峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

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旧友の訃報

2021年02月26日 | 暮らし
連日、雑木林の手入れに精を出している。樹木の剪定や伐採など冬場にやっておきたい仕事が順番待ちしている。
そんなある日の午後、作業中にのどを潤すべく、いつものようにコップ一杯の水を女房どのに頼み、それを飲み干し、作業に戻ろうとしたときだった。屋内に置いていた私のスマホの着信音が響いた。
学生時代からの友人である増田から川島が亡くなった旨の電話だった。

川島との出会いは大学入学後間もない頃になる。当時、東大で始まった学園紛争も終焉期を迎え、バリケードが築かれていた東京練馬区江古田の日大芸術学部キャンパスも体育会系の学生が自主警備を行っていた。
ボクシング部に入部して間もない私も、鉄パイプで作られたゲートで行われていた学生証のチェックに駆り出されたりしていた。

その頃、ボクシング部の1年生は私1人だけだった。幹部に命じられた2年生は必死に新入生の入部勧誘を続けていたが、2年生の一部の先輩から私にも圧力がかかり、昼休みの中庭などで誰かれなく声を掛けては入部を勧めていた。それに応じてくれたのが川島と高岸の2人だった。

川島とはすぐに親しくなった。横浜の桜木町の彼の実家に招かれ、しばらくの間そこから一緒に通学するほどだった。
川島は放送学科、増田は映画学科、そして私は演劇学科と学科は異なっていたが、増田は合気道部で、その他にも合気道の田中、少林寺拳法の鼓など自然と体育会系の連中と仲良くなり、そのうち数人は四六時中一緒にいるようになった。

大学の3年の頃だったか川島と2人きりで酒を飲む機会があった。今となっては何の話題だったか定かではないが、議論が平行線をたどったままになった。どうして分かってくれないのかと涙がこぼれた。
決して分かり合うことが出来ない人間が存在するのをその時に思い知った。喧嘩別れをしたわけではないし、嫌いになったわけでもなかったが、それから川島とは自然と疎遠になった。

卒業後も増田とは電話で話したり、上京した折、食事をしたりと交友が続いている。
川島のその後のことは増田から色々聞いていた。特に晩年は境遇に恵まれず酒に溺れたりしていたようだった。

多感な青春期に出会い、一時濃密な時間を共にした川島とは結局その後、会うことはなかった。だから、思い出すのは、あの頃の若くて健康そのものの彼の顔と姿だ。
川島の笑顔が浮かんでは消える。ありがとう、川島。