デ某の「ひょっこりポンポン山」

腎がんのメモリー、海外旅行記、吾輩も猫である、人生の棚卸しなど。

吾輩も猫である 95 ( 戦利品 )

2015-04-24 17:18:07 | 吾輩も猫である



 主人の帰省に同行 

 久しぶりに主人の帰省に同行する。連休は道路が混むので、主人、それまでに「務めを果たしておきたい」らしい。吾輩には迷惑な話だが、細君も同行するからには吾輩も行かざるを得ない。まぁ、ペットホテルに閉じ込められるよりマシ!である。
 
 さて、主人の郷里は境港。大抵の人は鳥取県と島根県の位置関係さえわかっていない。主人も、勤め始めて盆暮に帰省する際、「島根やったな。気ぃつけて帰りや」となんべん言われたか知らん!と。まぁ山陰の小さな2県の位置なぞどうでもいいのだろう。

 戦利品(その1)チョコとガム

 昭和20~30年代の郷里には、もはや死語の「進駐軍」が健在した。市内に自衛隊と同居する米空軍、海峡の向かい・・・出雲半島の山上に米軍レーダー基地。当時まだ珍しかった自動ドア付の米軍専用バスが米兵はじめ基地関係者を乗せて県道を走っていた。
 
 主人が小さかった頃、向いに米兵一家が住んでいた。たぶん主人がみた最初の外国人。奥さんはいつもヒステリックに喚き、その所為か日本人のメイドさんも「ハバ!ハバ!(早く!急げ!)」が口癖。近所には「ウェンリー」はじめ数人の悪ガキ?がいた。

 進駐軍の子と日本人の子はしばしば西部劇ごっこをした。日本の子はインディアン、進駐軍の子は騎兵隊やカウボーイと決まっていた。殺される側の日本の子が、殺される代償に貰ったチョコやチューインガムは負け戦の戦利品・・・ほろ苦く限りなく甘い戦利品。

  
                             All painted by QP

 戦利品(その2)ハンバーグ、コーラ、スロットメタル、白い肌

 やがて飛行場は自衛隊に移管、進駐軍は町から消えた。しかしレーダー基地は主人の高校時代もまだ米軍管轄下にあった。英会話の練習で基地を訪ねると、戦利品はもはやチョコではなくこってりのハンバーグ、クスリくさいコーラ、スロットマシンのメタル・・・

 境港には材木を運ぶロシア船も来る。船員と英会話・・・は建前。ロシア船には若い女性が多く磁器のような白い肌に魅せられたのだった。彼女達は真冬でも浜辺に出てビキニで日光浴する。その光景は、松林から盗み見る男子高校生の「目の戦利品」・・・

 戦利品(その3)機雷、密入国者、埋立地

 浜辺には機雷も漂着、地引網にかかる。また密入国者が上陸したと騒ぎになったり、「拉致問題」ではこの近くから船で連れ去られた人も・・・。機雷だの密入国だの拉致だのは戦利品とは言えまい。が、「戦争」に端を発していることは間違いない。

 浜辺は三十数年前に埋立てられた。主人の父親は埋立に反対し市議会の座り込みに行った。「本日は流会」ときき解散した深夜、議会が再召集され「埋立」議決。が、企業を誘致の思惑は外れ、広大な荒地が広がる。この埋立地、果たして誰の戦利品なのだろう・・・

  
    【左】昭和50年代の弓が浜と日本海 【右】埋め立てられた弓が浜(後方:出雲半島)

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14 コメント

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シマジロウ君 (沙羅)
2015-04-24 18:45:48
ご主人と私はどうやら同世代のようで進駐軍!には思わず反応してしまいました。
そして境港にも海の埋め立てにも共通するものが。。
まずは進駐軍です。
私が育った近くの浜寺公園は進駐軍に接収され、きれいな松林の木には無粋なペンキ。
浜寺公園はフェンスで厳重に守られて進駐軍との接点はなかったですね。
浜寺の浜は進駐軍のプライベイトビーチになっていましたが、花火大会の日だけ許されて浜に入りました。
そこへ行くまではフェンスの外を延々と歩きます。
今は日本人は入ることのできない青松白砂だった浜寺公園をフェンス越しに見ながら。。
大人たちは花火大会なのにもかかわらず無口で・・・子供心にその屈託を感じましたね・・幼稚園の頃の話でした。
昭和33年やっと浜寺公園は日本人に返還されましたがわずか3年後に大阪湾は臨海工業地帯となるべく埋め立てられました。
子供のころ親しんだ海がなくなった寂しさはずっと埋まらないです。
喪失感がありますね・・だからいつも海を見に行きたくなります(失われた海を求めて)。
ご主人さまもきっとそうでしょう。

境港は学生時代隠岐に行くときに寄りました。
それから大根島!・・今は島ではなくなりましたね。
学生時代教授の研究のお手伝いで数日滞在しました。
島の中心にある公民館に泊まっていたのですが、夜地元の青年たち?が奇声を上げて取り囲み怖かったです。
翌日大人たちは「いやあれは若者たちの若気の至りで・・」とか弁解していましたが、あれは何だったのでしょう?

