古稀を過ぎた主夫の独り言日記

主夫の独り言
やれるまでは小学生とサッカー
合唱は再開しました
アフリカの想い出

アフリカに愛をこめて 1

2012-07-03 22:52:51 | エッセイ
アフリカへの旅
 私を乗せたボーイング727は一路アフリカへと向かっていた。私の夢アフリカ。乗り換えること2度、私が着任しようとしている国マラウィは遠い空の果てにあった。雷雨の中、チレカ国際空港に到着。雷が私達を歓迎し、停電セレモニーもそれに加わった。夜。真暗闇。私の受けたマラウイの第一印象。
 私は1978年10月から2年間、青年海外協力隊の一隊員としてマラウィで過ごした。理数科教師、それが私の肩書である。到着からちょうど一ヶ月後、私は任地ミトゥンドゥの教壇に立った。教室全体が私を注目している。私にはその一つ一つの顔が同じに見える。これにはまいった。黒い顔は正直言って誰が男で、女なのかも見当がつかない。私は八方破れの英語で挨拶する。一言も聞きのがすまいと、どの耳もピンと立っている。私の一挙手一投足が全て注目の的である。私は、ミトゥンドゥに暮らす初めての日本人。生徒ばかりでなく、土地の人々までも私を見つめる。私は一個人としてでなく、日本人の代表として見つめれらる。
 日本の製品はこんな田舎にまで浸透している。買うことはできなくとも、メイドインジャパンは彼らのあこがれ。日本製とは信頼の目安でさえある。その大工業国の日本からやってきた日本人。いったいどんな怪物であるのか。彼らの興味はまずそこにあった。初め、生徒たちの質問の大部分はそこに向けられた。その怪物の私がたった一つのトランクで学校の教員宿舎に乗り込んだものだから、荷物の少なさにあっ気にとられていたようだ。日本から貧乏人がやって来たと思ったかも知れない。その貧乏人は2年間、特別な日を除いていつも同じ服装で学校に通った。紺色のズボンにシャツ姿。寒い日はその上に白衣をはおり、それでもまだ寒い時はセーターをかぶった。
 アフリカと聞けば灼熱の大地を想い浮かべるかも知れない。しかし、ケニア、タンザニアに代表される野生動物の楽園でさえそれほど暑い所ではない。標高が高いからだ。マラウィもそのほとんどが高地で、私の居たミトゥンドゥは標高1200m。日中の日向でこそ40℃を越すこともあるが、朝夕の過ごし易さは日本以上だ。
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国際交流だより

2012-07-03 22:30:27 | エッセイ
1981年3月に発行された第2号
静岡県広報課が出版したものを今日見つけました
ここに投稿した私の文章がありましたので掲載します
31年ぶりに読んで、自から感動しました

題名は『アフリカに愛をこめて』
3章からなり、「アフリカへの旅」「ミトゥンドゥの学校」「マラウイで学んだこと」
写真も4枚、
「ネットボールの選手たち」ポートボールのようなものだ。素足が美しい。大地を征に肌で感じている。
「生徒たちはいつも陽気だ」
「ツリープランティングデイのひとこま」はじめてスーツを着、ネクタイを締めた日だ。
「ねずみとり」
と、それぞれ題がついている


アフリカに愛をこめて
を、三部作にして掲載します
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退職老人心理学

2012-06-15 17:29:40 | エッセイ
老人と言っても、仕事を終えて何年も経たない
ちょうど私のような人の心持ちは独特だと最近気づきました
時々、楽しい発言が出ます

これは変なプライドや真面目さや
その他心理的な波が関係していると思うのです
是非分析して読み物にしたいな~
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2012-05-26 22:19:45 | エッセイ

柳川を30数年ぶりに訪れました。
川下りは初めて、好天気に恵まれました。
船頭さんは中村さん、最高でした。
おまけに、結婚式にも遭遇しました。
最高の柳川旅行でした。
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こうしてゴミが増えるのです

2012-05-07 22:15:16 | エッセイ
 
 気に入った服などを長く着るためには品質の良いものを選ぶ必要があるでしょう。

 安くてもデザインが良くて気に入るものが沢山あります。ところが、そうしたものの多くは数回着ると型崩れしてしまいます。そうなると外出着としてはいささか恥ずかしく、仕事着となることが多いのが現実です。それで仕事着ばかりが増えて、何年も着ないものが箪笥に溜まる。いわゆるゴミと同じです。
 こうしたことを繰り返すうちに、学習して行動が変化すればよいのですが、元来吝嗇(けち)な私の性がそうはさせませんでした。繰り返し、繰り返しの失敗で、それでも最近は良いものを選ぼうという気持ちを買物の都度思い起こすようにはなりました。けれども、ついつい安いものへの誘惑が私を支配して、購入してしまった後に、また後悔するのです。
 そんな私ですが、かつては気に入ったものがブランド品だったなんてこともありました。そして、ブランド品の中には品質が良いものが多いことも事実です。ところが、退職した今となっては自由になる金が激減し、妥協が妥協を生み、安き品に気持ちが流れてしまうのです。
 品物を選ぶとき、縫製がしっかりしているかをよく見るようにはなりました。しかし、布地の良しあしを判断するだけの才覚はありません。品質の良いものを選んで買おうとはするものの、結局箪笥の中は仕事着でいっぱいになるのです。

