峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

創造しよう

2015年05月31日 | 町内会公民館連絡協議会

一昨日午後1時半から「佐々町町内会公民館連絡協議会」の総会を開催した。
振り返れば、同会では平成21年度・22年度と理事を2年1期、23年度から26年度まで4年2期に渡り会長職を務めさせていただいた。
この日、会則により私を含む3名が役員の任期を終えることになった。思い入れが強かった会だけにその職を退くに際して感慨深いものがあった。

今や、主体的に活発に活動を行っている本会だが、当初、私はこの会を潰すつもりで会長職をお引き受けした。その辺の経緯は、カテゴリー「町内会公民館連絡協議会」の中で記している。

平成27年度に入り、佐々町の自主防災組織立は100%に達した。これは、決して行政の働きかけによってできた形式的なものではなく、私たち住民が自ら考え、話し合いを重ね、そして行動に移した結果だ。
その話し合いの場が「町内会公民館連絡協議会」だった。会長職をお引き受けした頃のことを思えば想像もつかない展開ではあった。

会長職をお引き受けして以降、次々と新しいことを試みた。その中心に据えたのが、この会の主体は、私たち町民であるという点だ。それまで「事務局」(行政の担当課職員)任せで行われていたことの肝要なところを私たち自らが行うことにした。
例えば、それまで会議の回数や日時の設定、協議事項、研修のテーマまで「事務局」任せだったものを全て役員会で協議し、全体会に諮るという形に変えた。
また、自主防災について協議するようになってからは、所管の教育委員会の担当職員だけでなく、総務課・住民福祉課・包括支援センター・社会福祉協議会・議会・消防団・民政児童委員協議会など、自主防災に関係ある組織に声をかけ、いろんな方に出席いただくようにした。よく、縦割り行政の弊害が言われるが、こちら側から働きかければなんの問題もないのだ。

最も厄介だったのが、こちら側の「お上に任せて、ただ文句を言う」的体質の改善だった。
そのために、とにかく丁寧に、そして繰り返し説明を行うよう心がけた。当初、疑問や反発の声もあった。しかし、やがて静かに共感の輪は広がり、熱が伝播していくのがはっきりと感じられるようになった。

自主防災組織は、万が一の時のための備えだ。しかし、例えば災害時の要援護者について考えることは、日常におけるご高齢者のお一人暮らしの見守り・支援につながり、みんなで防災マップを作ったり、それを基にして防災ウォークラリーを行ったり、防災訓練で炊き出しを行ったり、それをみんなで食べたりすることは、世代を超えて地域に住んでいる人々の交流を図ることにつながる。

つまり、自主防災について考えるということは、地域に住んでいる側から福祉を考えることであり、ひいては、地域に住んでいる者同士の新たな結び付きを創造していく営みに他ならないのだ。

私たちは、住民自らの意志で全ての町内会で自主防災組織を作り上げた。もちろんこれで終わりではない。むしろ、これからが大切だ。
未だ死者を伴うような大きな災害に見舞われたことのない自治体で、このように住民主導で自主防災組織が完備されているところを知らない。それ故、これからの私たちの歩みは、道なき道を切り拓き進むようなものだ。大変だけれど、やりがいはある。みなさんで力を合わせ前に進んでいきましょう、といつも申し上げていることを繰り返し、会長としての最後の挨拶で訴えた。

「公民館連絡協議会」総会終了後、引き続き同会場で午後4時から「佐々町観光協会」の総会が開催され出席した。
同会も変革が迫られている。総会では冒頭から同会の在り方に厳しい指摘が相次いだ。総会を前に会長が一身上の都合を理由にその職を引かれたこともあり、「事務局」(行政の担当課職員)がその対応に苦慮していた。理事が誰も何も発言しないので、あえて理事の1人として、同会が大きな変革の時期に差し掛かり、生みの苦しみにあることへのご理解を求めた。

その後、懇親会に参加。いつものように酔っぱらってしまい、金曜日のブログ更新ができなかった。


凛として生きた人

2015年05月28日 | 町内会長

ブログを更新できないのは忙しいからだと思い込んでいたが、考え違いをしていた。書こうと思えば書けるのだ。

昨日は午前10時から、同じ町内会で親しくさせていただいたAさんの告別式に出席した。
Aさんは7年前にご主人を亡くされた後、ずっとお一人暮らしだった。Aさんが町内会の班長さんになられ、役員会に出てこられるようになったのが親しくお付き合いさせていただく契機となった。まだ、ご主人がご存命だったから、私が町内会長役をお引き受けして間もない頃のことになる。
Aさんは当時からご病気がちだったが、杖をつきながらもご主人と共に班長役を懸命にこなされた。1年間の班長の任が解ける際、楽しかった。体が言うことを聞いてくれるならもう1年やりたいと、真顔で語ってくださった。