いや~懐かしいことをいっぱい思い出してしまいました。
ありがとうございました。

返信する
Unknown (SORA)
2015-04-24 21:39:38
戦争を知らない私には、映画の世界はたまた本の中のお話しのようですが、実際にあったことばかりなんだと思うと不思議な気持ちになります。

母からは、よく戦中戦後の話は聞かされていましたが・・。こういう話は後世に語り継いでいってほしいですね。

小学6年の時の担任の先生が、戦争の話?授業(社会の)?の時に歌ってくれた歌を今でも覚えています。
「 蒼い顔してなんばこ食べて 肩で息する哀れな姿
どうせ一度は死ななきゃならぬ 死んでおくなら今のうち
死んどけ 死んどけ 」
淡々と歌われたこの歌を聞いて なんだかとても悲しい気持ちになった事、この歌の節まで今でも鮮明に覚えています。
この歌もまた、戦争を知らない私達の心に残る負け戦の
物悲しい戦利品なのかもしれませんね。

返信する
追伸。 (SORA)
2015-04-24 21:44:26
先日UPされていた竹内まりやさんの「人生の扉」の歌詞に
とっても共感しました。はじめて聞いたのですが、とっても素敵な歌ですね!写メブログに人生の扉の歌詞を少しコラボさせUPさせて頂きました(事後報告ですがw)

素敵な歌に巡りあえて とっても嬉しかったです。
ありがとうございました。
返信する
所と年齢が違えば (六花)
2015-04-24 23:53:05
淡い哀しみの中で 戦利品を読みました。
島根県といえば咄嗟に思い出すのは 足立美術館です。
そして鷺の湯かしら・・境港は放浪中 道の駅がなくて
宿泊地を捜すのに苦労しました。
美保関町で 海岸近くで寝ておりましたら 警察に
真夜中 不審者とみなされて起こされて・・

外国人との出会いは 進駐軍ではなくて 英米の捕虜でした。
街の中を腰縄と手に縄をかけられ行列をつくって
歩かされていました。
やがて炭鉱の最前列で石炭を掘らされていたのでしょう。

彼らは 子供である我々に笑顔を向けていましたが
金髪 赤毛など 目の色も色々で 咄嗟に鬼ヶ島の
鬼を思い出し とても怖かったです。
国に残した我が子を思い せつない方もいたはずです。

カラフトから引き上げて来た祖母は、ロシア人を
「ロスケ」と言っていました。卑怯な参戦の仕方だったと
思って居ます。

お父様はいかがでしたか?  きっと卑怯な議会のやり方も
忘れ、座り込みをしたことも忘れてしまったでしょうか?
その方がいいです。私にはご褒美のように思えます。

SORAさんの戦争の歌も知りません。 子供の頃覚えた歌は
「勝って来るぞと勇ましく 誓って国を出たからにゃ・・」
です。 戦争の時何歳だったか? 何処に住んで居たか?
によって ずいぶん体験が違ってくるのですね~~
こころも体もお元気で帰宅なさいますように願っております。 したっけ お休みなさい。
返信する
追伸 (六花)
2015-04-25 00:05:41
やっぱり六花はそそっかしいですね~~
ちゃんと 鳥取県の境港と書いてあるのにデス・m(_ _)m
ほんと境界線わかりません。それで地図を見ました。
米子市と安来市の所に境界線があるのですね。ではでは・・
返信する
主人の同世代でしたか! (シマジロウ)
2015-04-25 00:08:03
沙羅さん
コメントありがとうございました
主人がレスをしたがりましたけど、
「シマジロウ君」と来られては吾輩、否、私からレスさせていただきます

> ご主人と私はどうやら同世代のようで進駐軍!には思わず反応してしまいました。
心に進駐しましたかねぇ(笑) 
お二人とも たぶん進駐軍を肌に感じた最後の世代でございましょう。

