私を乗せたボーイング727は一路アフリカへと向かっていた。私の夢アフリカ。乗り換えること2度、私が着任しようとしている国マラウィは遠い空の果てにあった。雷雨の中、チレカ国際空港に到着。雷が私達を歓迎し、停電セレモニーもそれに加わった。夜。真暗闇。私の受けたマラウイの第一印象。
私は1978年10月から2年間、青年海外協力隊の一隊員としてマラウィで過ごした。理数科教師、それが私の肩書である。到着からちょうど一ヶ月後、私は任地ミトゥンドゥの教壇に立った。教室全体が私を注目している。私にはその一つ一つの顔が同じに見える。これにはまいった。黒い顔は正直言って誰が男で、女なのかも見当がつかない。私は八方破れの英語で挨拶する。一言も聞きのがすまいと、どの耳もピンと立っている。私の一挙手一投足が全て注目の的である。私は、ミトゥンドゥに暮らす初めての日本人。生徒ばかりでなく、土地の人々までも私を見つめる。私は一個人としてでなく、日本人の代表として見つめれらる。
日本の製品はこんな田舎にまで浸透している。買うことはできなくとも、メイドインジャパンは彼らのあこがれ。日本製とは信頼の目安でさえある。その大工業国の日本からやってきた日本人。いったいどんな怪物であるのか。彼らの興味はまずそこにあった。初め、生徒たちの質問の大部分はそこに向けられた。その怪物の私がたった一つのトランクで学校の教員宿舎に乗り込んだものだから、荷物の少なさにあっ気にとられていたようだ。日本から貧乏人がやって来たと思ったかも知れない。その貧乏人は2年間、特別な日を除いていつも同じ服装で学校に通った。紺色のズボンにシャツ姿。寒い日はその上に白衣をはおり、それでもまだ寒い時はセーターをかぶった。
アフリカと聞けば灼熱の大地を想い浮かべるかも知れない。しかし、ケニア、タンザニアに代表される野生動物の楽園でさえそれほど暑い所ではない。標高が高いからだ。マラウィもそのほとんどが高地で、私の居たミトゥンドゥは標高1200m。日中の日向でこそ40℃を越すこともあるが、朝夕の過ごし易さは日本以上だ。