峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

移り行く時代と共に

2019年04月30日 | 家族
きょう4月30日をもって平成の時代が終わり、明日5月1日から新しく令和の時代が始まる。新聞もテレビもこのところ皇室、及び元号に関する話題で持ちきりだ。

奇しくも5月1日は私と女房どのの結婚記念日だ。私たち夫婦も令和の時代と共に新しい一歩を踏み出そうとしている。

ところで、最大10連休にもなる今年のゴールデンウィーク、観光地はどこも賑わいを見せているようだ。
私と女房どのにとっては毎日がゴールデンウィークのようなものだから、この10日間、特別な予定はない。
年をとるのも悪くない。このフレーズ、何度か使っているように思うが、掛け値なしにそう思っている。

現役真っ盛りの子供たちは、それぞれのゴールデンウィークを過ごしているようだ。
絵理子さん家族は、きょうボルダリングを楽しんだらしい。
有紀さん家族は、来遊しておられる和也くんのご両親と昨日からハーモニーランドに遊んでいる。
くるみさんは、例によって海外旅行を楽しんでいる。今回はサンフランシスコだと話していた。
平成の時代に出国し、令和の時代に帰国するんだなどと話していたが、なるほどドラマチックではある。

糸葉さんの心の動き

2019年04月26日 | 子育て日記
昨日、有紀さんの仕事が入っていたので、女房どのは一昨日、2泊3日で福岡へ応援に出かけた。

2日目の昼時になり、食事をしようと女房どのの作り置きのおかず2品を冷蔵庫から取り出す。どちらもタッパーに入っている。
1品はどうやらレンジで温める必要がありそうだ。かろうじて、レンジの使い方は分かるが、タッパーのままレンジで温めていいのかそうでなのかが分からない。早速、女房どのにラインのビデオ通話で尋ねた。その他、ご飯がどこにあるのかも。

おばちゃんと留守番している糸葉さんとも言葉を交わしたのだが、唐突に「おじいちゃん、寂しくない?」と聞かれた。

糸葉さんは、きょう3回目の誕生日を迎えた。人の心情は3歳にもなるとそこまで育つものなのだ。

「おばあちゃんを早く返して」と答えておいた。



糸葉さんとお父さん

2019年04月24日 | 家族
有紀さんは、糸葉さんにあまり手がかからなくなってきた状況で、恩師から仕事の打診を受けた。早速、この4月から働き始めている。
そんな中、21日の日曜日は心理臨床家として必要なスーパービジョンを受けるためスーパバイザー(指導者)のお宅を訪ねたそうだ。

スーパービジョンとは心理臨床家の専門性の維持・向上のために行われるもので、指導を受ける者が自身のケースを報告し、それを見直したり、今後の進め方を検討したり、さらには心理臨床家自身の自己点検のために行われるもののようだ。
指導を受ける者自身がそれにかかる費用を支払う。今後、それを月1回のペースで受けるという。

また、臨床心理士には一定の研修を条件に5年毎に資格を更新する義務があるそうで、有紀さんも確か年に2度ほど全国各地で行われる研修会に参加している。
そんなとき、糸葉さんはお父さんの和也くんと留守番だ。先の日曜日もお父さんと一緒だったそうだ。

和也くんは、平日は朝、糸葉さんが未だ眠っている頃に出勤し、夜、糸葉さんが眠った後に帰宅するらしい。つまり、糸葉さんは平日、お父さんの顔を見ることさえできないわけだ。
お母さんが出かける日、糸葉さんにとってはお父さんと2人きりで思う存分遊べる貴重な時間となっているようだ。