 男物の服は良いものを長く着ることが普通に行われています。とても良いことだと思います。ところが、若い女性のばあいはデザインや流行が最重要視されているようです。したがって、私の状況とは少し異なりますがゴミがどんどん増えていくようです。それをゴミとせず、リユースする新生活スタイルも生まれつつあるようですが、もっと良い方法はないものでしょうか。
 ファッションは流行ですが、デザインは繰り返します。女性も気に入ったデザインや色を長い期間、着続けるようなそんな生活も良いと思いませんか。年齢を重ねるにつれそのような傾向になるご婦人はいらっしゃるようですが、もっと若い時からそうした習慣が身につくような世界が来たらいいなと思います。流行に流されることなく、好きなデザインや色を求めるのは素敵です。

 環境や資源のことを考えても、良いものを長く使う習慣が必要だと私は思います。パッチを当ててでも着続けたい服、本当に素敵ですね。マスコミに操られてはなりません。安物買いの私が言うのも変な話ですがね。
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主観と客観 1

2012-04-16 10:10:47 | エッセイ
少女A、今は還暦過ぎのおばさん
でも、誰もそんなに歳だとは思わないほど美しい
私たちは少女Aの同級生だから、それを知っている
ある日の同級会に出席した元少女A
男たちが入れ替わり立ち代わり理由をつけて彼女のところに集まる
そして、メールアドレスを手に入れたそうな

少女A、中学生の頃からモデルをしていた
少女向けファッション雑誌の専属モデル
年を経るにつれて、女性向け雑誌・高級ファッション雑誌
私もファンだった
だから、本屋に立ち寄るとそれらの雑誌に目を遣った
・・・頑張っているんだな・・・

男たち、メールを毎日のように送り出した
業務に使うメールアドレス
ガラクタメールに埋もれる業務メール
今は独立し、代表取締
ついに業務メールのアドレスを変更することになった
苦渋の選択だった

---------------

男はしょうもない生き物なんだな
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2012-03-23 18:31:01 | エッセイ

朝6時過ぎから降り始めた雨は、夕暮れになって強くなった。
春の雨は心を揺らす。

40数年前の春の嵐は雷とともに荒れ狂った。

  暗く苦しい冬が 一夜の雷雨と共に去っていった
  暖かい春の光を浴びて 若者たちは飛び立つ
  大きな夢を求めて
  ほら、そこに若者たちのハミングが聞こえる

大学受験に失敗し、落ち込んでいた時、激しい雷鳴が私を鼓舞した。
翌朝の素晴らしい青空と、光る青葉は私を勇気付けた。
私も大きな夢を求めて青春を謳歌するんだ。
私の意気込みだった。
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仕事のことを寝ながら考えた・・・

2012-03-23 10:18:18 | エッセイ

 今更、現役の時のように仕事をする気はないが、活動は一生続けたいと思っている。しかし、一昨日工場見学しながらアドレナリン分泌を感じたのは何故なんだろう。今の私はもっと別のことに興味を持って、それに向かって活動を始めようとしているのに・・・。この疑問が頭の中でもやもやしていた。
 結論をそんなに急ぐべきではないが、何となく感じたことがある。

 私は三十路を迎える直前にようやく普通の仕事に就いた。退職するまでの30年余りは成長し、変化に富みとても充実していた。その理由の一つに、ほぼ5年単位で20余年間、全く異なる種類の仕事をさせて頂いたことだ。商品開発、商品企画、事業企画、研究開発が主たるものだ。その間、多くのビジネス本を読み、子育てに悩んで心理学の本を読み漁り、海外出張を重ね、仕事のやり方を180度転換させもした。恵まれすぎていた。そして現役最後の10年を迎えることになる。
 誰でもそうだろうか。私はそれまで積み重ねた経験や知識を社会のために還元すべき時が50代だと考えていた。そして、その通りの仕事ができたと思っている。中国で4年間ほど活動し、後輩を育て、仕事のシステムを整えた。それはそれで充実していた。けれども、その10年ほどの期間は前の20年に比べて熱くはなかった。言ってみれば、わが身の脂肪を燃やしながら活動している、そんな感じだったのだ。
 知識を吸収したり、斬新で多様な経験を積んだり、所謂学んでいることは夏の陽射しに似ている。心も開放し、瞬間的な嫌なことは山ほどあっても、あの光に包まれていればいつも癒されている気分だ。明るいのもいい。それに比べ最後の10年は冬の時代だった。冬そのものは決して嫌いではない。銀世界の無限を感じる拡がりは大好きだ。雪国育ちではないが、雪に囲まれた室内での雑音のない世界も好きだ。囲炉裏の火の赤も素敵だ。掘り炬燵での団欒も楽しい。
 このように考えることは、今までの私の仕事人生を象徴しているようだ。自分に課せられた環境を善しとして受け容れ、その中で最大限の努力をする。でも、身体は正直なものだ。私は夏の開放が好きだったんだ。一昨日の工場見学には若いころの熱さを感じさせるものがあり、私の第六感を刺激していたのだろう。久しぶりに感じたこの癒しの感覚を、私は今日からどう処理していくのだろう。