> 私が育った近くの浜寺公園は進駐軍に接収され・・・進駐軍のプライベイトビーチになっていました
> 花火大会の日だけ許されて浜に入りました。
> 大人たちは花火大会なのにもかかわらず無口で・・・子供心にその屈託を感じましたね
絶対無比であった天皇をさえ見下ろした進駐軍、
「そこらの浜公園如き!」であったのでありましょう。
主人の向いの家のウェンリーくんもそんな頭(づ)の高さを受け継ぎ、
主人の子ども用自転車を勝手に乗り回してはそこらに乗り捨てていた由。
ただ 向いの日本人メイドさんが時々クッキーを持ってくると、嬉々と・・・。
屈辱を感じない屈辱ほど屈辱的なことはありませんね

> 昭和33年やっと浜寺公園は日本人に返還されましたが、
> わずか3年後に大阪湾は臨海工業地帯となるべく埋め立てられました。
> 子供のころ親しんだ海がなくなった寂しさはずっと埋まらないです。
埋立ては既に江戸時代に始まり、その総面積は意外にも国土の僅か0.5%だそうです
逆に言えば「埋められない寂しい心」をもつ人も極々限られた少数者(マイノリティ!?)。
沙羅さんと主人、はからずもいみじくもその少数者であったということですね。

> 喪失感がありますね・・だからいつも海を見に行きたくなります(失われた海を求めて)。
> ご主人さまもきっとそうでしょう。
主人の場合は、その逆に、しきりに山を見たがります
帰省するたびに大山を眺めてはカメラを向けています。
大山を眺めることで喪失感を埋めているのでしょうか・・・。

> 境港は学生時代隠岐に行くときに寄りました。
> それから大根島!・・今は島ではなくなりましたね。
> 学生時代教授の研究のお手伝いで数日滞在しました。
隠岐航路は有名なのですが、灯台下暗し、主人は隠岐に行ったことはないそうです
大根島は何度も行ったそうですが、その研究って、生物系(牡丹 or オオサンショウウオ…)かな?

> 島の中心にある公民館に泊まっていたのですが、
> 夜 地元の青年たち?が奇声を上げて取り囲み怖かったです。
都会の若くて美しい女性が現れて昂奮したのでしょうね
まぁ猫が言うのもなんですが(笑)赦してやってください

> いや~懐かしいことをいっぱい思い出してしまいました。
主人、「お互いに・・・」と笑っています
「また昔話しましょう」なんて年寄りくさいこと言うてます
長話の好きなシマジロウでした。
また素敵な短歌をUPしてくださいね(主人も私も沙羅さんファンです)
返信する
死んでおくなら・・・強烈な歌 (デ某)
2015-04-25 00:39:34
SORAさん
コメントありがとうございました

> 戦争を知らない私には、映画の世界はたまた本の中のお話しのようですが、
> 実際にあったことばかりなんだと思うと不思議な気持ちになります。
私も「戦争を知らない子ども」の一人ですが
戦争の生々しさがまだ色濃く残る「少年時代」でした。
傷痍軍人さんとかラジオの「ひと探し」を聴いていた記憶がありますから。

> 母からは、よく戦中戦後の話は聞かされていましたが・・。
> こういう話は後世に語り継いでいってほしいですね。
政権にある方々が仰るように「誇りをもてる歴史」を識ることも大切ですが
負の遺産、悔い改めなければならない遺産を棄ててはなりますまい。

> 担任の先生が・・・歌ってくれた歌を今でも覚えています。
> 「蒼い顔してなんばこ食べて 肩で息する哀れな姿・・・
>  死んでおくなら今のうち 死んどけ 死んどけ」
> この歌もまた、戦争を知らない私達の心に残る負け戦の
物悲しい戦利品なのかもしれませんね。

死んでおくなら今のうち 死んどけ 死んどけ・・・。
なんという強烈なことば・・・小学生のSORAさんの記憶に刻まれる光景が目に浮かびます。
そのこと その戦利品もまた貴重な記憶であり記録すべきことだと思います。

> 竹内まりやさんの「人生の扉」の歌詞にとっても共感しました。
> 写メブログに人生の扉の歌詞を少しコラボさせUPさせて頂きました。
「SORAの小さな写真館」 拝読しました
共感してくださり とても嬉しいです。
また改めてそちらにコメントさせていただきますね
返信する
それぞれの地、時代にて・・・ (デ某)
2015-04-25 01:42:53
六花さん
コメントありがとうございました

> 淡い哀しみの中で 戦利品を読みました。
「戦利品」・・・学生時代に同名の詩を書き、
短編小説「埋ずめ戻し」とともに某青年文学コンクールに応募しました。
結果は、いずも最終選考まで残りましたが、選には至りませんでした。
わが青春の「淡い哀しみ」でした(笑) 
しかしお蔭でその!世界に縁がないことを自覚できました。

