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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

創造か、進化か?  第1回 バイブルナビ第22課

2016年10月16日 | 日記

創造か、進化か?

人間と宇宙のルーツを知る

序論:天の国、そこは本当に存在するのか?

 

宇宙、地球、人間、そして生物界はどのようにして始まったのでしょうか?それを説明する理論は、大きく進化論と創造論の二つに分けられます。創造論はこの世界を6日間で創造したという神様の言葉に沿った理論で、そのため地球上のすべてのものの年齢は、聖書の歴史にそって、とても若いことになります。進化論は、元素、生命体、人間、宇宙などが数十億年かけてゆっくりと自発的に、そして偶然に発展してきたという理論です。

 現在世界では、多くの人が創造論を否認し、進化論を受け入れています。その主な理由は、進化論が論理的、科学的であるのに対して、創造論は非論理的であると考えたためです。人々は、進化論は信じやすく、創造論は盲目的に受け入れない限り信じがたい理論だと考えています。それというのも、宇宙、物質、元素、人間などの起源を、神様の創造とみなすことは、実験室の中で扱えない神様の存在を仮想しなければならないからです。そうです!私たちは決して実験室で神様を検証したり、証明したりすることはできません。しかし、すでに創造された宇宙と自然界を通して、創造主である神様が存在されるという事実を確認できるのです。

 進化論者たちは、生命の誕生において、何らかのエネルギーや外的要因が介入する必要はないと主張しますが、これは非常に非論理的で、非科学的な話です。なぜなら、最近の全ての研究において、物質をそのまま放っておいた場合、物質自体が自ら組織し、生命体を作り出すことは絶対に起きないという結論を出したためです。空を飛んでいるジャンボジェット機を見て、あんなに大きくて複雑な機能と構造をした物体が、人や機械の助けなくして、ただ長い時間をかけて偶然に作られたと言うとしたら、それはどんなに非科学的で非論理的でしょうか?現代科学は、生命体が誕生するためには、必ず知的な外部の存在が、情報やエネルギーを物質の中に入れなければならないという事実に同意しています。ですから、このような面において、創造論はとても科学的な論理であると言えるのです。

 

聖書は神様の存在を立証するため、時間を浪費していません。創世記第1章1節から、神様がおられるということを既定の事実として認めた状態で、聖書の記録が始まります。「はじめに神は天と地とを創造された」。そして聖書は、神様がいないと思う者たちを愚か者と断定しています。「愚かな者は心のうちに“神はない”と言う」(詩 14:1)。

 

この宇宙の始まりと起源について真剣に考える者、真理を追究する者、自身の心を清く保ちたいと願う者は、この自然界に現れたいくつかの証拠だけで、神様の存在を心から信じることができるのです!そのため、聖書は「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」と宣言しています(ロマ 1:20)。神様は、目に見える自然界を通して、見えない神様の存在とそのご性質を私たちの前に現して下さいました。

 

神様が創られたこの宇宙や自然界を詳しく調べれば調べるほど、私たちは進化論者たちが到底反論することなどできない、数多くの創造の証拠を見つけることができるのです。このような理由で、ニュートン、ロード・ケルビン、コンプトンのような偉大な科学者、天文学者たちが、創造主である神様に対する明確な信仰を持ったのです。彼らは、この偉大な宇宙系を深く研究すればするほど、宇宙が驚くほど正確な計画と秩序をもって動いているという事実に気づき、その結果彼らはこの宇宙を創造された神様の存在を認めざるを得なかったのです。

 

1927年、35歳という若さでーベル物理学賞を受賞したA.H.コンプトン博士は、「私の創造主、神様に対する信仰は、崇高な知性を持った方が宇宙の存在を可能にし、また人間を創造されたということが分かったところから始まりました。このような結論を下すのはさほど難しいことではありません。なぜなら設計(Design)がある所では、必ず知性が介入しているという単純な原則を私たちは皆認めているからです。秩序があり、正確に運行している宇宙は「はじめに神は天と地とを創造された」という厳粛な記録が、真実であることを示している最も強力な証拠です」。

 

「なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである」(ローマ 1:19)という思想は、人間の本性とは何かを教えています。人が自分の直観を抑圧して、科学者の言葉を受け入れない限り、本性的に無神論者にはなれません。人々が進化論を信じた理由は、進化論に信憑性があるからではなく、進化論を信じないと神様を信じなければならないからなのです。進化論なのか神様なのか、この二つのうちのどちらかなのです。そこである進化論者たちは、自身の学問的自尊心が崩れることを恐れ、神様を拒絶します。またある人々は、自分の利己的で安楽な人生を諦めたくないために、神様を拒みます。神様を認めれば当然神様の御言葉である聖書に従わなければならないからです。

 

神様はこの地球の自然を驚くばかりに美しく創造し、自然界を通して神様の存在を現そうとされました。また、その神様がイエスという名前を持った人間の姿で人々の前に現れたことで、全人類が神様の存在とその愛を理解できるようにしてくださったのです。この地球に存在する全ての生物の中で、人間だけが知的、霊的な存在です。もし私たちが、私たちを創造してくださった神様を理解できる能力を与えられたのなら、私たちは神様の存在について理解することを願わなければなりません。また、理解するために努力しなければなりません。

 

「また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない」(使徒行伝17:26,27)。