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悠翠徒然

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愛用して何十年にもなる『KURE』CRCシリーズ

2016-06-07 18:13:27 | Weblog
556も大好物(笑)ですが、グリースメイトも大好物です!



お世話になって半世紀ぐらいかな。

昔は細いノズルが付いていなかったのですが、キャップにアタッチメントとしてつくようになってかとても便利!



私はこのノズル付けた状態でいつも使ってます。

ところが、アタッチメントノズルをつけたままだとキャップができません。

キャップの横に穴が空いていないからです。



キャップを載せるとこんな感じに



そりゃそうですな(笑)

穴を開けてくれたらそれはそれで嬉しいのですが、細いノズルが飛び出ているので、危険であります。

そこを呉工業は考えてくれているのでしょう。

がしかし!

なんとかしていただきたい!

キャップに穴を開け、飛び出たノズルのボディ側が蛇腹で90度下に向けられるようになれば安全に片付けられると思うのです。

使った人が曲げなければ危険ではありますが、今現在外さない人もいますからね。

PL法で訴えられてしまう可能性があるのかな?

なんとかしてください~呉工業っ!






子規の句を

2016-06-07 16:42:36 | Weblog
書いてみました



『みじか夜の と(登)もし(志)火の(能)こる 御堂か(可)な(那)』


散らしをかえて書いてみました



変体仮名を変えずに散らしだけなのだ変えたので、すこし無理があります。

『夜』と『志』がほぼ並んでしまったのですが、あまりにもベクトルが違いすぎてあざとくなったかもしれません。

『火』と『志』はなんだか似てしまったかも、、、

諸々ブラッシュアップして書いてみました。



本人的には大きく変えたつもりなのですが、客観的に見れば、少し元気が出たんじゃない?程度で、変わったようには見えないかも(笑)

まあ、そんなものです。

後日、再チャレンジですね。




疑問です

2016-06-07 10:28:56 | Weblog
シルクの中国服を着て書を書くと、筆頭スムーズに動くってどういうことなんだ?

しかも袖に墨がついていたから、実際に書で使っていたと見て、不適切ではなかったとする結論には、やっぱり『?』

手首の部分を引きづりながら書いているのでしょうか?

かなを書いた時?

落款書いた時?

普通なら、袖が汚れる危険性があれば、上級者なら筆を持つ部分を上にあげたり、中級者なら袖が触れないような服装をするでしょう。

初心者なら腕まくりするかな。

袖が汚れることより、作品が台無しになることを嫌うとおもいます。

いろんな書法があるので、断定するのは危険ですが、シルクの中国服二着を経費で落とし、それを着て書をする段階でアウト!

税金を使って書に向き合おうとする精神がアウト!

この!腐れ外道が!!!



あ、下品な表現でした。

反省、、、、

深く、反省、、、

舛添都知事には一民間人に戻って、出直していただきたい。

そうであれば、どんな服装で書道をしてくださっても、誰も文句は言いませんから。

もう、『腐れナンチャラ』なんて言いません、、、

書道を志していたのなら、潔さはわかっているはず。

彼は、都知事の代わりはいくらでもいることを知るべきでしょうね。

嗚呼、恥ずかしい、、、、









もっと少ないと思っていましたが

2016-06-07 09:45:41 | Weblog
意外に歩いていたことにビックリ!

昨日は6000歩ほどカウントされていました。

2、3千歩ぐらいかなと思っていたのですが、中々良い数字~っ!

塾生さんに教えてもらった万歩計アプリがいい感じです。

スマホをケツポケに入れていないと積算されていかないので、自宅内や事務所内の歩数は計測されませんが、やっぱり歩いている実感は外を歩いていてこそですからこれで良いとおもいます。

今日はあまり歩く予定が無いので、なんとか予定作りたいとおもいます。

本屋に行ったり、、、、、

それぐらいしかなさそうです。

とほほ、、


本日の一文字

2016-06-07 07:04:44 | Weblog
本日も褚遂良の文字を臨書しました



『禪』

『禅』の旧字体です。

『禪』は天子が天を祀るという意味であり、その特権をゆずる事を『禅譲』と言います。

今では、総理大臣や社長の地位をゆずる時に『禅譲』とつかうようになりました。

確かに時々耳にする言葉です。

人名で『禅』と書いて『ゆずる』と読むのは、『禅』の意味が『禅宗』の『禅』だけではないからです。

『単』の音読みは『タン』だけではなく『ゼン』とも音読みします。

『示』という『神』に発音記号として『単』をつけて『ゼン』と読ませることが真なのか、神を祀ることのできる唯一の存在として『単』をつけることが真としたのかはわかりませんが、インドから仏教徒である達磨が中国に禅を伝え、それを『禅』という漢字を当てはめたのは、何か深いものを感じます。

禅の元を探してみると、遡ること5000年ほどまえの、ヨガの修行に行き着くそうです。

1世紀ごろ成立されたとされるヒンズー教のある経典に、その方法が記されているとのことです。

そこに書かれていることは、現代日本の書道と重なる点が多いように感じます。

『実修者は人里離れた場所にあって、ただひとり心身を抑制し、期待を抱かず、所有物を捨て、常に自己を修練すべきである』

人里離れたところにいなくても、集中すれば心はそのような場所に居られるようになるでしょうから、都会でも修行はできるとおもいます。

『浄らかな場所で、自分のために、クシャ草、鹿皮、布を順次に敷き重ねた、 高くも低くもない、しっかりした座をしつらえ、その座に坐って、 意を一点に集中し、心と感覚器官の働きを抑制し、 自己(個我)を清浄にするために、実修を行え』

あまり厚くない、できれば薄い座布団が思い浮かびます。

『身体、頭、首を真っ直ぐに、不動に保ち、自分の鼻の先端を凝視して、 他の方角に眼をやらず、心を安らかにし、恐怖心を去り、梵行(禁欲)の戒を守り、意を抑制し、わたしを思念し、わたしに専念して、 実修を修めて坐らねばならない。
このように、絶えず自己(心)の実修を行い、意を統御する実修者は涅槃を極致として、 わたしの中にある寂静に到達する』

書道の場合、その姿勢をとりながら、鼻先ではなく筆先を両目で捉えるわけです。

でも筆先だけでなく、これから書こうとする紙全体を俯瞰で見ておくことも必要です。

ここは目で見るというより、感覚で掴むといったほうが近いかもしれません。

しかし後半の文章は中々厳しい感じですね、、、。

2500年ほど前に仏陀が悟った仏教の基礎的修道論(戒、定、慧)の三つのうちの『定』(禅定)とされているようです。

仏教では古くから禅の修行をしてきたのですね。

唐時代に中国で大成した禅ですが、現在の中国ではすでに滅亡していて、日本にあるだけなのだそうです。

仏陀の教えは、瞑想による心の安らぎと、道を楽しむ生活にあったとされます。

厳しい修行を積み上げた者にだけ与えられる境地とは違う、普通の誰もが得られる方法を見つけて伝え歩いたのではないでしょうか。

そこがそれまでインドで古くからあった、ヨガの修行とは違ったところだったのかもしれませんね。

すこし長くなりすぎました(笑)

禅についての解釈や、書道との関わり合いなど、色々な意見や主張があるとおもいます。

私は書道を通して、心の安らぎが得られると感じています。

そしてそれが道を求めることであるのなら、道を楽しんでいることになります。

書が瞑想に近いものであり、道を求めることであり、それを楽しんでいるとすれば、それは仏陀の教えに近いように思うのです。

さあ!

今日も一日楽しんでまいりましょう!