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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

二つの契約 36

2013年04月16日 | 日記

 

 

Chapter 2 目覚める人々

    なぜ善を行えないのか?

「私は本当に神様のみ言葉通りに生きたいのです。しかし弱くて、たびたび世の誘惑に陥ってしまって、罪を犯してしまします。いくら決心しても、この罪から逃れることができません。私の信仰のどこが問題なのでしょうか?」

 

「私は、クリスチャン家庭の信仰的な雰囲気の中で生きていながら、本当に善良な生き方ができていません。そのため信仰生活が苦しいです」

 

「私は罪責感で胸が押しつぶされそうでした。そのような時、神様の赦しの福音は、私を3年ほど幸せにしました。これで私は、自分の問題がすべて解決されたと思いましたが、ねたみや情欲や憎しみ、怒りなどが相変わらず起きてきて、罪の問題がすべて解決されたのではないということが分かりました。私はこんな二重人格の自分が大嫌いです」

 

すべての人は、エゴイストとしての性質をもって生まれてくる。私たちは、受け継いだこの罪の性質では、神様のみ言葉に服従する生活を送ることができない。生まれつきの肉に属している人は、霊のことを実行することができないのである。新たに生まれ変わる経験がなくては、善を行おうとする意志はあっても、善を行うことはできない。

   少年時代の思い出 9 (デビット・カン講演36)

その時私は、自分が全く変えられたように感じました。その時このように感じたのです。「どうして自分はこんな素晴らしいお母さんを、これ以上悲しませることができるだろうか。そんなことは間違っている。もう二度と再び、彼女を悲しませたり、傷つけたりすることはできない」と思いました。その時以来、私は戦争ごっこが大嫌いになりました。そして、母親に従うことを、心から喜ぶようになりました。彼女は愛を通して、新しい律法を私の内に書きつけてくれたのです。それが私にとって新しい契約の経験でありました。

「息子よ、お前は戦争ごっこをしてはならない」 これも愛のゆえだったんですね。私はその時、喜んで「あのゲームは二度としません」と言いました。これが新しい契約の経験でした。それ以来私は、二度とあのゲームはしなくなりました。

 

 


二つの契約 35

2013年04月15日 | 日記


≪ひまわりさん出張中のため、しばらく日記はお休みさせていただきます。その代わりに、デビット・カン先生の新著 「もう、罪を犯してはいけない」を紹介させていただきます≫


狭い門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。

そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(マタイによる福音書7章13,14節)

      

 Chapter1     あなたは本物のクリスチャンなのか?

にせ物クリスチャンの横行

クリスチャンの生涯は、サタンと罪に対する戦いの連続である。今私たちは、暗闇と死で満たされた、サタンの支配する堕落した世の中に生きている。だから、クリスチャンとしてこの世を生きるためには、本当にたくさんの犠牲が必要だ。

世の中の楽しみを味わいながら、天のみ国にも行こうというような心で生きているクリスチャンは、滅亡の道を歩いているのだ。救いを得る道には中間がない。私たちが受け継いだ聖書の真理は、血が流れるものなのだ。過去、どれだけ多くの人々が、自分の生命を犠牲にして、信仰と真理を堅く守ってきたことか!

 

次のテストに答えてみよう

○他人が褒められるのをみると嫉妬の念が起きる。

○他人に対する批判や陰口で満たされている。

○会話の主題が金儲けのことである。

○事業の成功が最大の関心事である。

○職場で他人の上に立つ機会を虎視眈々とねらっている。

○利益のためなら平気で嘘をつくことがある。

○自分の立場を守るために嘘をついても良心の呵責がない。

○働く動機は、いい家に住み、いい車に乗り、いい生活をするためである。

○関心はショッピングやドラマ、流行やフアッションのことである。

○子供を一流大学に行かせることに懸命になっている。

○子供を大声を出して叱っている。

○夫によく愚痴をこぼしている。

○人のうわさ話が好きである。

○他人のちょっとした言葉ですぐ傷ついてしまう。

○人が認め、褒めてくれないとやる気が起きない。

○教会で奉仕する真の動機は、人に認められ褒めてもらうためである。

○他人にはキリストを信じなさいと言うが、家庭ではキリストの愛を実践していない。

○隣人や教会や職場で、生まれ変わったクリスチャンの姿を見せていない。

 