> 島根県といえば咄嗟に思い出すのは 足立美術館です。
何度か参りました。大観の常設館である以上に庭からの借景が印象的ですね
はい、足立美術館は島根県、植田正治写真美術館は鳥取県です(笑)

> 境港は放浪中 道の駅がなくて宿泊地を捜すのに苦労しました。
> 美保関町で 海岸近くで寝ておりましたら 
> 警察に 真夜中 不審者とみなされて起こされて・・
小さな港町ですから、宿泊される場合は米子市になりますね
副市長をよく知っていますので、「ホテルくらい誘致しろよ」とハッパかけます(笑)
それにしても 美保関(出雲半島の先端・・・島根県)の海岸で野宿はヤバすぎます(笑)

> 外国人との出会いは 進駐軍ではなくて 英米の捕虜でした。
> 国に残した我が子を思い せつない方もいたはずです。
昭和の軍閥政権の捕虜虐待・・・を思うと明治の政府はまだ立派ですね。
昭和と明治、そもそも政治家にも軍人にも戦争観に天地の開きがあったと思います。

> カラフトから引き上げて来た祖母は、ロシア人を「ロスケ」と言っていました。
> 卑怯な参戦の仕方だったと思って居ます。
帝政ロシアであれ社会主義ロシアであれ、ロシアは歴史的に「盟約を護らない」国
戦争ではそうした歴史的、民族的、文化的な思考・志操を研究しておくのが必須ですが、
オポチュニズム(希望的観測)と精神主義が蔓延っていたのでしょう。
なお、義父は戦後シベリアに抑留されましたから、ソ連にも社会主義に懐疑的でした。
にもかかわらず、「ロシア人はいい人たちだ」と言い、
リタイアしてから義母とシベリア~シルクロードを愉しく!旅しました。

> お父様はいかがでしたか?  
> きっと卑怯な議会のやり方も忘れ、座り込みをしたことも忘れてしまったでしょうか?
> その方がいいです。私にはご褒美のように思えます。
かつてその埋立地で「夢みなと博覧会」と言う大きなイベントがありました(1997.7.12~9.28)
その時、父は嬉々として場内整理・駐車場整理のボランティアをしていました。
認知症は始まっていませんでしたが、父の中では既に「済んだこと」だったのでしょう。
それが如何にもわが故郷の人々の思考方法であり生き様であるような気がいたします。

> SORAさんの戦争の歌も知りません。 
> 戦争の時何歳だったか? 何処に住んで居たか? によって・・・違ってくるのですね~~
そうですね。それにしても子どもの心に余る強烈な歌ではあります
私も存じない歌ですが、まだまだいっぱい何処かに眠っている「戦利品」がありそうです。
六花さんも今そうした記録等を整理されているところでしょうか・・・

> こころも体もお元気で帰宅なさいますように願っております。 
> したっけ お休みなさい。
ありがとうございます。26日から短い帰省を予定しています。したっけ!で・・・

> やっぱり六花はそそっかしいですね~~
> ちゃんと 鳥取県の境港と書いてあるのに・・・ほんと境界線わかりません。
> 米子市と安来市の所に境界線があるのですね。
前出の美保関(出雲半島)と境港は約400mの海峡が境界線になります
当時、美保関からは殆どの生徒が県境を越え境港市内の高校に通っていました。
と言っても余計ワケわからなくなりますね(笑) ではでは!
返信する
Unknown (Anne)
2015-04-26 18:00:45
進駐軍!
私は映画やテレビの中の姿しか知りません!
子供の頃、祖母や母他、周りの人達から聞く戦争や戦後の話には出て来ませんでした。
多分、場所的にそういう環境じゃなかったのかもです。

ただ、浜が近くて、戦時中は来る日も、来る日も、浜で地引網をして取れたシラスばかり食べていて、それしかなくてウンザリだったそうです>* ))))><
そこは駿河湾の浜です(;^_^A
お芋しか無かった地域に比べたら恵まれていたかもです。
歳を重ねても骨が丈夫らしいので…

しまじろう君、ドライブは新緑の季節を楽しめたかな(=^x^=)?
返信する
ドライブ日和 (リーのママ)
2015-04-26 21:25:12
青い空にピカピカと輝く若葉やツツジが目にまぶしい季節。
ドライブ日和が続いていますが、シマちゃんドライブはいかがでしたか?
進駐軍の子どもと西部劇ごっことは面白そう~と思ったのですが、日本人がインディアンの役だったとは…
そういうディープな体験はありませんが、博多も海の中道の辺りに基地があって、返還された跡はとっても広い海浜公園になりました。
沖縄でもそうですが、一等地を進駐軍の居住地として進呈していたのでしょうね。

長距離ドライブ、お疲れ様でした。
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