こんなはずじゃなかったのに

2019年04月22日 | 暮らし
一昨日、午前10時から佐々町将棋同好会の総会が公民館の集会室で開かれた。

佐々町将棋同好会は2013年3月に発足した。行き掛かり上、会長役を引き受けたのだったが、その後も、何もしなくていいから「会長」でいてくれとのみなさんの言葉に抗うことができず、ずるずるとその役割を引き受けてきた。
しかし、町内会規約を変更してまで長く続けてしまった町内会長役を、このままでは町内会の為にも会員のみなさんの為にもならないと、当時の役員のみなさんを半ば強引に説得し、辞めさせていただいたことを契機に、地域での全ての役割を辞めようと決意した。
そうして昨年、県アマチュアボクシング連盟の役員を辞し、将棋同好会の方も、昨年夏の納涼会の席で酒の力を借り、みなさんに辞意を表明し、了解していただいていた。

総会当日、午前10時に集会所に入ると、それまで対局を楽しんでおられたみなさんの手が止まり、例会の実際のお世話をなさっておられるNさんとKさんを進行役に会が始まった。
例年、総会の資料は会計報告だけとなっている。それを会計さんが作成する。本当に私は何もしていない。例会にもほとんど顔を出さない。年に3回開かれる佐々町学習グループの会合に将棋同好会を代表して出席するだけだ。

会長の交代については後で話が出るだろうからと、冒頭の会長挨拶の段ではそれに触れなかった。
簡単な会長挨拶が終わり、会計報告、監査報告が済むと、進行役のお2人が「それでは終わりにしましょうか」と総会を閉じようとされるではないか。私は慌てて「会長交代のことを・・・」と申し出たものの、「それは、よかさ(いいさ)」と、にべもなく一蹴された。
そんなバカな。あれほど強く申し出て、了解していただいていたはずなのに。

きょう午後1時半から地域交流センターで今年度の「公民館フェスティバル」についての1回目の話し合いが行われ、将棋同好会を代表して出席した。
将棋同好会のみなさんにはかなわない。


新たなライフステージへと

2019年04月20日 | 暮らし
30年ほど前、現在住んでいるこの地に居を構えた。
中学生までこの家で育った我が家の子供たち3人は、高校入学と同時に家を出て寮生活を送った。その後、そこから県外の大学、あるいは大学院に進学し、就職したり結婚した。

一番下のくるみさんが大学院に進んだ頃から、住み替え、さらには移住について夫婦で考えるようになった。
きっかけは子供たちが成長し、こちらへ戻って来て暮らすという選択肢がほぼなくなったことからだった。
また、長く務めてきた地域での役割を後任にバトンタッチできたことからくる達成感がその思いに輪をかけた。

このようにして、新しい人生を新しい舞台で演じてみたいという思いは日ごとに増していき、その思いは行動へと繋がっていった。
これまでずいぶんとあちらこちらへと出かけたものだ。

女房どのがネットで見かけたことからこのところ岡山・兵庫の古民家に魅せられ、女房どのと出向いている。一昨日、5回目の訪問となった。

一口に移住と言っても、それほど簡単なものではないことを身にしみて感じている。

「パパ」「ママ」と「じいじ」「ばあば」

2019年04月15日 | 家族
間もなく3歳を迎える糸葉さんだが、2歳を過ぎていろんな言葉を発するようになった頃、有紀さんのことを時々「ママ」と呼ぶ時期があった。
私と女房どのは我が家の子供たちに「おとうさん」「おかあさん」と呼んでもらっていたし、絵理子さん家族のところも同様だ。

糸葉さんも、最初「おとうさん」「おかあさん」と呼んでいたので有紀さんにその訳を尋ねると、糸葉さん周りの同年齢の子供たちのほとんどが「ママ」と呼ぶのでそれを真似てつい「ママ」と言ってしまうようであり、最近の絵本の中の子供も、多くが「ママ」らしく、その影響もあるのだろうとのことだった。

そういえば近所の子供たちも、みんな「ママ」と言っているし、テレビの画面の中でも子供たちは大方「ママ」だ。
有紀さんは、お母さんと呼んでもらいたいらしく「ママ」と呼ばれる都度「おかあさんでしょう」と直していたが、その様子も微笑ましいものだった。
その後、糸葉さんは、お母さんの希望通り、間違うことなく「おかあさん」と呼んでいる。