ご主人が亡くなられた後、お一人暮らしになられてからは、町内会の他のお一人暮らしの方同様、時々ご様子を伺いに訪問させていただくようになった。
玄関を開けると、いつも笑顔で迎えてくださった。たくさんの感謝のお言葉をいただいた。折々、町内会の活動や行事に関して有線放送でご案内かけるのだが、その私の声が聞こえてくるのを楽しみにしているといつもおっしゃってくださった。

お酒がお好きで、たまにお気に入りのお酒をいただいた。私も、旅行などに出かけることがあれば、お土産を買ってきてはお持ちするようになった。
気位が高く、凛とした人だった。単に「お一人暮らしのご高齢者」と町内会長・民生委員という関係ではなく、友人としてお付き合いいただいたように思う。

その後、入退院を繰り返された。最期は自宅でというお思いがお強かったが、それが難しいと今月に入り入院された。病院に2度見舞った。私の手を握り、いろんなことをお話された。いつになく饒舌でおありだった。最期が近いのを、お覚悟しておられるのだと思った。
間もなく、最期はやはりご自宅でとのご希望からご自宅に戻られた。ご自宅に戻られる前日、その旨お電話をいただいた。翌20日水曜日ご自宅にお戻りになられ落ち着かれたころを見計らい訪問させていただいた。やはり、手を握りしばらくお話させていただき、また、お顔を見に来ますからとお暇したのが最後になった。こんなに早く逝かれるとは思いもしなかった。
帰宅されてわずか5日目の25日の月曜日の夜、静かに息を引き取られたと喪主の姪御さんからお聞きした。享年83歳、見事な最期でおありだった。

頼りにしていますからと口癖のようにおっしゃっていた。出来る範囲でお応えしてきたつもりだったが、帰宅されてからの5日間、どうして毎日訪問してさしあげなかったかと悔いを残してしまった。
告別式も終わりに近づく頃、急に涙が溢れてきた。最期のお別れに、みなさんと共に棺に鶴の折り紙と薔薇の花びらを入れさせていただいた。涙がとめどもなく流れた。


考えることばかり

2015年05月27日 | 佐々町町内会連合会長

昨日は、女房どのの愛車「ミト」をコーティングに出すため午前9時に家を出る。
帰宅した後、町内会の集会所で開催した4月分のデイサービスに対する補助金の申請書と、町内会で集まった赤十字の社資募金を町社会福祉協議会に届ける。

その足で役場へ。先ず産業経済課に行き、町内会で集まった宮中献穀田事業に対する寄付金を届ける。
次に総務課に寄り、担当者らと幾つか協議する。また、住民福祉課窓口で町外からの転入者に対して、町内会への加入をお勧めする内容のリーフレットと世帯台帳をお渡ししているのだが、その手続きの一部について、ある町内会長さんから疑問が呈されていた。そのことに関し、総務課の職員と住民福祉課に行き、現在行っているやり方を確認し、協議して改善してもらうようにした。細かいところだったのだが、1人でも多くの転入者のみなさんに町内会に入ってもらうための工夫は必要だ。

その後、保険環境課へ。保健環境自治連合会関係の書類3点に目を通し押印。側におられた保険環境課に嘱託としてお勤めのお二人の町内会連合会の役員さんに、来月開かれる江迎地区防犯協会連合会総会についての話を少し。

帰宅して女房どのと昼食をとり、再び役場へ。
午後2時半から佐世保市役所で行われる「佐々川をきれいにする会」の総会に出席するため、保険環境課長・課長補佐、それに地域婦人会会長さんと共に午後1時半に役場を出る。
同会は、もともと佐々川流域5町で始めたもので30年もの長きにわたり続いている。先の平成の大合併で佐々町以外の町は佐世保市に編入されたが、今も1市1町と形を変え続いている。従って、マンネリであり、矛盾も出てきている。それを指摘し、幾つか提案した。
4時過ぎに会議終了、4時半頃には佐々に戻る。庁舎で課長及び課長補佐とあれこれ協議して、5時過ぎ帰宅。
急いで喪服に着替える。先に、カーコーティングに出していた 女房どのの愛車を引き取るために佐世保市役所近くのガソリンスタンドで女房どのを降ろす。そこから引き返して2、3分の春日町の斎場へ駆けつける。町内会でお世話になった方のお通夜だった。

 