心を探って、上記の項目に当てはまるものがあったなら、あなたが、何十年教会に通い、奉仕し、役員をやっていたとしても、あなたは、神様の目にはにせ物のクリスチャンなのだ。

 

少年時代の思い出 8 (デビット・カン講演35)

父は私が一人息子だったので、厳しく育てていたのです。私を甘やかさないようにしていました。ところが、母は父に対して、今日起こったことを言わなかったのですね。「特別変わったことは起こりませんでしたよ」。そして家族全員でお祈りをして食事が始まったのです。私は食べ物を飲み込むことができなかったのです。食べようとしたんですけども飲み込むことができないんです。何かが出てきそうなんです。もう喉が詰まりまして、箸をテーブルに置いて、スプーンもテーブルに置いて、泣き出したのです。私はシクシク泣き始めました。「デビット、どうしたんだ」と父に聞かれました。「いいえ・・・別に・・・何も・・・」と答えました。

私がなぜ泣いたかご存知ですか。自分が石を当てた女性に対して、すまないと思っていたからではなく、もちろん、すまないと思いました。でもそれが泣いた理由ではありませんでした。もうそろそろ父親から罰を受ける、それが怖くて泣いたわけでもありません。母の愛に圧倒されて私は泣いてしまったのです。「どうして、そんなことができたのだろう。どうして、あんなふうに私を許してくれたんだろうか」。自分が間違ったことをしたのを知っていました。母との約束を守れなかったんですね。でもどういうわけか私の心の中で、あるものが変えられてしまったのです。


二つの契約 34

2013年04月11日 | 日記

    

   ひまわりさんより(4月11日)

今日読んだ『見よ神の小羊』の中で印象に残ったところをご紹介いたします。「私たちは、罪のない環境に生きるにふさわしい者か、救っても安全かどうかを調べられるのである。

もしそうでなければ、イエスはなぜ再臨を送らせておられるのだろう。もしも、十字架による罪の赦しだけで救いが得られるのだとしたら、神はなぜ、罪の存続を赦しておられるのだろう? 罪人が、罪の生活から離れるほどに悔い改めているか否かを、神は調査しなければならない。決意だけでは不十分である。信仰によって、罪人は罪への勝利を経験しなければならない。なぜなら、与えられたすべての光に全く服従することによって信仰は立証されるからである。・・・罪人が真に悔い改めたか否かは、どのように証明されるのだろう? 罪に勝利することによってである」(75,76p) カン先生の『主われらの義』の講演にも出てきましたが、「イエス様の動機と希望をお与えください」、と真剣に祈る時に、罪に勝利することができることを、少しづつ体験させられて、カン先生が言われることが真実であることを教えられています。

    少年時代の思い出 6

私は木の陰で、なおも震えながら隠れていました。ところが帰宅してから母は私のことを探さなかったんです。全然私を探しませんでした。私の名前も呼びませんでした。何も起こらなかったように、彼女は振る舞っていたんです。讃美歌をハミングで歌っていました。鼻歌を歌っていました。

私は心の中で思ったのですね。「お母さんはどうして私の名前を呼ばないんだと」。大声で私の名前を呼んで、どなりつけたらいいじゃないか、と私は思いました。私をたたいたらいいじゃないか。そしたら、もっと気分が安らぐのにと思いました。私は母が何事も起こらなかったからように振る舞っているので、もっともっと居心地が悪くなってきました。それから日が落ちて、夕方になってきました。母が私の隠れていた木のそばまでやってきまして、――その間ずっと私の隠れていいた場所を知っていたんですよ(笑い)。とても恥ずかしくなりました――ひと言だけ私に言いました。「息子よ、夕飯を食べる時間が来たよ」. それだけしか言わなかったんです。「食べましょう」と言いました。私は立ち上がりまして、もう、どうしていいかわかりませんでした。もう穴があったら入りたい気持ちでした。   

  尚、12日から14日までブログはお休みとなりますので、ご了承ください。15日から再開いたします。

 