それにしても、今や私たちの国では母親のことを「ママ」と呼び、父親のことを「パパ」と呼ぶのが当たり前になっているとはちょっとした驚きだ。

ところで、孫から私は「おじいちゃん」と呼んでもらい、女房どのは「おばあちゃん」と呼んでもらっているが、どうも世間では「じいじ」「ばあば」が主流のようだ。
私は「おじいちゃん」という響きをとても気に入っている。


私のせい

2019年04月14日 | 暮らし
先日、糸葉さんらと近所の公園の桜を見に行った帰り道、高校時代の友人だったY君宅の駐車場前で彼にばったり出会った。
ふたことみこと言葉を交わしての別れしな、町内会長を辞めるタイミングで町議選に出るものだとばかり思っていたよと彼が言った。

2年前の3月、12年間務めてきた町内会長の役割を後任に引き継ぐことができた。ちょうどその年の6月に町長選と町議選が行われたのだが、会う人会う人にY君と同様のことを言われたものだ。町長選に担ぐからとまで言ってくれる人もいた。
火の無いところに煙は立たぬと言われるが、そうとばかりは限らないことを身をもって知った。

縁あって、町内会長から町内会連合会の会長などの役割りを担った。しかし、もともと私は、そのような柄ではない。いわんや、町議とか町長などの役割に興味もなければ野心もない。何より能力がない。それらは、私とは全く無縁のものだ。

もとより、地域や国を変えるのはリーダーではなく、個々人の知性だと私は考えている。良い社会を実現するためには個々人が確立されなければならない。
もし、この社会が良くないのであれば、それは決してリーダーのせいではなく、社会を構成する私たち個々人の問題なのだと考える。


裕理子さん、お父さんだよ

2019年04月13日 | 父親と子
昨日4月12日は本来、次女である裕理子(ゆりこ)さんの命日だった。

昭和の最後の年の11月3日に誕生した私によく似た女の子に私は、私の名前の一文字「裕」と、意味も音の響きも好きな「理」を組み合わせて「裕理子」と名付けた。

その愛しい裕理子さんが預け始めたばかりの託児所で亡くなった。死因は、乳幼児突然死症候群ということだった。わずか162日の短い生涯だった。

知らせを受け、当時勤めていた仕事先から託児所へ車を走らせた時の、かつて経験したことのない、そしてその後も経験することのない例えようのない心の動きを今でもはっきりと覚えている。

女房どのは、しばらく泣き暮らす日々を過ごした。
私たち夫婦は一時、危機に瀕した。
それでもそれを乗り越えた。というより乗り越えなければならなかった。

その時、私たち夫婦は子供を失うというこれ以上ない深い悲しみを共有し、決してたもとを分かつことのない同志となった。

人は誰しもが深い悲しみを胸に秘め、生きている。

命日に女房どのが花を求めてきた。
その花を携え、夫婦で墓に向かった。

裕理子さんは、私たち夫婦の心の中で生きている。





糸葉さんの冒険

2019年04月12日 | 私と孫
福岡に住んでいる今月で3歳になる私たち夫婦にとって3番目の天使である糸葉さんがおじいちゃん・おばあちゃんの家に泊りに行きたいとお母さんにおねだりしたところ、それを聞き入れてもらい、一昨昨日の昼頃お母さんに連れられやって来た。

昼ご飯を食べ、しばらく部屋で過ごした後、そろそろ終わりを迎えている近くの公園の桜の花を4人連れ立って見に出かけた。

公園は集落の最も高い所に位置する。そこまで急こう配の道を上らなければならない。そのせいか、そこを利用する人はほとんどいない。それでも、かつては、ご高齢者のみなさんのゲートボールを楽しむ姿が見られた。しかし、今はその影もない。この日も私たちが帰るまで、訪れる人はいなかった。

公園をぐるりと取り囲むように桜の木が植えられている。
先の日曜日、県議会議員選挙の投票を済ませた帰り道、女房どのと立ち寄った際、桜花はまさに満開だった。それがこの日は、時折吹く風にその花びらを散らしていた。
満開の桜もいいが、桜吹雪の様もまた良いものだ。しばし、4人で宙を舞いながら落ちてくる花びらを追いかけたり、地面に落ちて溜まっている花びらを手のひらにすくい、宙に舞い上げたりして戯れた。

