演繹と帰納。「東洋が演繹的で,西洋が帰納的」なんじゃないのって仮説を立てている。
理由:西洋にはソクラテスとプラトンがいるから
対話を重んじたソクラテスと,その弟子プラトン(ソクラテスの22歳年下)は帰納的。対話とかソクラテスメソッド(とかそこから発展したみたいなコーチング)ってのは,要するに帰納的な感じ。
プラトンが帰納的だったって記述はネットにはないけど,『ソクラテスの弁明』を書いてほとんど師のソクラテスになりきったプラトンも,帰納的ってことにしておく。
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドが「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」って言った。それくらい,プラトンってのは圧倒的。西洋にはプラトンの影響は強い。
だから,ソクラテスとプラトンという二人の聖人を持つ西洋は,たぶん,東洋より,「帰納的」に親和性がある。
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一方,プラトンの弟子アリストテレス(プラトンの43歳年下)が演繹法を生み出した。アリストテレスは「万学の祖」。
私が法曹界にいるからか,演繹的思考に馴染みやすい。法律とか三段論法って,演繹的だから。世界の180か国くらいの大陸法は,演繹的。英米の植民地の17か国くらいだけ,判例法で,その点で帰納的。
海外のビジネス本を読むと,いきなり,「ジョージはそのとき…」みたいな,具体的事例から始まる。小説みたいに。これは帰納的な書き方。事実から書く。ファクトから書く。
日本のビジネス本は,こういう海外の本みたいに,いきなり具体的事実から書かない。読者に直接語りかける。いわば演繹的。
ソクラテスやプラトンと同時代の,孔子とか孟子とかそのへんの先賢も,対話とかまどろっこしいことしてない。直截的に「~すべし」的に,説教調に,大前提を,演繹的に押し付けてくる。東洋は演繹的。
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日本に帰納的発想が薄いとすれば,東洋に帰納的な考えが薄いとすれば,それは,東洋にソクラテスがいなかったから。
コーチングが根付かないのも,コーチングが,帰納的で,西洋的だからかも。
以下の本をAudibleで何度も聞いている。上のようなことをひらめいた。似たことを言っている人はネット検索ではあまりヒットしない。