緑眩しい朝に

2015年05月26日 | 町内会長

昨日は、午前10時から正午まで佐々町社会福祉協議会の理事会に出席した。
平成26年度の事業報告書について、また一般会計財務諸表について等の審議事項3件、加えて苦情処理委員の欠員に伴う補充選任について等の協議事項5件をみっちり審議・協議した。

昨夕、少し時間がとれたので裏庭でコントロールショットの練習を行う。

夜、江迎地区防犯協会連合会の総会への出欠確認を、町内の連合会役員のみなさん方に電話で行う。

きょう早朝、親しくお付き合いさせていただいていた方の訃報が入った。

 


腕を磨く

2015年05月25日 | ゴルフ

昨日は「親友会」というゴルフコンペに参加した。コースは「佐世保・平戸カントリークラブ」。

1週間前から前日まで、当日は雨の天気予報だったが、実際は暑くも寒くもない絶好のゴルフ日和となった。

結果は前半イン44・後半アウト55のグロス99、ハンデ15で12オーバーのネット84。30名参加中、27位という不甲斐ない成績に終わった。それでも、夜は楽しく成績発表会。

課題はやはりショートゲームだ。
ラウンドを重ねることで技術を身に付けるのが最善なのだが、それがなかなか適わないとすれば、時間を見つけての裏庭のネットでの練習でコントロールショットを、また、パターマットを使ってのパターの練習を心がけよう。


遊ぶ

2015年05月24日 | ゴルフ

昨日は「正誠会」というゴルフコンペに参加した。コースは「佐世保カントリー倶楽部」。
降雨が心配されたが、なんとか降られずにラウンドできた。結果は前半のインが54、後半のアウトが41のグロス95、ハンデ24で1アンダーのネット71。参加19名中5位の成績だった。

ドライバーからフェアウェーウッド・アイアンのフルショットは、ほぼ問題なくイメージ通りのショットが打てたが、パット・バンカーショットを含めショートゲームがまったくダメだった。
ただし、後半は途中、30台で回れるかなと思うほど正確なショットが打てた。

夕方5時半から場所変えて行われた成績発表に出席、気の合う仲間とグラスを重ねながら、ワイワイ賑やかにこの日のプレーを振り返った。


走る

2015年05月22日 | 佐々町町内会連合会長

昨日は、町内会のご高齢者の皆さん方を町内の「皿山公園」までお連れした。
午前11時、事前に頼んでいた町のマイクロバスに乗り込むや否や話に花が咲く。間もなく10分ほどで皿山公園に到着した。

公園は、周囲の新緑がその緑色を次第に濃くする中、名物のハナショウブの花が咲き始めたていた。東屋に陣取り、お茶を飲みながら再び話に花が咲き出す頃には昼時、用意していた弁当をお配りし、みんなでいただく。

一昨日は、殊の外忙しかった。
午前9時、予約していたカーコーティングを施してもらうべく佐世保市内のガソリンスタンドまで愛車を持ち込んだ。

帰宅して、あれこれしているうちにお昼だ。女房どのと昼食をとり、ゆっくりとお茶を飲む間も無く、午後1時半から住民センターでの「町内会公民館連絡協議会」の役員会に出席した。
この日は、主に来週開催する総会についてあれこれ話し合う。3時10分にようやく終了。同会の役員会は毎回、話が多岐にわたり、熱心な意見交換が行われる。

終了後すぐに役場へ直行する。
先ず総務課へ顔を出し、2,3用事を済ませ、その後、3時半から同じ階の会議室で開かれる町観光協会理事会に出席する。これまた総会へ向けての話し合いだ。この会議が5時20分頃終了。
急ぎ帰宅し、女房どのの愛車「ミトイモラ」に同乗して佐世保市内のGSに私の愛車「159」を引き取りに行く。愛車は綺麗にコーティングされ、その輝きを増し私を待っていた。

ガソリンスタンドからの帰途、俵町の眼鏡屋に寄る。メガネのリムとツルを留める一方のネジがいつの間にかはずれて無くなっていたのをつけてもらうためだ。すぐに直してもらい一旦帰宅する。時計の針は夕方6時半に差し掛かろうとしているところだった。
この日はもう一つ会合が控えていた。
「江迎地区防犯協会連合会」の代表として「江迎地区少年補導連絡協議会」の総会に招かれていた。午後7時から開かれる。愛車「コペン」に乗り換え夕やみ迫る山道を飛ばした。

帰宅するや否や塾生が待つ教室へ。


斎田清祓・播種祭

2015年05月18日 | 佐々町町内会連合会長

一般的ににはほとんど知られていないが、明治25年から始まり毎年、全ての各都道府県で営々と続けられてきている事業がある。各都道府県知事が各都道府県の中から毎年、1自治体を選定し、その自治体の中から選ばれた農家が新穀を宮中に献上する「宮中献穀」という事業だ。かく言う私も知らなかった。今年度、佐々町がその任につくこととなった。昭和34年以来実に56年振りのことだそうだ。

