカン、米などを1人の老人が棚田で1人で作っている生活。その人が亡くなったら原野に戻るのだろうか? 個人にとって土地とは何だろうかという疑問が生まれる。本拠地とは? ルーツとは? 


 都会では失われた共同体というものがそこにはあった。老後の不安などはない。隣同士の当たり前の協力があり、70歳以上の高齢の単身者が多いので、みんな、今だれがどれだけ具合が悪いのかを知っているのだった。高齢だが自給自足のために元気に働き、休憩時間には茶のみ話で楽しみ、夜はみんなで集まり楽しく過ごす。1人で作物を作るというのは老人にとっては厳しい労働であるが、それが逆に体を鍛えることになっているのだろうか。そして、だれに言われるでもなく、当たり前のように人の世話をするのである。


 祝島のホームページがあるので、祝島は孤立しているわけではなく、情報は共有されている。纐纈(はなぶさ)あや監督の映画「祝(ほうり)の島」は原発建設に長年反対している島民や漁師達の闘いを、二年間に亘りじっくりと信念を持って撮影し続けた作品である。この中に出てくるシーンは感動的。


 若者はみんな島から出て行った。例外なく。しかし休暇にはこの島の人口が増える。普段は400人そこそこの老人だけの人口。都会から若い人たちが戻る現象が起きている。若者の中には、都会に住むことの意味がわからなくなり戻ってくるというような、魅力的な島になりつつある。都市でも高齢化は同じだ。この国全体が根無し草になりつつある中で、外から子連れの若い人が移り住むようにもなった。


 祝島は一つの家族のようにやさしい雰囲気に包まれている。今、自分の中に自分で掲げたこわばりを捨て、具体的な固有名詞をもった場所を持ってもよいと思っている。


 この国の近代文学は、土地への呪縛から逃れることできたが、この100年の間に成し遂げられてきたと思う。自分は言葉・小説をルーツにして生きて行けると思ってきたが、その確信が揺らぐシーンがあり、祝島で胸の痛みのようなものを感じた。

 3・11以降、日本の国はどうなっちゃっているのか? 自らの手で切り離してしまったルーツだが、祝島のそのあり様はみんなのふるさとの原型のように思う。そこに新しい力のようなものがあるのではと、祝島に行った。みんな陽気だ。原発反対デモ30年。平均74歳の中で、自分は下から3番目に若いという元過激派という人。昔は60分間のデモだった。今は25分のデモ。雨や風や不幸があるときは休む。それが、デモが続いている理由だ。


 大いなる日常の中にすべてを溶かし込んでいる。かれらは2ヶ月に一度、中国電力本拠地へフェリーで出かけてゆく。


 ★   ★   ★

 以上が、高橋源一郎さんの授業の内容です。たまたま、私も参加している同人誌「地軸」31号(今年6月発行)に同人の一人が書いた作品「映画『祝の島』から」も読んだ後だったので、この講義は興味深く聴くことができました。補足として「原発反対」に関する「ストップ 上関原発」のページの文を転載しておきます。


 (以下転載)
●みんなの力で中国電力の「上関原発建設計画」を白紙撤回させよう!
●原発建設予定地・田ノ浦は祝島の対岸わずか4kmという距離にある。
●瀬戸内海で一番きれいな海域に、中国電力は、無駄な電力を作り、大量の温排水により地球温暖化を促進し、核のゴミを吐き出す原発を建設しようとしています。
 誰も責任を取らない「国策」という名のもとに、そして地域振興という税金バラ撒き政策をエサにして、環境を破壊し、地域社会を破壊し、税金を無駄に使い、子々孫々まで放射能汚染の危険性という恐怖を残す。そんな原発建設を私達は決して許しません。みんなで力を合せて、国と中国電力の魔の手から、この豊かな海とすばらしい自然環境を守り、上関町におだやかな安らぎを取り戻しましょう。


小泉八雲、かじりだしました!