 


二つの契約 33

2013年04月10日 | 日記

 

      ひまわりさんより(4月10日)            珍しい花。日本フラワー&ガーデンショウにて

『見よ、神の子羊』からご紹介いたします。 「私たちは信仰を通して救われ、行いによって裁かれる。が、神は、憐れみの神であられることを覚えよう。神は、滅びるべき者たちを探し出すためではなく、救いを受け入れる者たちを探し出すために、調査をなさるのである。『シオンは裁きをもってあがなわれ、彼女の改宗者らは義をもってあがなわれる』(イザヤ1:27 欽定訳)」 子供の頃は、調査審判というとすごく怖いイメージで、調査されたらもうだめだという思いでした。でも今は、救っていただくために調査してくださるのだし、神様には不可能はないと、信仰でとらえることができ始めたところです。

 

    少年時代の思い出 5 

皆さん、神様から走って逃げることがありますか。この場所にいるどなたでも、神様から逃げている方がいらっしゃるなら、申し上げたいのは、神様から逃げて、隠れる場所はどこにもありませんよ。今、イエス様のところに戻ってきてください。

私の家には、小さい庭があったんですけど、そこに木があって、その木の陰に隠れていました。何分かたったら、誰かが私の家にやってきました。母は台所で仕事をしていました。急いで玄関を開けたら、そこには額に白いハンカチを当てた女性が立っていたんです。そして彼女と一緒に、私の遊び仲間が全員そこにそろっていました。私の母に向かって、「おばさん、おばさん、デビットがやったんだよ」と言いました。なんという私の友達でしょう。その時、危機的状態が起こったら、友達というのは信用するに値しないということがわかりました。

母親は何が起こったかを悟ったわけですね。自分の息子の事をよく知ってるわけですから。救急箱から薬をとって応急処置をしてあげていました。しかし、それだけでは十分ではないということがわかって、その女性を病院に連れて行きました。5針縫うはめになったのです。それからお金を払い、家まで送り返してあげました。それから、家に戻ってきました。

 


新しい契約  32

2013年04月09日 | 日記

 

   ひまわりさんより(4月9日)         散歩の途中で見つけたヒマラヤゆきのした

『見よ、神の子羊』より引用させていただきます。「祭司は、厳粛な責任を担っていた。もし彼が、どのように神に近づき、どのように罪の赦しを受け、どのように純潔を回復するかを正しく教えていなかったとしたら、罪人は赦されてもいないのに、赦されたと思い込んで家に帰ることになる。ここに、罪の問題の誤った解決法を教える、新神学の危険が潜んでいる。偽りの教えは致命的であり、魂の損失を伴うのである」。私たち夫婦は20年間牧師として働いてきましたが、本当に人を赦し、人を新たに造り変える悔い改めを提供してきたのだろうかと思います。ユダや、エジプト王パロの悔い改めではなく、罪を憎んで罪から離れる悔い改め、2度と悔いることのない悔い改めをしなければならないと思いました。

 

     少年時代の思い出 4  

約束を破ってはいけないということを、私は知っていました。母との約束を破ることです。それが悪いことだと私は知っていました。でもどうしようもなかったのです。何が正しいことで、何が良くないことであるかを私は知っていましたが、私の精神的な、道徳的な力が弱まっていたのです。私は古い契約のもとにいたんです。

そしてこの遊びをみんなで一緒にしていました。遊んでいるうちに、敵が近づいてきました。手に小さい石を取って、敵に向かって投げました。風の強い日でした。風に乗って石が曲がってしまって、その側を通っていた女性の額に当たってしまったんです。彼女は叫んで地面に倒れてしまいました。その様子を見ていたんです。彼女の額から血がしたたり落ちてきました。「ああ、ごめんなさい。ごめんなさい」と言いました。「当てるつもりじゃなかったんです。どうぞ許してください」と言いました。私は11才でしたけれど、どうしていいかわかりませんでした。

そして私は逃げたんです。走って逃げていきました。逃げながら考えました。どこに逃げたらいいだろうか。どこに隠れたらいいだろうか。どこにも行く場所がなかったのです。そこで自分の家に帰ってきました。