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今は亡き我が家のジャカランダ~2007

2012-03-22 17:51:12 | エッセイ
 1978年10月、私は青年海外協力隊の隊員として赴任地マラウイに向かう途上にありました。場所はケニアのナイロビ。トランジットの2日目だったでしょうか。異国、大都会の公園で紫色の桜が見事に咲き誇っている。もちろん初めて見た華ではありましたが霞むようなその淡い紫色は日本の四月を思い起こさせました。それがジャカランダという花だと知ったのは赴任地に到着してからです。現地語を習得するため、ブンダ山麓の村にも見事なジャカランダが咲き誇っていました。このジャカランダが、我が家のジャカランダの親となるのです。
 美しいものは誰の目にも美しいわけではありません。日本人は四月になると桜を愛でます。この慣習は千年以上前の貴族社会にはありました。しかし、庶民はどうだったでしょうか。その日その日を生き抜くために労働を強いられている。桜を見上げる気力すらなかったかもしれません。山麓の村人もかつての庶民と同じでした。村人に見向かれもしないその華の下で、私は毎日立ち、見上げるのでした。ある日ふと下を見ると煎餅のような、不思議な丸いものがいくつか落ちている。これはジャカランダの種に違いない。私は目についた幾つかの煎餅を拾って、ポケットに押し込みました。
 部屋に戻ると、その煎餅を観察しました。直径7センチメートル程度のそれは磨くと見事な飴色に光りました。爆ぜ掛けた煎餅があったので一枚の煎餅を二枚の煎餅のようにはがしました。するとそこには沢山の種が並んでいます。大煎餅の中に沢山の子煎餅。丸い茶色に透き通った羽を纏った小さな種たちは、子煎餅として詰まっていました。本当ならば木に成っているときに大煎餅が開き、子煎餅が風に舞って遠くに運ばれるに違いない。ところが、何かのはずみにこの大煎餅は開く前に地面に落ちたのだろう。
 私はこの種をマッチ箱にいっぱい詰めて、郵便で親元に送りました。両親はその種を大切に育ててくれ、二年後家に帰ったときは数本の苗になっていたのです。「これはとても素敵な華が咲くんですよ。あんな素敵な華をきっと見ていただきます。」
 数年後、鉢植えのジャカランダは数輪の花を咲かせました。嬉しかったですが、私の望んでいたあの素敵な華ではない。私は地に下すことを決めました。そのジャカランダは15年後見事な花を咲かせたのです。この花を見て数年後父は他界しました。
 大木に育ったこの木は、つましい我が家の庭には大きすぎました。六月になると遠くからこの木を鑑賞に来てくれるファンもいたのですが、素晴らしい姿を見せる南側にはいつしか何軒もの家が建ってしまいまいた。さらに追い打ちを掛けたのは台風です。大風は脆いこの木の大枝を何本もへし折りました。心を痛めながら私は大枝を総て落としました。この惨めな木を見上げる度に、可哀想なことをしたと心を痛めているのです。
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記念すべき第一号は・・・

2012-03-22 12:55:39 | エッセイ
 昨日、特殊な土木作業機械を製造販売している会社を訪問した。ここの社長は私の中学来の友人である。
 実は、彼からあることを頼まれた。頼まれると「いや」と言えない性格で3週間ほど彼のために動き回っている。簡単に言えば仕事と人のマッチメーカーだ。ボランティアでやっているが、そんなことは今はどうでもよい。
 昨日もデザイナーを同行した。マッチメークする手始めに、社長が仕事の内容に深く入り込んだ。私は元技術屋であり、企画マンでもある。うずうずするものが抑えられない。工場見学に至ってアドレナリンがどんどん分泌される。興奮が抑えられない。定年退職して半年以上たつが、これまで仕事のことを振り返ることはなかった。仕事に戻りたいと思うことすらなかった。私はきわめて健全だと考えていた。
 ところが仕事の現場に入り、専門的な話になって行けばいくほど、話題にのめりこんでいく自分がいる。『還暦でスパッと仕事はやめるのだ。』『これからは全く別の生活を始めるのだ。』と言っていた半年前の気持ちとは裏腹、『俺も仕事好きなんだ』と気が付いた。
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