
【執筆原稿から抜粋】
世界の非宗教化
本書(中山註:『古典から学ぶ美しさを経営に活かす』(仮題))で宗教的なことは書きたくないですが、論語は宗教であるという考えも有力であり、古典と宗教は密接に絡んでいます。
そこで、世界が非宗教化している現状をまずは説明します。
この三千年の宗教の役割を冒頭に図式化しました。
伝統的に、宗教は「義」と「愛」を担ってきました。
「義」は献身・犠牲・規律。旧約聖書で神が怒ってノアの洪水を起こしたような、神の厳しい教えです。
一方、「愛」は慈悲・情愛・赦し。イエス・キリスト以降の新約聖書で「隣人を愛せ」と書かれていることからイメージしやすいです。
この義と愛の両者のバランスを内村鑑三は「愛と義の楕円形」と表現しました。
中世まではこの愛と義の役割を担う宗教は、人類の生活や社会の大部分を占めていました。
世俗の王様が宗教的な権威を持っていました。政教一致です。
14~15世紀のルネサンスが近世の夜明けとなり、神よりも人間・個人を重視するようになりました。今も続くヒューマニズムです。
このヒューマニズムが、宗教が担ってきた特に「愛」の役割を代替しました。取って代わったのです。
別に宗教に頼らなくても、ヒューマニズムやその後の民主主義的な考え方を使えば、自由や平等などの人に優しくする価値を実現できるようになったのです。
近代ヒューマニズムが、宗教を殺したのです。ニーチェの有名な「神は死んだ」はこの文脈で理解できます。「ヒューマニズムが出てきたから神は要らなくなった」という意味です。政教も分離されました。
この「ヒューマニズムによる宗教の代替」は、経済レベルの向上により加速化しています。
そもそも宗教は、「貧・病・争」つまり貧しい人、病んだ人、争いで疲弊した人を救うものでした。
しかし、工業化と資本主義の発達が世界を豊かにし、貧しい人は減りました。
医療の発達で病人は減りました。ハンセン病や結核をイメージしてください。
戦争は失くなっていませんが、かつてよりは減っています。江戸時代には凶器を2本腰に差した物騒な男が街中を闊歩していました。今だと銃刀法違反です。
貧・病・争が減った今、世界が非宗教化するのは必然です。誰も抗えません。
とはいえ、宗教が担ってきた古典的な価値は、消えません。むしろ、世俗化しすぎた世の中で、むしろ宗教的な価値の存在意義は上がっているかもしれません。
新渡戸稲造も『武士道』で「功利主義者・唯物論者の損得哲学」を強く批判しました。
渋沢栄一が『論語と算盤』を書いたのも、銭勘定で算盤叩くだけじゃダメだ、論語的・古典的・精神的価値を忘れてはいけないという危機感からです。
その「今後も引き継ぐべき古典的・精神的な価値とは何か」を考えるのが本書です。
単に論語という「木」を見るのではなく、古典・歴史という「森」を見据えていきましょう。