【執筆原稿から抜粋】
ヨコではなくタテ
「神」という言葉は宗教臭が強いため、東洋的な「天」という言葉を使います。神は一神教的・擬人的で、天が多神教的・非擬人的ですが、両者はほぼ同じです。
「天」という概念を持つと、美しさが身近になります。長期的な視点も持てます。例えば、内村鑑三『代表的日本人』の冒頭で紹介される西郷隆盛は
人を相手にせず天を相手にせよ天を相手にして己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし
と言いました。
西郷隆盛の代名詞のようになっている「敬天愛人」も、天を敬うということです。
西郷隆盛が幕末に約2年の流刑に遭った当時のほぼ日本最南端の沖永良部島に行きました。
最果ての地ですから、死罪一歩手前です。西郷はこの島の吹きさらしの座敷牢で座禅を組んで心胆を練り、大人物になりました。
銭金じゃなくて俺はもう死んだも当然だ、生死を度外視してなすべきことをやらねばという価値観を身につけたのです。
命も要らず 名も要らず 官位も金も要らぬ人は 仕末に困る者なりこの仕末に困る者ならでは 艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり
この西郷の言葉は、山岡鉄舟のことをイメージしたと言われていますが、西郷隆盛自身のことを言っています。
このように、西郷は、天を相手に「タテ」を考え、名声・官位・カネも要らぬと「ヨコ」に流れることを唾棄しました。
欲はヨコに繋がるのです。