2012-08-09 10:05:34 | 文学

先日、このブログでご紹介した「日本の面影」を観劇してから、小泉八雲の心を知りたいと思うようになり、図書館で本を探しました。

開架棚には見つからず、検索機で検索してみると、書庫に「怪談・骨董 他」平井呈一訳があることがわかりました。さっそく、図書館員に出してもらい、貸し出しを受け、外出のときの移動中に車内で読み始めました。これは、全訳小泉八雲作品集第10巻(恒文社)です。

まだ、四分の一ほどしか読んでいませんが、いろいろな発見があり、猛暑の中の納涼にもなるなと、じつに楽しく読んでいます。

読み終わりましたら、ぜひ感想を載せたいと思います。

たまたまですが、先日の「夏の文学教室」(磯崎憲一郎)の「小説を駆動する力」という講座(このブログで紹介済)に参加して、夢についての話も聞いたので関心が高まりました。

小泉八雲は、日本に来る前から怪談のような話は書いていたといいます。おそらくそれは、「夢」にも関連したきっかけからきていると思われます。そうすると、文学教室の今年のテーマ「土地」にも係っており、たいへん興味深い夏を、わたし自身が体験しているという気がします。

また、これらの文学的なことが、わたしの挑んでいる美術的なことへ自然と影響し、自分の作品が新たな境地へ向かう可能性も秘めているともいえます。
 

 小泉八雲(1889年頃)
 

●誕生
 パトリック・ラフカディオ・ハーン
 1850年6月27日
 ギリシャ王国、レフカダ島
 

●死没
 1904年9月26日(満54歳没)
 東京都新宿区西大久保
 

●墓地
 雑司ヶ谷霊園
 

●職業
 小説家
 随筆家
 民俗学者ほか
 

●国籍
 日本
 

●活動期間
 1894年 - 1904年
 

●代表作
 『骨董』
 『怪談』
 

●配偶者
 マティ・フォリー(1875年 - 1877年)
 小泉セツ(1891年 - 1904年)
 

●子供
 小泉一雄(長男)
 稲垣巌(次男)
 小泉清(三男)
 

●親族
 小泉凡(曾孫)

 


日本近代文学館 夏の文学教室(8月4日)Ⅰ時間目:磯憲一郎

2012-08-07 14:35:06 | 文学

8月4日(土)、第49回日本近代文学館夏の文学教室(最終日)を受講しました。

6月から気にしていた講座です。購入せぬまま時が経ってしまいましたが、ラッキーなことに、8月4日の招待券(当日券2000円相当)が手に入りました。

この日はⅠ時間目:磯憲一郎、Ⅱ時間目は高橋源一郎、Ⅲ時間目は古井由吉でした。

今年のテーマは『文学・「土地」の力』です。

Ⅰ時間目のご紹介をします。

<磯憲一郎> ~小説を駆動する力~


 磯氏は、この教室の主催者側から「夢の話」を依頼されたといいます。
 そこで、「夢」は「土地」なのか? とご本人もはてなと思いながら、土地の話より夢の話を中心に、テーマに近づくという展開になりました。

★ ★ ★

 夢というのは、その内容の中で、どんな荒唐無稽なことでも受け入れている。そしてリアルで具体的である。ということは、夢は小説の原形であり、 起源ではないかと思われる。
 小説は、書かれた一行を受け継いで次の一行にいく。一行の次に来る一行が、その前の一行が推進力になってできていく。小説ならではの現象といえ る。これは夢の中で自分がとらわれている力と同等なのではないか。予期しない現象をいかに起こしていくか? これは芸術のテーマでもある。

 カフカの「変身」(新潮社カフカ全集第1巻:川村二郎訳)を見てみよう。朝、グレーゴル・ザムザは自分が虫になっていることに気がつき、そのま ま自分が虫であることを受け入れてしま う。にもかかわらず、自分が選んでしまった仕事(生地のセールス)のグチを並べ立てる。寝過ごした自分が虫なのに、それでも出勤するためにまだで きていない仕事の準備を気にしたり、遅刻した自分が社長に叱られる覚悟をし、電車に乗ろうと考えている。そして、なかなか起きてこないグレーゴル を心配した家族は、ドアの外でグレーゴルがドアを開けようとがんばっている行動を励ます。
 (翻訳本で訳者が複数いる場合、その訳者が自分に合っているかというのも大事)

 こう見てみると「変身」は、必ずしも暗いテーマではなく、むしろ面白い明るい小説なのではないか。これは、毒虫になったことを主人公が受け入れ て、前に進もうとする話。一行が推進力になり、次の一行に進む。ここに小説の世界を広げるための強さがあるのではないか。(タモリがよく、「…… なわきゃないだろう!」というが、大げさなことやありえないことに対して、次の段階で受け入れるところに強さがあり、世界が広がる)

