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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

生ける神の印  デビット・カン講演22

2012年07月07日 | 日記




   ひまわりさんより(7月7日)

今日の安息日は、夫と二人で安息日学校の学び、礼拝を行いました。二人だけの礼拝でしたが、
賛美歌自動演奏機を使って、礼拝式通りに行いました。
礼拝のお話は、デビット・カン先生の「生ける神の印」をビデオで見ました。
このメッセージは、ちょうどこのあとの文章で紹介しているものです。
このメッセージの終わりの方に、10人の乙女のたとえ話が出てきます。
10人のうち、5人の愚かな乙女は、油を持っていなかったために、婚宴に間に合わなかったのですが、
その油とは、イエス様との体験の事で、体験は人に分け与えることができないのです。
私たちは、指導者や、他の人から教わった教えだけでは十分でなく、
自分で体験して身に着けたものが、終わりの日の危機の時に役に立つものだということが教えられました。
平和な今の時に、聖書のみ言葉を深く味わい、その素晴らしさを体験し、どんな困難が来ても、
神様につぶやいたり、不信をあらわすことがないようにしたいと思いました。

   安息日は救いのしるし(デビット・カン講演22)

なぜ終末において、安息日を守ることが神の印となるのか、わかっていないのです。
なぜ世のすべての人のテストとなるのか、安息日を守るということがわかっていないのです。
安息日を守るということは、外見上のしるしで、それは、内部の経験が外に現れたものです。
割礼のようなものですね。神様は、アブラハムの子孫に、割礼を受けるようにと指示されました。
割礼を受けていなければ、天使たちによって殺されたのです。
割礼というのは外側のしるしに過ぎなかったのに、なぜそのように大事にされたのでしょう。
なぜならそれは、福音の内部の経験を外に表したものだったからなのです。
つまり、心に割礼を受けるということを表したものだったです。
魂から罪を切り落とすということを意味していたのです。
世俗的なもの、偶像を心から切り出すこと、しめ出すことを表していたのです。
そういったことを象徴していたのですね。そのために、生まれた男の子は、全員割礼を受けなければなりませんでした。
割礼は痛みを伴うものです。本来、あまり好ましくはないものですね。安息日もそのようなものなのです。
安息日を清く守るということには、痛みと苦しみを伴います。
犠牲も伴います。あまり好ましいものではないのです。
本来は心の経験が外に現れた、外見上のしるしですね。