「選ばれる」の正体

2014年04月08日 | 日記
選ばれるお店、選ばれる会社、選ばれる商品、選ばれる施設…
世の中選ばれるものだらけである。
逆に言えば、世の中選ぶものだらけということだ。
大変結構なことのようだが、意外と選べるものが少なかったりする。
そもそも「選ぶ」とはどういうことなのだろうか?
辞書には、多くの中から取り出す、とある。2番目の意味として、
違う、異なるとあるが、私はこの意味があることを知らなかった。
選択は、よいと思うものを選ぶこと、とある。
どちらも、選ばれる○○をちゃんとあらわしてる。
だが、私自身、これまでの人生で何かを選んできたかと
問われたなら、ほとんど選んでいない。だいたいが流されていた。
選ぶという主体的なことが苦手だったのかもしれない。
選んでくださいと言われても、どれがいいのかわからないと
いうことも多かった。
先日購入したパソコンも、出せる予算と仕事に使うことを
店員さんに伝え、それならこれどうですか、と勧められた商品である。
ピアノのレッスンを受けていたときは、大人向けだったので
テキストは特になく、自分で選ぶことができた。
私は困惑し、先生の勧めるものを使用していた。
好きな曲をやっていいのよ、と言われたが、「好きな曲」は
楽譜を見てもわからず、順番に練習していた。
私だけが選び下手とは言えないはずですよ!(決めつけ)
選べない理由のひとつに、選択肢が少ないというのもあるが、
(これが最大で唯一の理由と思っている人も多いようですが)
私は、選び方がわからないという理由が大きいと思っています。
また、自分では選んでいるつもりでも、やはり流れにのっているだけ、
ということもあるかと思います。(私がそうです)
ということは(早くも結論に向かいます)
選んでもらうには、冷静に分析して考えてもらうよりは
熱に浮かれて選んでもらったほうがよい、ということになりませんか!
なぜって、これまで選挙なんかでは、あれかこれかの二分法で危機感を
煽ったほうが大勝してましたから。巷の商品にしても
宣伝してるのとしてないのとじゃしてる商品のほうが売れてますし。
売る方法としては、煽るやりかたがスタンダードなのでしょう。
なので、ものはいっぱいあっても、選ぶのは難しいかもしれません。
私は仕事や配偶者といった、人生において、やや重要とされることにおいても
選んだという実感が乏しい…
コメント
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