★ ★ ★

 次に、ボルヘスの「南部」(集英社世界の文学:篠田一士訳)。これは短編で、全文のコピーが資料として配布されました。

「南部」のあらすじ~(以下)
  アルゼンチンの町中に住むフワン・ダールマンという市立図書館員が、アパートの階段で誰かが閉め忘れた扉の縁が原因で額に傷を負う。夜明けに 眠りから覚めるとすべてのものの風味が失せ、高熱が彼を襲う。彼は病院に運ばれ、敗血症の手術を受ける。幸い病状は回復し、まもなく予後のために 彼が所有する南部の農場に行くこととなる。しかし、乗った列車の車掌はなぜか正規の駅ではなく途中の見知らぬ停車場で彼を降すこととなると告げ る。彼は降りた駅で馬車を待つ間、ある店で食事をする。店主は病院の看護人とそっくりだ。なぜかダールマンの名前まで知っている。その店で彼は思 いもかけない展開で一人のよた者に決闘を挑まれる。
           
 店主が震える声で、ダールマンは武器を持っていない、といって反対した。このとき、思いがけないことが起こった。ダールマンが南部 ― 彼の南 部 ― の権化だと思った、恍惚とした老ガウチョが、隅から抜き身の匕首を足許に投げてよこしたのだ。ダールマンは匕首を拾う。

 「出かけようぜ」と相手が言った。彼らは外へ出た。ダールマンには希望がなかったとしても恐怖もなかった。ナイフの闘いで死ぬことは、敷居をま たぐとき、病院で針を指された最初の夜だったら、かれにとっては救い、喜び、祝祭になっただろうに、と彼は感じた。あのとき、もし自分が死を選ぶ か夢みることができたら、これこそ自分が選び夢みた死だっただろうにと思った。ダールマンはどう扱っていいかわからぬ匕首を握りしめながら、平原 へ出ていった。


 以上があらすじだが、ラストへなだれ込むこのスピード感を見ると、ここは強引で圧倒的な力に満ち満ちた場所といえる。
           
 はたしてこの思いがけない展開で決闘に赴く瞬間は、南部に向かう途中の病み上がりのダールマンに起こった現実の出来事なのか? 病院で高熱にう なされる中でのダールマンの見た夢だったのかもしれないという見方もできる。

 主人公のダールマンは、ボルヘス自身ともいえる。

 ボルヘスは自分の作品に非常に厳しい人だった。そして「南部」は読み応えのある作品。ここでは、小説の力がはたらいており、原理的にもつ小説を 駆動する力の起源は「夢」にあるのではないかと考える。

 芸術を考える上で掘り下げられるもの。それは「夢」に内在する力であり、それは芸術に内在する力でもあるのではないか。小説の本質に近づくもの ともいえる。


★  ★  ★
 

 以上が、第Ⅰ時間目の大体の内容です。       
             
 ボルヘスの母方の家系も南アメリカの独立運動で勇名をはせた軍人を輩出した家系であり、市立図書館の事務員で『千夜一夜物語』を手放さないナ イーブで繊細なダールマンの南部への想いは、ボルヘスその人を象徴しているのかもしれません。
           
 ダールマンが向かおうとした南部の農場は、彼が信奉するインディオの槍に刺されて死んだ軍人だった母方の祖父の家を買い戻したものだ、という設 定がされています。
「南部」という濃密な時間と空間をもつ土地に帰し、しかしダールマンは永久にその、一度目指した土地には戻れないという予感が、わたしの中に大き く広がりましたが、ラスト描写は確かに衝撃的で強引、「南部」という土地のもつ力により、これも「変身」と同様、不幸な物語ではなく、むしろダー ルマンは幸福の中でこの物語と共に終わった気がします。

● 「変身」を読まれた方は多いと思いますが、これも訳を比べて読んでみると、行間から伝わるものが微妙に違ってくる面白さを味わうことができそうです。

● 「南部」は、すぐに読める短編です。出版社・訳者もいくつか出ています。ただし、文学全集の中の作品が手に入りやすいと思います。未読の方にはぜひお薦めしたい作品です。誰でも夢を見ることでしょう。「夢」ということを考えると、誰でもが入ってゆけそうな世界だと思います。