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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

生ける神の印  デビット・カン講演36

2012年07月21日 | 日記


    ひまわりさんより(7月21日)

今日の安息日は、ちょうど夫の誕生日で、初めて、新しい集会室で礼拝を行いました。
午後から、以前の教会で午後預言の研究をしていたKさんと、二人の小学生の娘さんが来てくれました。
若い人たちも預言の研究に来てくれて、聖書の学びをじっくりとしていました。
その間私は、子供たちと近くの川辺へ散歩をしに行きました。
子供たちは、この川辺の散歩コースが気に入ったらしく、
「神様が造ってくださった自然の中を散歩することができるっていいね。
私はこういう安息日が大好き」と言っていました。
こういう風に、純粋に安息日をとらえてる子供たちに、いい環境を整えてあげたいと思いました。

   10人の乙女のたとえ(デビット・カン講演36)

マタイ25章で、10人の乙女たちが、花婿の到着を待っていましたね。
これは、大事なことですから、よく聞いてください。10人が待っていましたが、
5人が賢くて、5人は愚かな乙女でした。全員手に明かりを持っていました。手には同じものを持っていたんです。
この明りは何を表しているのでしょうか? 神様のみ言葉です。ランプは神様の言葉を表していたんです。
愚かな乙女も、賢い乙女も、全員神の言葉を手に持っていたんです。
その明りを用意してくれたのは誰でしょうか。自分で用意したんですか。
違います。これは、結婚式の時に、用意されたもので、結婚式の当事者が、彼らに手渡して、
花婿を迎えさせようとしたのです。セブンスデー・アドベンチストであれば、誰であれ、聖書を手に持っています。
バプテスマを受けています。安息日学校の教課を勉強します。教理を理解しています。
全員聖書を手に持っているわけです。賢い人も、愚かな人も。しかし、この召しがやってくるときに、
「花婿だ、花婿がやってきた」と言われるときに、その時、全員目を覚まします。
ところが、ランプの中に、油が入っていないんです。