公園から帰って間もなく、糸葉さんのお母さんは1人で福岡に戻って行った。
糸葉さんはお母さんが去る際も、また、その後もいつもと変わらぬそぶりを見せて遊んでいた。
夕方になり、おばあちゃんと入浴し、おばあちゃんの作った食事をおいしいおいしいと食べた。

午後7時、私は2階の教場に入り、午後9時過ぎに居間へ降りると、すでに糸葉さんは1人寝室で眠っていた。
女房どのにその後の様子を聞くと、糸葉さんは寝床に着く際「おかあさん、おかあさん」とそのつぶらな瞳から涙をこぼしつつ、お母さんを恋しがったという。

翌朝、糸葉さんはいつもの笑顔を私たちに見せてくれた。
朝ご飯を食べ、しばらく居間で遊んだ後、私と2人で2階の教場に入った。

教室の一方の壁一面を本棚が占めている。その中には絵本もたくさんある。その中から糸葉さんが彼女の好みの絵本「アンパンマンのゲームワールド」を取り出してきた。一緒に遊ぼうという訳だ。しばらく相手をしてやると、その後は教室内を物色し、これを使っていいか、あれを使っていいかと尋ねてはハサミで紙を切ったり、ボールペンやマジックで何やら描いたりしていた。

昼になり、有紀さんが迎えにやって来た。
夕方まで遊んだ糸葉さんは、もう1日泊まりたいと軽口をたたきつつ、お母さんの運転する車のチャイルドシートに収まり、お父さんが待っている彼女のわが家へと帰って行った。

春の夜にひとり

2019年04月10日 | 暮らし
キャンプといえば家族や友人ら数人で出かけるものと思っていたが、最近では1人でキャンプを楽しむ「ソロキャンプ」が密かにブームを呼んでいるらしい。
お笑い芸人のヒロシさんが1人でテントを張ったり、焚火をしたり、バーベキューをするYouTubeの動画が好評を博している。

女房どのが福岡の次女家族宅へ出かけた際、それを思い出し、2日目の夜にソロキャンプの真似事をやってみることにした。正確にはソロキャンプでなく、ソロバーベキューということになる。

昼間、女房どのがよく行くスーパーに食材の調達に出かけた。
肉は、手羽・ナンコツ・砂肝など鶏肉ばかりを4パック求め、キャベツ・レタス・セロリ・キュウリ・トマトと野菜もたっぷり。その他、翌日の朝食用にとキウイ・バナナなどを求める。久し振りのスーパーでの買い物に知らず知らず高揚したのか買い物かごは一杯になっていた。

我が家は角地で裏手は高台になっている。裏庭は燐家と接しておらず、焼き芋を焼いたり、バーベキューしたりするのに好都合ではある。おまけに樹木が多いので、剪定した木々の幹や枝を数年放置しておくと、いい感じの薪となる。それを用いて冬場にさつま芋を焼いたりして楽しんでいる。

夕方、塾生が来る前に下準備を行った。
満開の桜の木の下にテーブルと椅子を配置する。その傍に七輪を置き、焚火のための枯葉と小枝と薪を用意し、取って置きの10年物の赤ワインを冷蔵庫に入れれば準備万端整う。

午後9時過ぎに塾生を送り出すや、早速、食材を抱え裏庭へと向かう。
風もなく、空には星がでている。絶好の夜桜見物日和だ。

焚火の揺れる炎が何とも言えず心を慰めてくれる。
眼下の小浦地区の家並みからこぼれる灯りがイルミネーションのように夜の闇に映える。
見上げれば星が瞬き、焚火の炎に浮かび上がった桜花は妖艶なまでの美しさだ。

形容しがたい心地よさにうっとりし、時間の過ぎるのも忘れて一人、春の夜を堪能していた。