地域農業振興策の一環として米生産地としてのPRを行うこと、あるいは各種団体の交流、稲作文化の継承等に寄与すること、さらには子供たちによる稲作体験や地元住民の交流を促進すること等により、地域の活性化につなげることを目的とするとある。
事業の性格上、町を挙げての取り組みとなる。先だって事業を推進するため、町の主な団体の代表が集まり、奉賛会が設立された。会長が町長、副会長に町議会議長・農業協同組合長・農業委員会会長・商工会会長・町内会連合会長、そしてその他各団体の会長が理事・監事として名を連ねる。

16日土曜日午前11からその事業の一環として、水田を清める「斎田清祓(さいでんきよめばらい)」と斎田に種をまく「播種祭(はしゅさい)」が宮中献穀奉耕田の指定を受けた水田で行われ、出席した。

17日日曜日午前10時から「佐々町老人クラブ連合会」の総会が開催され、来賓として出席した。

ブログの更新を続けようと頑張ってみたものの、土曜日の斎田清祓・播種祭の後の直会(なおらい)から流れ、はしご酒となり帰宅して、ばたんきゅう。あえなく4日で終わった。


任せて文句を言うだけの在り方を変えよう

2015年05月15日 | 町内会長

3月下旬から6月中旬まで様々な組織の総会が続く。ざっと数えても両手の指で足りないほどだ。主催者として総会を催すものもあれば、会員として参加するもの、お招きをいただき出席するものもある。

去る3月22日(日)、地元町内会の総会を開いた。26年度までで、町内会長を10年間の長きに渡り務めさせていただいた。
私の住む町内会の会則では、町内会長の任期は1年となっている。再選を妨げないが、それも5年を限度とする。5年経過した時の総会で新たにそこから5年までの特例措置が設けられた。そこから5年、そうして10年目を迎えた。

町内会長を始め役員の選出は、総会において会員の中より選挙または推薦により決められる。推薦の場合、その母体は町内会11班のその年度の班長で推薦委員会を構成し、その任に当たることになっている。

毎年、推薦委員会が機能するよう役員会の都度お願いしてきたが、26年度も10月の定例役員会の折から新しい町内会長を推薦していただくよう強くお願いしてきた。
それにもかかわらず結局、新しい町内会長を推薦していただくことはかなわず、事前に私へ推薦の打診があった。

私としては、町内会長という役割をお引き受けして今日まで存分にやりたいことをやらせていただいた。まだやりたいこともあるが、きりはない。
私は、誰に言われることなく己が極めて未熟な人間であることを重々承知している。が、それでも幾らかましになってきているところがあるとするならば「町内会長」とか「民生児童委員」とかの役割を務めさせていただいたからに他ならない。
したがって、私が続けられない理由はない。ただ、私自身のことより、町内会にとってよくないのだ。

とりあえず投げ出すわけにはいかないので27年度もう一期お引き受けることにした。
町内会の皆さんに、何故私がこのままずるずる続けるのがよくないかご理解いただくいただくため丁寧な説明を続けるしかない。

 


より高く

2015年05月14日 | 民生児童委員

昨日、午後1時半から開かれた町の民生児童委員協議会の定例会に出席した。

佐々町民生児童委員協議会は、民生委員児童委員31名と主任児童委員2名からなる。協議会には「子育て支援・児童福祉部会」「高齢者・在宅介護福祉部会」「障害者支援部会」の3つの部会があり、各委員はいずれかの部会に属し、それぞれの担当地区での個々の活動の他に、部会に関係する研修に参加したり、関係する団体の会合等に出席したり、はたまた事例研究を行ったりしている。

私は、「高齢者・在宅介護福祉部会」に属している。
高齢者・在宅介護福祉部会は毎月の定例会の後、必ず独自に会合を開くようにしている。この日も定例会終了後に部会のメンバーが集まり、2名の委員の事例をもとに、要支援者に対する接し方、見守りの仕方等について話し合った。

少子高齢化、未婚化、人間関係の希薄化、あるいは雇用の在り方や働き方の変化等を背景に新たな福祉課題が顕在化してきている。
支援を必要としている人に、どう寄り添うことができるのか。あるいは、関係機関と連携し、いかに彼らの生活の質を確保してさしあげられるのか、民生児童委員の役割は益々その重要性を増している。いっそうの研鑽が求められていることを自覚したい。