欧陽詢の『感』を臨書してみました。
そして欧陽詢と『感』をリスペクトして、書いてみたのがらこちら。
どっしり感がなくなりましたが、軽快感が出ました。
上級者の方に『私ならこう書くシリーズ』を、時々お稽古していただいています。
その目的は、まず先人の書いた書体を臨書して学んだ後、その特徴と自分が書きたい書体とを融合させて、それまで自分でも書いてこなかった書体を創り出していただきたいところにあります。
書きたい漢詩や漢文を探し、字書で書きたい字を検字する。
検字したらそれをコピーして並べる。
これが集字。
集字したらそれをお手本にして臨書(形臨、意臨)してみる。
臨書はその後、背臨へと続きます。
その背臨の先にあるのが、この『私ならこう書くシリーズ』なのです。
それは創作への第一歩であります。
『私ならこう書くシリーズ』は、偉大な先人と対決することです。
大抵は負かされてしまいます(笑)
だって相手は書聖だったり、唐の四大家だったり、三筆だったり、三蹟だったりするのですからね、、、、、
偉大な先人の胸を借りて、投げ飛ばされても、ギブアップしても、『もう一丁!』『もう一丁!』
果敢にチャレンジすることが肝心です。
諦めてはいけません。
書は先人の残してくれた墨跡や書簡、作品などを真似る臨書がとても重要です。
ここに時間をかけることで、道が求められるからです。
そして臨書の先には『オリジナリティの創造』と言う、芸術の究極の目標があります。
道を求めながら稽古を積んでいけば、山の頂上に何かがあるはずです。
先人たちがいろんなルートで登り極めたその行為を、それぞれのルートで登っていけば良いのです。
登ってきた道程を、途中で振り返った時、うねうねとくねった、でもしっかりとした道が出来ていることを知るでしょう。
そしてその道を拠り所に、林間学校のハイキングのように、ワイワイと楽しそうに後に続く者たちが登ってくる姿を見つけることができるはずです。
さて、たどり着いた頂上には何があるのでしょうか?
偉大な先人と同じ場所に立てた喜びでしょうか?
それとも何も無いのかも、、、、
見下ろせば、雲海ははるか下にあり、そこからは雷鳴も聞こえてくるでしょう。
遠くを望めば、高い山々や海を見ることもできるはずです。
でもそれが求めていたものなのでしょうか?
『道』は求める者にだけ存在し、求めた時に現れるものでしょう。
『道を求めた時が頂上』
私はそう思います。
つまり、お教場にいる人の数だけ頂上があることになります。
それぞれが和翠塾のお教場にいるのに、それぞれが富士山の頂上にいることになるのです。
わかったような、わからないような(笑)
『道』はそんなものだと私は思っています。